第弐佰伍話:理解不能な存在

 天正四年八月、春日山には揚北衆を含む越後有力国衆が勢揃いしていた。皆、上杉謙信の号令でこの場に馳せ参じたていたのだ。

 四十年前、彼らは長尾為景の影響力低下に乗じ、好き放題やっていた。同じ国内に住まう敵同士。争いの絶えぬ状況下であり、長尾晴景も苦心していた。

 あれから四十年、まさに光陰矢の如し。

 彼らは今、ただ一人の御旗の下に一つとなる。心の底から付き従っているかどうかはわからないが、少なくとも反抗する心は全て打ち砕かれた。

 その男の持つ力によって。

「よォ、集まった。見知った顔も老い、若き顔も随分増えたのぉ」

 その男の名は上杉謙信。長尾虎千代、長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎、と名を変えた戦国随一の戦術家である。

 皆、一斉に平伏する。

「もう、おらぬ者も多い」

 平子らのような戦死者。柿崎、村上らのような病死、寿命に倒れた者。大熊のような離反者。そして宇佐美、上田長尾らのような哀しい事件に散った者たち。

 随分と顔ぶれも変化した。

 謙信よりも若き甘粕らを始めとする新戦力も随分とこなれ、円熟の時を迎えている。本庄繁長のように少々元気過ぎるのもいるが――

 さらにもっと下の世代、景勝らの世代も力強い光を放つ。

 今がまさに越後上杉の絶頂期であろう。

「面を上げよ」

 一糸乱れぬ動きで自らの主君へ視線を向ける臣下たち。今の彼には向かう気はない。その牙を持ったものは全部、きっちりへし折られ今平然とここにいる。

 何度裏切ろうとも、遊び相手の範疇である限りこの男は許し、いつでも裏切っていいと笑う。その笑顔に心を打ち砕かれるのだ。

 自分ではこの男の敵にすらなれないのだ、と。

「俺もそれなりに歳を喰った。若き頃のように戦場で太刀を振り回すわけにもいかぬ。が、その分俺はぬしらという武器を得た。強く、速く、したたかな武器だ。俺の理想とする軍勢だ。ぬしらが俺の手足と化せば……誰にも負けぬ」

 場の雰囲気がわずかに高揚する。

「織田とやる」

 皆、当然知っている。

 それでも――

「勝算はございますか?」

 謙信の右腕、直江景綱があえて問う。畿内を、天下を治めた巨大な怪物、普通にやっては絶対に勝てない。どれだけ戦術で勝ろうが、圧倒的石高の、国力の差による動員数の開きには及ばぬのだ。

「俺が勝算だ」

 それでもなお、この男はそう言い切った。皆の前で事細かに、合理的に説明することなく、ただ俺がいる。だから勝つ、と。

「お見事な返し。どなたか、異議のある者はおりますか?」

 高揚が増す。場が熱する。

 誰も異を唱えない。

「だそうです」

「ぶは、つまらんのぉ。まずは越中、次は能登を攻める。この戦は先に加賀を押さえた方が勝つ。そのための通り道である越中は悠々踏み潰し、補給線の確保及び後顧の憂いを断つため、七尾城に座す能登畠山を討つ」

「はっ!」

 異議を唱える者どころか、質問する者もいない。今の彼らは上杉謙信の手足である。手足は考えない。考えたければ、謙信と言う頭を喰らい成り代われ、と言う話。それを成せなかった者はただ平伏し、従うのみ。

「加賀にて織田と決戦。その後、畿内へ入り、公方様の御座所を確保する。その際、織田軍と入り乱れ、花の都が炎上する可能性もあろうが、まあ、京の連中にとって戦火舞い散ることなど日常茶飯事。いつも通り好きにせよ」

 これには応える者、応えぬ者、反応は様々であるが謙信は何も言わない。謙信は軍にその手の規範を設けていないのだ。奪いたければ奪えばいいし、奪いたくなければそうしてもいい。その辺りは各自の『備え』が考えればいいこと。

 奪う工程は勝った後、ならば其処に謙信は興味がない。勝つか負けるか、戦いのみが今の彼の全てであるのだから。

「これが上杉にとって最大の戦となろう。この俺にとっても……これ以上ない相手、不足はない。皆、俺についてこい」

「ははっ!」

「楽しませてやる」

 天翔ける勢いの織田を相手に、ここまで自信満々な男は今、全国津々浦々を探してもこの男ぐらいであろう。そして、それを微塵も疑わぬ家臣団もまた、今となっては越後くらいのものかもしれない。

 東国しか知らぬ田舎者のおごりか、それとも戦国中期を彩った激戦の東国で自信をつけた者たちの確信か。

 それは結果のみが示す。


     ○


 寺院の静謐なる空気を裂き、小気味よい音が木霊する。

「……」

 直江文、文春は慈しむように碁石を並べていく。昔の、満ち足りていた時のことを思い出しながら、あの頃彼と打ち合った形を、寸分違わず再現していく。

 盤面が思い出させてくれる。彼が浮かべていた貌を。楽しげな貌、悔しげな貌、考え込む貌、えいやと踏み込む貌、たくさん覚えている。

 ここも随分静かになった。ある日、何の沙汰もなくころりと朝起きたらすう、と笑顔で亡くなっていた青岩院、長尾虎の死が契機であったか。あの人の騒がしさに自分は随分救われていたのだな、と今更ながらに思う。

 きっと彼女は、少しだけ文に負い目があったのだろう。息子にあったのと同じように。武家の規範、政争、その他諸々から何一つ守れなかったことを。

 全てを押し付け、隠棲するしかない無力な自分。

 今なら少しだけ気持ちがわかる。

「……」

 よく顔を見せていた柿崎景家の死も大きい。今思えば随分と奇妙な縁であった。特に家同士親しいわけでも、深い繋がりがあるわけでもないのだが、それほど交友関係の広くない自分にとって彼は間違いなく親しき友人であっただろう。

 一度、どうして自分なのか問うたことがあったが、彼はただ「元気がもらえるのです」と笑みを浮かべて述べるばかり。そういう気持ちがあったのかはついぞわからなかった。暴きたくもない。どのような想いであれ、どのような人であれ、自分はそれに応えられないし、大事な関係性が崩れてしまうのが怖いから。

 甘粕景持、斎藤朝信、彼らも今は上杉家の中核を担う将である。二人ともたまにひょっこり顔を見せるが、頻度は随分と減った。

 静かである。ただ碁石の音のみが響く。

 静寂の中、彼女はただ祈る。

「……ただ、無事で」

 ただ愛する者の生を、祈り、願う。


     ○


 信長の謙信への怒りは凄まじく、織田家の名立たる将が対上杉のために召集される手はずとなっていた。今や織田家のエースであるこの男もまた――

「あら、藤吉郎さん。随分熱心だこと」

「うむ。まあ、仕事だからの」

 長浜城城主、羽柴藤吉郎秀吉は様々な書に囲まれ、その全てに目を通していた。女房であるねねは少しばかり珍しそうにそれを見つめる。

 若き頃、こういう姿は幾度となく見てきたが、最近は本人曰く勝って当たり前の戦が多く、このような姿はめっきり見られなくなっていたのだ。

「相手、お強いのですか?」

「正直、わからん」

「あら、これまた珍しい」

 如何なる事柄にも知恵を働かせ、全てに解決方法を見出してきた男である。わからない、その言葉とはもっとも縁遠い男であったはず。

 それが今、難しい顔で考え込みながらそう言った。

「上杉、ああ、上様が懇意にしてらした」

「それは絶対に言ってはならぬぞ。普段優しい御方が怒りに駆られるとどうなるのか、と言うのがようわかる状態よ。正直、今は近づきたくないのぉ」

「でも、優しい方ですよ」

「……何と棘があるのぉ」

「いいえ、別にぃ」

 何事も面白おかしく、を指針とする秀吉はよく火遊び、浮気を繰り返していた。今も実はしているのだが、多分この様子では気づかれているのだろう。

 と言うのはさておき、この浮気癖に関してねねは一度信長と話す機会に恵まれた際、冗談交じりで秀吉の浮気には困っているんです、と言ったところ、天下布武の朱印が押された仰々しい激励の手紙が彼女の下に届き、ついでに秀吉もがっつり説教を喰らった、と言う一幕があった。ゆえに彼女は信長派なのだ。

「それにしても随分とまあ広げたものですね。きちんと片付けてくださいな」

「へいへい。小うるさいのぉ」

「また告げ口しますよ」

「お許しをねね様」

「うむ。それでよいのだ。許す」

「ははぁ」

 秀吉、魂の土下座で留飲を下げたのか、ねねは上機嫌でこの場を後にする。彼女も理解しているのだ。あの状態の秀吉をあまり邪魔してはならぬ、と。

 まあそれはそれとして構って欲しいのでちょっとは茶々を入れるのだが。

「……栃尾、長尾諸氏、黒田――」

 わからぬ時は最初から順を追って調べ、考える。秀吉は信長が謙信とやる、と決めた段階であらゆる伝手を使い、彼の戦績を集めていた。幸い、今でこそ決裂したが元々は同盟関係、蜜月の時に培った伝手はいくらでもある。

 それに今は明智光秀らが北条との繋がりを模索している。氏政の代から明らかに上杉への敵意が増した。それを利用できないか、と考えたのだ。

 ゆえに秀吉は光秀に頼み、関東からも謙信の足跡を引っ張り出した。

 唯一、あの有名な四度目の川中島だけは越後、甲斐、どちらからも引き出せなかった。特に甲斐では禁忌扱いになっているほどである。

「わからん」

 あらゆる情報をかき集め、その結果が何もわからない、であった。謙信が率いた軍、野戦の強さに関しては何も言うことがない。何せ、常勝不敗である。城攻めに関しても情勢の変化で手を引いたものはあれど、明確に敗れ去ったと言えるものはあまりない。戦の強さは戦績から一目瞭然、畿内にすら名が轟く男、当然である。

 だが、大局に関しては見るに堪えない。悪手の連続、完全に軍の強さでごり押しているだけで、結局版図は一時期よりも狭まっている。

 東国の領土は武田、北条に切り取られたまま――

「……わからん」

 戦上手だが大局観はない。典型的な現場マン、戦績からはそう見える。しかし、秀吉の中ではそうは思えなかった。と言うよりも、下手過ぎるやり口が散見される中で、未来でも見通したのかと思うような手も打っていたのだ。

 偶然か、それとも狙い通りなのか。

 調べれば調べるほどに何も見えなくなる。

「よくもまあ、上様はこの男を信用されていたものだ。わしなら絶対に心を許せぬ。理解出来ぬものほど、怖いものはなかろうに」

 これだけ調べてなお、何一つ掴ませない底なしの何か。

 怖い、と人間に対し秀吉は初めて思った。自分よりその時点では上だと思った人物は沢山いた。桶狭間の頃はそんな連中ばかりだった。

 だが、そんな彼らを怖いと思ったことは一度もない。上手く積み重ねたなら抜けそうだな、勝てそうだな、底が見えたから、理解出来たから、怖くはなかった。

「……川中島の情報が、要るな」

 秀吉は多少無茶な手を使っても情報を得ておくべきだと考えた。大局を鑑みれば明らかに武田の勝ちなのだ。武田は多くの武将を失ったが、それは上杉も同じ。領土的に見れば北信濃の大半を押さえた武田の勝ち。

 それが結果である。それなのに武田はそれを勝利したとだけ残し、詳細を禁忌として封じたのだ。勝ったのなら堂々と開示出来るはず。

 ここで何かあった。他にも色々と気になる点はある。裏切りを幾度も許してきた男が、最初の一度だけ許さずに滅亡させている。その後、兄から家督を継承する際、もう少し揺らいでもおかしくないのに、あまりにも角が立たずに継承を終えている。兄晴景側についた上田長尾が立場をなくし、反旗を翻しただけ。

 小田原城へ侵攻した際も思えば奇妙である。地に落ちたはずの関東管領山内上杉、その名と余所者の越後長尾、たったこれだけであそこまで軍勢が膨らむだろうか。そもそも上野国の寝返りが早過ぎる。水面下で何かがあったとしか思えない。

 一つずつ、違和感を紐解いていくとわからなくなる。

 本当にこの男は大局観がない、と言い切ってもいいのかが。

 あえて捨てた。何のために。そもそも領土拡大が狙いじゃなかった。東国の静謐がため、と考えるには暴れ過ぎている。奪い過ぎている。民は北条を選んだ。むしろ選ばせたかのようなやり口。わからない。何も見えない。

 未知。

「……」

 秀吉は自問自答する。己の器は果たして、この未知に届き得るのか、と。

 浅井家の本拠地であった小谷城を長浜城とし任された男は今、必死に龍を暴こうと手を尽くしていた。事前に出来る限りのことはする。

 せねばならない、と彼の感覚が言う。

 危険だ、と。

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