第弐佰玖話:災い
織田軍率いる柴田勝家の下に上杉軍撤退の報せが届いた。
「さすが上様だ」
「北条の従属も時間の問題でしょうな」
「はてさて、織田家の勢力はどこまで伸び征くのやら」
「天下(畿内)には収まらぬ御方よ」
その報せは大いに織田軍を沸かせた。信長が事前に仕込んでいた搦手、北条との連動である。上杉に楽をさせぬための一手であったが、その効果は想像以上であった。今までの戦績から考えても上杉謙信と言う男は本拠地である春日山の危険を何よりも避けたがる傾向があった。特に顕著であったのが小田原攻めの際。
北条と同盟の武田が放った苦し紛れの海津城構築。確かに北信濃の備えを固められたなら目と鼻の先の春日山には危険が及ぶ可能性が高まる。
だが、だからと言って勝ち確の戦を放棄し、撤退するのは過剰であった。其処を信長は謙信の泣き所と見たのだ。
今までは上杉との同盟の手前、北条と密に付き合うことは出来なかったが、己が領土の静謐を求める方向性では一致している。
彼らが水面下で手を結ぶのにさほど時間は必要なかった。
「どうした、藤吉郎よ」
「いえ。お気になさらず」
「……む、そうか」
しかし、羽柴秀吉だけは吉報に対し斜に構えてしまう。彼も謙信を調べて思ったのは優先順位のちぐはぐさであった。春日山を重要視している、大まかにはそうである。ただ、そうまでして守ろうとした北信濃の大半は結局武田が取って、上杉は取り返そうと言う素振りすらない。勝頼に代替わりし、長篠での大敗も含め隙はいくらでもあったのだ。だと言うのに謙信は不動を貫いている。
春日山第一、と言うのも違う気がする。
だが、それならば謙信が何を優先しているのか、其処が見えないのだ。考えが見えない。ゆえに読みが働かない。
「……」
そしてもう一つ、懸念点があるとすれば本願寺、一向宗の動きである。百姓の治むる国、もとい本願寺が治める国である加賀国。其処までの道中、織田軍は4万を超える大軍かつ足場固めしつつと言うのもあるが、かなり足の遅い進軍が続いていた。
その最大の理由が一向宗門徒の妨害である。
今、織田にとって主な敵は毛利、本願寺、そして上杉である。場合によってはこれから増える可能性もあるだろうがそれは横に置く。
上杉撤退の報せが織田陣営にまで届いた以上、一向宗が大人しくなってもおかしくないはずなのだ。上杉が手を引けば此度の包囲網も瓦解する。織田の動きを妨害する理由がない。それなのに彼らは連日、ゲリラ戦術で織田の足を引っ張り続け、苛烈な抵抗を続けていた。上杉の撤退を知り、消沈するどころか――
上杉の撤退を知り、それでもなお苛烈な抵抗を続ける理由。
(……撤退することを、あらかじめ知っていた?)
結局、『何故』に手が届かぬまま悩む秀吉。知っているのでは、と推測したところで、その先は何も見えない。わからない。
どれだけ抵抗を強めたところで、北条を対処するために上杉が関東へ向かえば織田軍の方が遥かに早く七尾城へ合流することが出来る。こうしてきっちり足場を固めながら、憂いを断ちながらの進軍であってもそうなるだろう。
なら、事前に通告していたとしても一向宗が積極的に協力する理由にはならない。むしろ最初から手を抜く理由にすらなるやもしれない。
何もわからぬまま、ただ気持ち悪さだけが降り積もる。
嫌な予感は未だ拭えぬままに――
今回の報せを受け、一旦織田軍は越前の足場固めに注力することとなった。彼らをしっかりと押さえつけねば、後々何かあった時に厄介な敵と成る、と考えたから。あとは北条がどれだけ働くか、其処にかかっている。
上杉が関東へ向かえば、だが。
○
上杉謙信は一人、上田荘のとある場所へ訪れていた。誰も寄り付かぬような場所にぽつりと立っている小さなお墓。無縁仏で誰の名も刻まれていない。
その墓の前で謙信は座り込み、墓前に添えるは握り飯。
「随分遅くなった。ようやくの、向き合う覚悟が出来たのだ。許せ、梅よ」
墓は何も言わない。ただ其処に在るだけ。
「……しかし、天才の俺も料理の才能はなかったようだ。特に梅干しはいかんな。ぬしのようにはなかなか漬からん。おかげで握り飯もピリッとせんのぉ」
握り飯を喰らい、つい癖で酒を飲みそうになったがぐっと我慢する。彼女の前で見せる姿ではないから。今くらいは我慢する。
「あの世とやらがあるのなら、俺はぬしと同じところには行けぬ。さすがに血にまみれ過ぎたわ。そして、ここから先も今以上にまみれよう」
ただの独り言。
「ぬしが嫌いな戦に好かれた。ぬしを失った俺は戦に没頭した。その結果、ぬしを殺したモノをも利用し、勝利をもぎ取りに行くのだから救えんよ、俺は」
自ら作った握り飯をかっ喰らい、謙信は立ち上がる。
「弥太郎は元気でやっとるよ。この前も文が届いておった。情勢はきな臭いが、あれも立派な琵琶法師、どこぞで上手く生き抜くだろう。今日はまあ、その報告だ」
あの日々は自分にとって林泉寺、栃尾に連なる例外的なものだった。
「嗚呼、あの時は言えなかったがの。ぬしとの日々、楽しかった。幸せだった」
謙信は墓前に背を向け、
「だが、また会うことは敵わぬ。俺はぬしの嫌いなものを呼び込む。争いを振りまく化生だ。だから、俺は一人で征く」
歩き出す。
「何人たりとも、俺に並び立つことはない」
幸せな思い出は遠く。ただ、今は修羅を征く。
「ゆえに……さらばだ」
遠く、謙信の馬のそばに甘粕景持が控える。
何も言わずに――
○
能登畠山を率いる長続連の下へある報せが届く。
「……まことか!?」
「確かでございます」
「……早過ぎる」
天正五年閏七月、上杉謙信が関東ではなく能登へ向かい再び出陣した、との報せである。撤退してから三か月少々、関東へ上杉軍が越山した情報は届いていない。てっきり一度撤退した以上、いつもの如く関東で北条と殴り合うものと思っていた。思惑は外れ、上杉がまた来る。
とは言え――
「備えは?」
「万全にございます」
「ならば今一度、上杉めに見せてやろう。この七尾城の力を」
「はっ!」
上杉の再侵攻、完全に思惑の外であったわけではない。
いずれ来るとは考え、七尾城へ能登全体の物資を集約、さらに織田家から海路で輸送された支援物資も受け取り、立てこもる準備は万全である。あとは巨大な七尾城を守る人員を呼び寄せるだけ。
「勝てると思うたか。間抜けめ」
負ける要素はない。野戦と違い攻城戦はまぐれなど起きぬ戦いである。しっかりと守り抜く。それだけで織田軍が再始動し、上杉は滅ぶのだ。
そう、彼らがここに捨て置いた留守居共のように。
長続連は侵略者である上杉軍、その残党を徹底的に打倒した。自害した者、捕らえ処刑した者、ただの一人も許しはしなかった。
もはや軍神などと恐れるまい。所詮は他国の英雄、この能登の地では畠山こそが、否、長家こそが最強であるのだ。
最強の守り、この天宮(七尾城)がある限り。
○
能登畠山、長続連は能登中から戦力をかき集め、七尾城に収容した人員は一万五千に膨れ上がっていた。今はすでに上杉が湊を押さえているのだろうが、すでに物資は七尾城へ運び込んであり、一時停止した織田軍が来るまではどれだけ遅れたとしても耐えられる目算であった。ゆえに後は、ただ耐え忍べばいいだけ。
上杉軍も反転攻勢で抜けると思ったのか、それとも続連が他の城に固執し七尾城の兵力を分散することを祈ったのか、結局包囲するだけで代わり映えしない。
何も変わらぬ日々。ただ散発的に突っついてくるばかり。
今は、それすらも止んだ。
「折れたか」
続連は嗤う。軍神と気取っていた男もただの人でしかなかった。信長も妙に警戒していたようだが、この七尾城にかかれば造作もない。
他の城はまた取り返せばいい。空き城が欲しければくれてやる。だが、この七尾城は落ちぬ。落ちるわけがない。
この城こそが最強、それを支配する己もまた――
「く、くろう」
「どうされましたか、春王丸さ、ま」
長『九郎』左衛門尉続連は幼き自らの主君、もとい操り人形へ目を向ける。可愛い可愛い畠山春王丸。親族のほとんどを滅ぼし、ようやく手に入れたのだ。
己がこの天宮を支配するための大義を。
その大義が今、
「顔が、へんなのだ。あと、からだも、つらい」
「……疱、瘡ゥ」
「くろう。なおして――」
「近寄るなァ!」
「っ」
崩れ去ろうとしていた。
疱瘡、天然痘はこの時代、猛威を振るっていた疫病である。現代では人類が勝利した疫病として有名だが、この時代治療法は確立されておらず罹患したなら運よく生き残るか、死ぬか、神に祈るものであり人知の及ぶものではなかった。
「どうされましたか!?」
「春王丸様が体調を崩された。別室で休ませよ」
「は、はい!」
「くろう。わたしは――」
「大丈夫です若様。必ず治りますので、お部屋で養生なさってください」
有無を言わせぬ口調に幼き春王丸は黙るしかなかった。
しかし、ここは七尾城の本丸、最も安全な場所であるのだ。疫病の多くは人を介し伝播していくもの。罹る可能性は低いはず。
であれば、
「……下の様子は?」
こちらよりもずっと人の多い城下町の様子は想像に難くない。
「あの、以前にも報告させて頂きました通り、疫病が発生しており」
「隔離せよ、と命じたはずだ」
一次発生時点で封じ、場合によっては病人を外へ遺棄せよ、とも命じてある。続連からすればそれで終わった話。籠城時にはよくあること。
しっかりと対策すれば何とかなる、はずだった。
「隔離させました! ただ、その、どうやら我々の知らぬところで広がりつつあるようで。某の方にも少し前にその、報告が」
「ぬしらが保身のために報告を怠り、その結果春王丸様が疱瘡に罹ったのだぞ! 全てはぬしらの落ち度、主君を殺したも同然だ!」
「申し訳ございません!」
「腹を切れ。連絡に携わった者全員だ」
「……ははっ」
恐怖、混乱、保身、長続連の見ていなかったところで七尾城は内側から崩壊を始めていた。人知の及ばぬ疫病、神がもたらした災いによって。
「何と言う、ことだ」
この天宮を神は見捨てたのか、と続連は貌を歪める。
○
「御実城様、今日は如何されますか?」
「待機ィ」
「はっ」
静かなる七尾城。それを睥睨し上杉謙信は、
「ぶはっ」
嗤う。
神がもたらした災い。されど、振り撒くは何も――神の手とは限らない。
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