第弐佰捌話:崇拝者、逝く

 織田信長の強さの秘訣は常に王道を征くことにある。時折、対峙する者に翻弄されて結果として奇策と成ることはあっても、王道こそを第一とする考え方は昔からずっと一貫している。野戦なら数を揃え当たり、攻城ならば包囲し兵糧を断つ。

 基本に忠実、読みやすい上に信長は戦の作法にも則ることが多く、先んじて相手に自らの手を開示することもしばしば。

 ゆえに彼は常勝不敗ではない。それなりに敗れている。

 だが、今な天下の大大名である。

 信長が王道に忠実なのは何も頭が固いわけではない。王道こそが最強である、と固く信じているのだ。策士が溺れるは常に奇策。その対極にある王道とはつまり、最も勝利への再現性、確率が高い形である。時に敗れることもあるだろうが、常に、徹底してそれを続けたなら勝率は高く収束していく。

 それが天下を掴んだ男の戦である。

 ゆえに信長は、

「任せたぞ、権六」

「御意」

 まず越前の完全なる平定及び加賀への進軍経路確保を柴田権六勝家に託した。上杉が能登を攻めるのと同じように、背後に脅威を抱えていては戦にならない。未だ火種くすぶる一向宗を駆逐し、安全に進軍できる足場を固める。

 能登の長家より七尾城への救援を求められていたが、信長はまず足場固めを優先する。理由としては七尾城が堅固であり容易く落ちぬ点、それと別で一つ揺さぶりの手を打ち、その反応を確かめたい点などが挙げられる。

 無論、前述通り後背の危険を取り除くと言うのが第一、であるが。

「上様はなんと?」

「ほぼ終わっているが未だ加賀方面ではくすぶり続ける一向宗を駆逐しつつ前進、制圧、前進を繰り返す。まあ、いつものやり方だ」

「ブレませんね」

「それが上様の強さだからな」

 上杉謙信を前に誰もが焦りたくなる。今こうしている間にも七尾城が、能登が落ちて加賀に前線拠点を築かれているかもしれない。

 手取川水系を盾とした拠点作りであればともかく、それを越えられた地点に拠点を構えられたなら、互いに河川や湿地帯と言う天然の盾なしに殴り合う熾烈な総力戦が待っている。総力戦自体は望むところだが――

(相手十分の形ではやりたくない。出来れば、こちらに主導権が欲しい)

 北陸方面軍の総大将を任された勝家の思い描く最善は、まず七尾城を包囲する上杉軍を攻撃すること。救援が間に合うと同時に、能登畠山の軍勢との挟撃となるため、まず必勝の形となるだろう。目指すは其処である。

 ただ、もし間に合わずとも戦力で勝る織田軍なれば、互い十分の形で正面衝突ならばやはり勝てる、と勝家は考えていた。

 ゆえに次点は手取川を相手に利用させぬため、あらかじめ渡河してしまいがっちりと陣を敷いた上で相手を迎え撃つ。

 最低限上杉軍に渡河さえさせなければ互いに手取川水系を挟み対陣、となる。こうなると互いに仕掛け所はなくなり、決戦に至らぬ可能性もあるだろう。

 それは勝家の中では避けたい選択肢であった。現在、織田家は決して安泰ではない。畿内はある程度固まってきたが、それでも油断ならぬし、いつ味方が裏切るとも限らない。地方には敵も多く、何よりも室町公方が反織田を掲げ続けている。

 場合によっては上杉との決戦を避けたことで全体の状況は悪化。上杉に対応する余裕がなくなり陣を引き払ったところで彼らは悠々と無血で加賀を取る。

 織田としても今回、危なげなく勝利し改めて天下へと示さねばならぬのだ。

 今の織田に敵はいない、と。

 ゆえに勝家に課せられた仕事は必ず勝利すること、これが大前提で危なげなく極力時間をかけずに決着をつけること、であった。

 まずは最低限、危なげなく、を確実なものとするためにしかと制圧して加賀入りを果たす。毛ほどの可能性すら残さずに。

「評定だ、藤吉郎」

「……はい」

「歯切れが悪いな」

「今、情報待ちでして。それ次第では戦い方も変わるかな、と」

「織田の戦ではないが、まあそれがぬしの強みだ。何かあれば言え」

「はっ」

 そして、柴田勝家を中心とした織田家の精鋭が集う。

 勝家と双璧を成す丹羽長秀。明智光秀と共に織田家のダブルエースを務める羽柴秀吉。西美濃四人衆の安藤、稲葉、不破、他にも織田家の『搦手』を統括する男、滝川一益や氏家、佐々など枚挙にいとまがないほどの才人が座す。

「上様より七尾城救援及び上杉謙信討伐の命が下った。この戦の先に天下布武が、真の静謐が待っている。必ず勝利するぞ!」

「おうッ!」

 英傑たちの車座に勝家も加わり、ここから始まる戦の話し合いが始まった。


     ○


 上杉軍は七尾城を囲みながら越年、完全に手詰まりの状況へ陥っていた。周り全てを制圧し、それでも織田家の救援を信じ七尾城は微動だにしなかった。と言うよりも実権を握る長続連がさせなかった、と言うのが正しいか。

 その上、

「ごぼ、ごぶ」

 謙信の右腕たる直江景綱もまた病状が悪化し、余命幾ばくもない状態であった。謙信は他の者を人払いし、哀しいほどに痩せ細った男を見つめる。

「……北条が動いた」

「ごぼ、がは、ふは、は、やはり、我が龍は、ふふ、神に愛されて、おりますな。まがい物の、奇跡はここまで。本物にこそ、ごほ、風が吹く」

「違う。神ではなく織田が動かした。それだけだ」

 つい先ほど、春日山より北条氏政が上野国へ軍を起こした、と言う情報が入った。北条軍の動きの理由は不明だが、謙信はそれを織田と結んだのだと推測する。

 氏康であれば容易く手を握ることもなかっただろうが、其処はあの小田原の悪夢を未だぬぐえぬ息子である。上杉の敵ならば味方、十分考えられるだろう。

 とにかく北条が動いた。これで謙信も選択が迫られる。

 このまま包囲を続けるか、戻るか。

「細工は?」

「ごほ、流々」

「そうか。大義であったな、景綱」

「……だから、景綱、と……ああ、参った。ふふ、このやり取りが、ごほ、どうやら、私も気に入っていたようです。折角の、お言葉を」

「もう休め。ぬしは充分働いた」

「河田、らは?」

「ぬしを引き継ぎ、『大役』の任命を行っておる」

「ああ、捨て石、ですか」

「……そうだな」

 謙信はため息をつき、彼の前に腰を下ろす。

「死ぬか」

「そのようで」

「怖いか?」

「ごほ、いいえ。充足、しております、ので」

「そうか。俺はぬしが嫌いだ。生涯許さぬ」

「ええ」

「何度殺そうと思ったかわからん」

「でしょう、ごほ、ね」

「だが――」

 景綱の口からこぼれた血を、謙信は自らの着物の袖で拭う。

「……?」

「ぬしのおかげで弱い俺には言い訳が出来た。ぬしのせいで……それが、たった一人の命を、其処から生まれる命を、支える勇気すらなかった俺の言い訳だ。ぬしを殺し、文と共に歩む。選択肢は常にあった。ただ、選べなかっただけで」

「……」

「梅を失い気づいた。やはり、俺は弱かったのだと。失う辛さに耐えられぬ。だから、ぬしは正しかった。誰とも寄り添わぬから俺は、ここにいる」

「ごほ、それは、違います。誰よりも、強いから、ここにいるのです」

「ぶはは、これは罰だ。俺の弱さを知り、逝け。俺はぬしを嫌悪し、殺したいと思っておる。されど、それと同じくらい信じ、今この時傷ついておる」

「……ごほ、酷い、御方だ」

「ぬしが悪い」

「……です、な」

 大嫌いだった。殺したいと思っていた。ただ、それでも腹の底から自分に付き従うと信じられ、引きずり回しても自分から離れない。才能と執着、彼には龍の右腕たる器があった。だから、どうしても憎み切れない。

 ほんの少しだけ後ろにずっと、彼の気配があったから。

「だが、俺は龍と成ろう。天地に示す、俺が最強であると」

「……素晴ら、しい」

「それがこの俺に、最後まで喰らいついてきた褒美だ」

 直江景綱は満面の笑みを浮かべる。

「さらばだ」

「ええ。ではまた、いずれ」

「やはり……キショいのぉ、ぬしは」

 天正五年三月五日、直江景綱は病没する。直江家の後任は養子の信綱に、実務に関しては近衛絶と共に越後入りした河田長親へと滞りなく引継ぎを済ませていた。最後の最後までそつのない、隙のない男であった。

 そして――


「ふ、ははははは! 何が軍神か、腰抜けめ!」


 直江景綱の遺体と共に上杉謙信は越後へ、春日山へと戻る。七尾城の包囲を解き、各地に最低限の戦力だけを残して、後は完全に引き払ったのだ。

 誰がどう見ても、諦めたようにしか見えない。

「今こそ反撃の時ぞ! 能登国の力を示せ!」

 そして、七尾城から烈火のごとく能登畠山の軍勢が残された上杉軍へ、能登各地の城へと襲い掛かる。その勢いは凄まじく、瞬く間に奪い取られた城を奪い返し、あっさりと能登の支配を取り戻して見せたのだ。

 織田の救援なしで。

「織田家へ伝えよ。上杉軍を撃退した、と」

 春王丸を担ぐ長続連は高笑いをする。堅牢なる七尾城の前には軍神とて無力。また攻めてこようが返り討ちにしてくれる。無論、油断する気はない。また包囲される可能性を見越し、早急に能登全土から七尾城へ糧食を送り、備蓄する。

 何度来ても跳ね返すのみ。

 ここは七尾城、天宮輝く日本五大山城が一角である。

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