第弐佰陸話:深謀遠慮
天正四年九月、上杉謙信が越中の地に足を踏み入れる。
現在、一向宗の総本山たる本願寺とは和睦済みであり、本来は味方であるはずだが長年敵対関係にあったため反発、越中守護代であった椎名康胤を掲げ徹底抗戦の姿勢を示していた。椎名自身、本庄繁長が謙信に反旗を翻した折、武田の調略に乗って裏切っており、その道しかないような状況であったのだ。
一向宗の結束は固く、正攻法とは程遠いやり口で上杉を、長尾を苦しめ続けてきた。今回もそうなる。彼らはそう思っていた。
椎名もそうなると思い、越中一向宗に身を預けたのだ。
だが、
「何故、こんなにも早く、上杉がここへ来る?」
上杉軍の足は以前の侵攻よりもさらに速く、椎名らの想定を遥かに上回っていた。いくら何でも早過ぎる。
「何故だ!?」
その答えは上杉軍の陣容にあった。
椎名は「ひゅっ」と言葉にならぬ悲鳴を上げる。毘沙門天、かかれ乱れ龍の旗に混じり、彼らも見知った旗が混じっていたのだ。
それは、自分たちが使っていた旗印であった。
富山城など一向宗が越中各地で押さえていた、と思っていた城は軒並み、上杉軍の到達と同時に白旗を掲げ、『裏切り者』共は堂々と上杉陣営に与していたのだ。いくら上杉軍が強大であろうとも、数で押し潰せぬのが城と言うもの。
それがこの早さで落ち、ほぼ無傷で上杉軍はここまで到達した。
ならば、答えは一つしかない。
「……初めから、落ちていたのか?」
武田のお家芸、調略を上杉が使っていた。そう考える以外、この早さとあの陣容を説明することは出来ない。以前の侵攻よりも早い攻めなど、物理的にあり得ないから。一枚岩であるはずの一向宗が『全て』抵抗しなかった、それが答え。
「ご明察にござる」
椎名と共に越中の一向宗を率いていた僧侶が倒れ伏す。その背後には同じ仲間であるはずの僧侶たちが血濡れた槍をこちらへ向けていた。
一人の僧が小刀を投げて寄越す。
「情けです」
「……ありがたし」
そして、越中守護代椎名康胤は――
○
「城内より首が届きました。改めますか?」
「要らん。ぬしが見ておけ」
「御意」
河田長親に面倒ごとを押し付け、謙信はのんびりとくつろぐ。
あっさりと上杉軍は越中を完全に制圧した。祖父の代より続く因縁の地、其処に謙信が終止符を打ったのだ。
この男に特別な感慨はない。そもそも龍の視点から見ればこの越中、前回侵攻の際に落とし切っている。中にいた彼らが気付かなかっただけで。
さらにダメ押しの総本山たる本願寺との和睦もある。
「実綱ァ」
「景綱です。何か?」
「例の手配は済ませたか?」
「無論。ごほ、私に手抜かりはありませんよ」
「……そうか」
「私好みの策です。必ず成功させて見せましょう」
頼られて嬉しそうな景綱。思えば己の幼少期を知る者はこの男のみとなった。そうし向けた男であり、好きになることも同情する気もさらさらないが――
「体調は、どうだ?」
謙信からの問いに、景綱は驚きながら振り返る。
その貌を見て、
「私如きに心配は無用。龍は凡夫を顧みず、ただ見下ろすのみ、です」
笑みを浮かべながら向けられた感情を切り捨てた。
「……ぬしは徹底しておるな」
「私の願いを私が踏み躙るなどありえない。それだけのことでしょう」
それだけ言って景綱はこの場を去っていく。おそらく彼も長くはないだろう。齢六十八、若く見えるがとうの昔に現役を退いていてもおかしくはない。それでも嫡男を、後継者を設けぬことで彼は継承者不在のまま直江の家長であり続けた。
全ては上杉謙信の少し後ろで、彼を見つめ続けるために。
「……盛者必衰。誰もが栄え、老い、そして死ぬ、か」
今日も何処かで誰かが死んでいる。誰かが生まれている。そうやって人は新しいものに流され、古くなり、最後は露と消える。
それでも男に残った人間の部分は思う。
身近な人には生きて、永らえて欲しいのだ、と。
それが意味のない願いであることを知りながら――
○
「あっさりと越中一国を……さすがは御実城様ですね。まさに毘沙門天の化身!」
「近衛殿、騒ぎ過ぎですよ」
「これが騒がずにいられましょうか!」
すっかり甘粕景持の副将として現場にこなれた近衛絶は圧倒的な勝利に喜んでいた。戦らしい戦もなかったが、ほぼ無血の開城が続いたため血生臭いことも起きなかったから彼女も上機嫌であったのだ。どれだけこなれても、火付けや乱取りなどは好きになれぬようで、関東遠征は口に出さぬもののかなり応えていた。
まあ、それに関しては彼女だけではないが。
「随分とお姫様は楽しそうですな」
「本庄殿」
「……むう」
そんな二人のそばに揚北衆が一角にして、数年前に反乱を起こした張本人、本庄繁長が現れた。彼は甘粕や近衛らとは対極に、火付け乱取りを存分に楽しみつつ、其処で得た糧を領内へ配るのも領主の責務、と言ってはばからぬ男。
間違いではないが相容れぬ考え方を持つ存在である。
「この方を姫と呼ぶのはやめて頂きたい」
「では何と?」
「ただ、近衛殿と呼べばよいでしょうに」
「それは失敬。今後はそうさせて頂きますよ」
加えて甘粕はこの男の獣じみた雰囲気が反乱以前から苦手であった。常に謙信の首を狙っているような、揚北衆の嫌な部分を煮詰めたような、そんな雰囲気。
そんな彼を謙信が好ましいと思っているのも嫌だった。
「今回は暴れぬのですね」
「別に。持ち帰れぬ荷物を得ても邪魔なだけ。そも、一向宗に半分乗っ取られたような土地に、今更美味しいものなど残っていない。やるなら、本山」
「和睦済みですぞ」
「和睦、ええ、その通り。利害が一致している今は手を取り、隙を見せたら手を切る。我々が京に、堺に、踏み込んだならそれは隙も同然。蹂躙し、奪い取る価値がたんまり、だ。楽しみだなぁ、甘粕殿。天下を踏み荒らす時が」
「……」
本庄繁長は大笑いしながら二人に背を向け去って行った。両名とも先ほどまでの祝勝気分はどこへやら、凄まじい表情を浮かべていた。
「私、あの人嫌いです」
「まあ、好きな人は少ないですよ。でも、強い」
「……甘粕殿の方が上です」
「それはどうも」
防衛側を持てば甘粕も負ける気はないが、上杉軍にその機会はほとんどない。基本的に攻め続けるのが上杉軍の在り方である。
その中で本庄繁長と言う男は良くも悪くも向いていた。
「京も、やはり焼かれるのでしょうか」
「……織田次第かと」
そう言いながら甘粕は思う。謙信ならとりあえず火をつけるし、とりあえず暴れ散らかすだろうな、と。だが、京は彼女の地元、今は包んだ言い方をしておく。
「別に実家のことは考えていませんよ。と言うか、お兄様含め妙なことになっているみたいですし、もしかすると今回で五摂家と言う枠組みも消えるやもしれません」
「……残念ですか?」
「全然。むしろそちらの方が良いです」
近衛は嬉しそうな表情で前を向く。
「自由の身で京を歩くのもよきかな、と」
「その時は河田殿と凱旋ですな」
「……? 甘粕殿、ではなく?」
「……」
甘粕景持、すでに妻子を持つ身であるが、どうにもこの近衛絶と言う娘の扱いには難儀していた。平気で家に入り込み、子どもたちには好かれ、女房とも仲が良く、それでいて距離感がとても近い。
「あ、でも堺の方が楽しみですね!」
「もう行くことは前提なのですね」
「それはもう。届くでしょう、この勢いならば」
「ですね」
まさに破竹の勢い。誰が今の上杉軍を止められると言うのか。今回の遠征、長年謙信の戦を見てきた甘粕にとってもいつもと違う気配を感じていた。本気度が違う。今までが相手に合わせた遊び、今回は正真正銘の本気、そんな気がした。
なら、誰も彼を止められる者などいない。
少なくとも甘粕には想像も出来ない。上杉謙信が敗れるところなど。
彼を誰よりも知る直江文が言っていた。
『とらの本気は誰も見たことがない』
と。
自らに課したすべての枷を外した龍が相手に合わせ楽しむことすら放棄したなら、それはもう相手にとっては悪夢でしかない。
世間では大局に難ありと言われるが、そんなものやらなかっただけである。其処まで手を伸ばしたら敵がいなくなるから、手を出さなかっただけ。
深く考え策を練る。むしろそれは龍の得意分野である。
○
佐久間信盛の与力として織田陣営に出戻りした松永久秀はただ言われたまま働く日々を送っていた。自らの主君、その座をかすめ取った男への怒りはある。ただ、今の信長に一矢報いることすら、全てを失った己には出来なかった。
ゆえの虚ろ。しかし――
「父上。密書でございます」
「……密書? 今更私に、誰が――」
「越後の上杉殿からです」
「……見せろ」
龍の描いた絵を見て、久秀は大笑いした。腹の底から笑った。そうだ、まだいるじゃないか。あの人が、竜が認めたもう一匹の龍が。
やはり大物。竜の見立てに間違いはなかった。
「ふ、くく、そうか。そうだな。……彦六、父は死ぬが、どうする?」
「お供いたします」
「愚かだな」
「おそらく、父上に似たのかと」
「……そうか。なら、仕方がない。私についてこい」
「はっ!」
すでに力なくとも、足を引っ張ることぐらいは出来る。己の生存敵わずとも、あの男を竜の座から引きずり下ろせたならば本望。
「存分に、笑ってください」
誰に向けたかわからぬ言葉と共に、今一度かつて日本の副王の右腕であった男は立ち上がる。すでに三好家はなく、ただ揺蕩うのみであった己の、一世一代の大勝負。命を張り、ただ示す。竜への揺らがぬ忠義を。
其処に仕えるべき家はなくとも――
『よォ、そなたが松永家のあぶれ者か』
『それが何か? ところでどちら様ですか?』
『知りたければ俺様についてこい!』
『……普通に嫌なんですが』
仕えるべき主君は、心の中にあるのだ。
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