第弐佰肆話:信頼と裏切り

 室町幕府最後の将軍、足利義昭は未だ諦めていなかった。畿内を離れ、各地を放浪する内に気づいたのだ。皮肉にも天下を治めていた室町幕府、足利一門であったが、天下、畿内での影響力を失った今でもその外側ではまだ威光が残っていた。

 まだ戦える。一度戦うと決めたのだ。

 ならば、やり通して見せる。

「……恩義ある毛利に対し、これではあまりにも――」

「全ては天下を簒奪した逆賊を討つためだ」

 流れ流れて義昭は備後国(現在の広島、岡山、島根の一部)に辿り着いていた。其処の鞆と言う場所を御座所としたのだ。

 毛利勢力圏に幕府再興の拠点を作る。これは何と毛利輝元へ連絡が行われぬまま、義昭の独断にて行われていた。当時、毛利と織田は色々と問題を抱えていたとはいえ同盟関係であり、この動きは毛利として歓迎するものではなかっただろう。

 義昭としても賭けの部分はあった。庇護者である毛利が己を切り捨て、織田を取ったら全てが終わる。それでも彼は賭けたのだ。

 地方に残る、室町の威光に。

「……」

 毛利としては織田と単独で敵対したくはない。かなり大きくなったとはいえ、今の織田に単独で勝てるわけがない。これは毛利と言う家の存続に関する重大なリスクである。しかし、一方で織田の動きも看過出来ない点が見受けられる。

 三好三人衆についたがため、義昭から追放された近衛前久が織田と手を組み、九州の諸勢力の和議を目論み奔走していると情報が入っていた。

 これは反毛利野勢力をまとめるためではないか、と輝元は考えていたのだ。大友、島津など、彼らが全て織田と手を組み、一丸となってしまえば――

「……公方様に伝えよ」

 輝元もまた決断する。今、織田の歩みを止めねば誰も止められなくなるだろう。しかし今ならば、足利と言う大義はこちらにあるのだ。

 必ず、動く勢力はあるはず。単独では勝てずとも、諸勢力が一致団結すれば、いや、具体的に言えばあの怪物が動いてさえくれたなら――


     ○


 天正四年五月、毛利輝元は織田との同盟を解消し、鞆幕府の副将軍として足利義昭を掲げると決めた。すでに全国津々浦々に義昭の名で逆賊織田信長を討つべし、との御触れを飛ばし、諸勢力の支援を募っていたのだ。

 当然、五月を前に信長の耳にもその報せは飛び込んでくる。

「……織田殿」

「近衛殿、帰られましたか」

「うむ。室町殿の件が、の」

「……そう、ですな」

 織田信長の奏上により京への帰還を許された元関白の近衛前久は、現在信長の盟友として協力関係にあった。互いに静謐を愛し、秩序を、信義を重んじる正義の徒として話が噛み合い、今では共に鷹狩りを楽しむなどの友人関係にまでなっていたのだ。また、この時はまだ織田と上杉は蜜月の関係であり、そのこともあって前久は彼ら二人の協力者として働ける、と言う喜びもあった。

 九州への下向も畿内のみならず全国の静謐を望む信長の意をくんで、彼がお願いするより前に畿内を飛び出し、信長が慌てて追承認する一幕もあった。

 まあ、それが毛利の疑心を生んでしまったのだが――

「まだ、私は諦めておりません」

 信長は真の御座所として二条御所を残していた。いつか、頭を冷やした義昭が戻ってきてくれる。その一念からの保持である。

「公方様もいつかはわかってくださる。そなたの理想は室町に、足利に相反するものではないと。共に手を携えていくことが肝要なのだと」

「だと良いのですが」

「私も微力ながら協力しよう」

「……ありがたき幸せ」

「むず痒い。上杉殿の友は私の友だ。皆静謐を望む同志、一人ではないぞ」

「そうですね。では、情勢が落ち着きましたら鷹狩にでも参りますか」

「よいなぁ。上杉殿もこちらへ呼び寄せようぞ」

「あはは、楽しみですな」

「うむ」

 静謐を望む正義の想い。

「では、また九州へ戻る」

「御身自ら行かずとも――」

「こういうのは誠意が大切なのだ。あちらの言葉は難しいが、なに、体当たりで飛び込めばいずれ体得も出来よう。任せておけ、織田殿」

「お気を付けください」

「うむ!」

 ちなみに現在でも各地方には方言が残り、地方の色となっているが、この当時の九州はほぼ別の言語であったらしく、通訳が必要なほど意思疎通が困難であった、とも言われている。だが、其処は行動力の鬼、五摂家の異端児、近衛前久。

 なんと通訳なしでやり取りが出来るほどの実力を身に着け、ネイティブと遜色ない会話術にて交渉事や文化交流などを行っていたのだ。

 ただ、正義の一念がために。


     ○


 天正四年四月、上杉謙信の下にも足利義昭の支援を募る文書が飛び込んできた。以前から上洛願いや、包囲網形成のための武田北条との講和を命ずる文書など送られてきていたが、それら全てを謙信は跳ね除けていた。

 今回もそうなる。誰もがそう思った。

 だが、

「ここだな」

 謙信はここで要求を呑んだ。今までと違うのは世の情勢、そして西国の雄毛利輝元の名。権威だけでは山は動かない。されど、権威と力が組めば山は動く。

 武田信玄が墜ち、潰えた反織田の流れ。すでに単独で打ち倒せる勢力ではなくなった織田を相手取るなら、それなりの舞台が必要なのだ。

 それが今、整った。

「本願寺と結ぶぞ」

「お、御実城様! 本気ですか!?」

「俺がつまらん噓を言うかよ」

「現在、波多野に続き本願寺も織田へ反旗を翻し、敵対関係にあります」

「存じておる。それらのちり芥を結集し、織田と言う山を潰そうと言うのが公方様の狙いであろうが。それに乗る、と言っておる」

「今の織田と敵対するのですか? 道理がありません」

「道理は室町のため。これ以上の大義はあるまいよ」

 ようやく北条とも小康状態まで持ち込めた。しつこい氏政も華を持たせてやったから多少留飲も下がろう。文書には武田、北条とも手を組んでほしいと書かれているが、おそらくこれは難しい。特に氏政が自分を毛嫌いしているから。

 まあ、よほど小田原城での一件がトラウマとなっているのだろう。それはまあ、仕方がないこと。ただ、今回は時期と将軍の命令が重なった。

 彼らが足を引っ張ってくることはない。

 武田は、先の敗戦が尾を引きそれどころではあるまいし、頼る気もない。大事なのは自らの進路を確保すること。

「本願寺、一向宗とは三代に渡る因縁がございますぞ」

「そんなもの、犬にでも喰わせてしまえ」

「なんと」

 本願寺と結べば畿内への道が容易く拓ける。万全の状態で織田軍とぶつかることが出来るのだ。なら、過去のしがらみなどどうでもいい。

 今一時、己の道から退くのなら。

「全ては天下静謐がため。皆、好きだろう? 静謐(平和)は」

「……ごほ、素晴らしい」

 龍が立ち上がる。今度は誰も、前を遮るものはない。

「父上、私もお供いたします!」

「うむ。俺を助けよ、景勝」

「ははっ!」

 一年前、長尾顕景から上杉景勝へ改名した上田長尾、長尾政景の子は実の父よりも崇拝する謙信に頼られ、元気よく返事をする。

 しかし、

「景虎と共に、な」

「っ。……は、はい」

 謙信からその名を言及され、景勝は顔を歪める。彼の背後ではくだんの景虎、上杉三郎景虎が謙信に何も言わず、頭を下げた。

 どちらも上杉であって上杉ではない。謙信には実の子はおらず、どちらも『上杉』から見れば血筋的には遠い。筋論で言えば上田長尾の血を引く景勝であろうが、其処はもう謙信の意向次第でどうとでもなる世界である。

「さて、おそらくこれが最後の大戦となろう。相手は天下を手中に収めた怪物だ。どれだけの兵を動員出来るのか、正直見当もつかぬ」

 今の織田はもう、他家を隔絶した一強状態を形成していた。その全ての戦力が向けられたなら、誰であろうが、龍であろうがかなうまい。

 だが、状況は武田の時と酷似している。一対一にはならない。

 なれば、勝機はある。否、自らが勝機と成るのだ。


     ○


 それからひと月後、天正四年五月中頃、上杉と本願寺の講和が成った。

 その報せは、本願寺との戦で天王寺砦にて自らが先陣を切り鉄砲に当たり負傷しながらも辛勝した信長の耳に入る。信長はこの時、目を丸くし、足に鉄砲を受けたこともあり力なく崩れ落ちた。

「ありえん」

「……真でございます。上杉は本願寺と講和し、毛利とも手を結んだ模様。これは明確な、織田家への叛意であるかと」

「嘘だ」

「殿、お気を確かに!」

「あの方とは幾度も、幾度も、静謐について語らった。正しい理想を持つ人だった。信義を貴ぶ方だった。それが、今、裏切る? それでは、それでは――」

 その辺の連中と変わらぬではないか、と信長は首を振る。

 何かの間違いだ。彼に限ってそんなことはない。直に会った近衛殿も言っていた。彼は自分の思っている通りの人物である、と。

 そんな彼が今、自分を裏切るなんて――

「……確認せよ」

「確認した情報で――」

「確認しろと言っておる!」

 信じられない。信じたくない。

 だけど、どれだけ確認しても事実は固まるばかり。

 六月、京に帰還した信長は失意のどん底にいた。

「こりゃいかん。スタコラサッサ、と」

「では私めも」

 君子危うきに近寄らず、さっさとケツを捲る秀吉と光秀。信長は善人である。極めて純粋な、本来畿内に不釣り合いな存在である。それなりに場数を踏んだ者ならば知っている。人間関係における信頼など損得の延長線にしかないと。

 だが、彼は純粋ゆえそうは思わない。真の愛はあると思っているし、真の正義も、真の信頼もあると思っている。

 だからこそ――

「上杉、謙信ン!」

 それを裏切られた時、彼は心の底から悲しみ、怒るのだ。

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