第弐佰参話:天下の軍勢
天正二年四月、上杉謙信は利根川を挟み北条氏政と睨み合っていた。ここまでいくつも城を落とし、北条方をそれなりに押し込んではいた。だが、肝心要の金山城を落とし切る前に、今目の前にいる氏政が別の拠点を攻め、今に至る。
「ぶはは、存外骨があるのぉ」
謙信は嬉しそうに対峙する相手を見つめるも、彼らが動く気配はない。そして上杉軍もまた動けない。渡河せんとする場所が増水で渡りようがないのだ。
その辺りも勘定に入れた上で、謙信を引き付けたのだろう。
かなりの戦巧者、やり口は父に似ている。
いや、似ていると言うよりも父から、綱成から、先々代の氏綱から、初代伊勢宗瑞から、北条の戦い方を学び、しかと修めているのだろう。
容易くは間違えてくれぬ相手である。
「まあ、しばらくは遊んでやるかの」
面倒くさい相手は嫌いじゃない。対上杉、いや、謙信の戦術も上手く機能している以上、やはり簡単に突破は許されないだろう。
北条から仕掛けたにもかかわらず、いつの間にか上杉が攻め手、彼らが守り手と言う構図が形成され、上杉に不利を押し付けてくる。
開戦まで主導権を握り、構図が固まった段階でほいと手渡す。出来ることは限られ、あちらも対策を取りやすくなる。
攻めの守り、北条の戦はしかと継承されていた。
それだけで謙信は、ほんの少し嬉しく思うのだ。
○
そして、北条が上杉領である上野国を喰い取ろうと動き出し、彼らが衝突した頃、織田信長もまた一つ、天下静謐の手を進める。
伊勢長島の一向一揆との決着である。
長年、織田と敵対し続けてきた本願寺の一向宗であるが、ここ長島は五十年以上にも渡って武装を重ね、砦を建造し、尋常ならざる堅固な要塞と化していた。
幾度も信長はここに挑むも弾き返されてきた。
だが、それもまた今回で終わり。
湊を封鎖し、兵糧搬入の手段を断った。食糧がなければ戦は出来ない。本来であればこうなった時点で降伏、城を明け渡すことだろう。
されど、ここが一揆勢力の怖いところ。彼らは信仰に酔い、正常な判断など出来ない。後詰が期待できない。食糧がない。武士ならば白旗を振る場面でも、彼らはそうしない。ただ粛々と反撃の機会を窺うばかり。
「……愚かな。許せとは言わぬぞ。全ては静謐がため。悪を討つ!」
とうとう、織田信長は弱らせた長島を圧倒的勢力で押し潰すことを決めた。総勢、七万を超える大兵力である。畿内の政を担当する明智、越前の抑えに残された羽柴は不在であるが、織田軍の全力であることに間違いはない。
今、日本でこれだけの数を用意できるのは織田家ぐらいである。
水陸両面からの大侵攻。圧倒的数を前に長島は手も足も出ない。これが畿内をほぼ手中に収めた天下人の力。戦いとは数である。
それを世に示す。
「わ、我々は織田に通ずる」
「とのことですが」
「信ずるぞ?」
「あ、ありがとうございます!」
「私の信頼、違えてくれるなよ」
大半は徹底抗戦、念仏を唱えながら猛進してくる愚者の群れ。中には降伏を申し出る者もいたが、それもまた彼らの姑息な手であった。降伏したと見せかけて、裏切り、自死を覚悟で突っ込んでくる。やるしかない、と織田軍はそれを蹴散らす。
今回の降伏、織田に通じて長島城を開けさせる、とのたまった者たちから返事はない。哀しいかな、また裏切られたのだ。
信頼は、道理はまたも踏みにじられた。
「結果としては良かったかもしれませぬな。城に人間が増えたなら、食糧の減りも早くなります。早晩、彼らも音を上げるでしょう」
「権六、約束とは、それほど安いものか?」
「……いえ」
「正義を成せ」
「はっ」
穴のない包囲。減りゆく食糧。多くの餓死者を出し、降伏の意思を示し彼らは船で退去しようとする。だが、信長はそれを許さなかった。そもそも、長島城は開かれる約束である。それを踏み躙った者たちの言葉を今更誰が信用できると言うのか。
少なくとも信長は信用しなかった。家臣らに討てと命じた。
どうせ逃げた先で彼らは必ず牙を剥く。ここにいるのは無辜の民ではない。女子供に至るまで念仏教に心酔する武装した愚者の群れ。むしろ今、ここで彼らを世に放つことの方が静謐の、平和のためにならぬと彼は考えた。
織田信長は道理を愛する。
「も、申し訳ございませぬ! 伏兵に気づかず、一門衆の多くが討ち死されました! 我らの油断が原因です。この始末は我らが腹を裂き――」
「よい。伏兵、か。どのような顛末であった?」
「……門徒共は裸で刀を握りしめ、怒りを口にしながら突貫してきたそうです」
「ふっ、怒りを、か。話にならんな」
信長は秩序を、因習を、静謐を愛する。
現代に蔓延る魔王像、と言うのは誤りである。戦国の世ゆえに多くの屍を築いてきたが、それでも彼が道理を通さなかったことはほとんどない。後世に伝わる惨劇の多くは、その背後には必ずと言っていいほど理由があった。
だが、秩序が崩壊しつつある今、その復権を望む彼の刃はむしろ、それを無視する者たちよりも遥かに鋭く、命を刈り取る。
「天下のために、無辜の民のために、悪逆の徒よ、尽く滅べ」
天下人の信頼を踏み躙った対価は、彼らが考えるよりもずっと高くついた。何処か彼らの中にはあったのだ。延暦寺同様に、御仏を信ずる自分たちにはそれほど酷いことなど出来ないだろう、と。その甘えが今、彼らを滅ぼす。
残る拠点を策で囲い、信長は火攻めをする。その犠牲者の数、およそ二万。嘘と裏切り、保身と妄信の果て、最後は天下人の鉄槌で滅ぶ。
織田も多くを失った。だが、それ以上にこの勝利は天下静謐への大きな一歩となったのだ。厄介な本願寺の重要拠点が落ちたのだから。
これで心置きなく雌雄を決することが出来る。
「そう言えば、あちらにも嘘吐きがいたな」
信長は東の空を睨む。自らの同盟を蹴り飛ばし、西進した許し難き者共。
裏切りの代償は、払わせねばならぬ。
○
翌年、天正三年五月二十一日、武田勝頼は静かに天を仰いだ。
ここに至るまで、武田軍は快調であった。父の外征路線を引き継ぐよりほかなく、何処かで負けたなら諦める言い訳にもなったのだが、父の残した武田軍は強過ぎた。東美濃を攻めては勝ち、遠江に進撃しては勝つ。
大した策がなくとも勝ってしまう。勝頼が率いても、敵は其処に信玄の存在を見てしまうのだろう。どれほど強かったのかが嫌でも透ける。
それが良い方に転がるとは限らないのだが――
甲斐武田家の最大版図を築いた勝頼は勝ち続ける限り進むよりほかなく、三河国の長篠城へと到達してしまう。家臣団は大いに沸いた。士気も高い。
だが、勝頼は頭を抱えていた。
『……上手く負けよ』
藁にもすがる思いで頼った、追放された祖父の信虎からもらった助言。上手くやろうとしても武田軍は強過ぎて果たせず、とうとう――
「織田の援軍が来ます! おそらく、我らよりも多勢であるかと」
織田信長が動いた。昨年、長島で本願寺を叩きのめし、越前でも制圧寸前と聞く。ならば、動くだろう。残すは武田だけなのだから。
「なんの、我らには御屋形様がついておる!」
「甲斐の虎が威光の前に、織田が如き何するものぞ!」
士気は高い。連日の勝利が家臣団の熱を引き上げていた。勝頼は唇を噛む。所詮は諏訪四郎、最後の最後まで彼らにとっての御屋形様は亡き信玄公であった。
「御屋形様、どうか、どうか撤退のご決断を」
そんな中にあっても馬場、山県、内藤(工藤)の甲府で留守居を務める春日虎綱を除く武田四天王は皆、勝頼に撤退を進言する。
彼らには先代への忠義、信頼はあっても妄信はなかったのだ。
だが、
「……今、それを強いたなら武田家自体が崩れる。武田は強過ぎた。そして、それ以上にもう、織田はどうしようもないところにまで来ているのかもしれない」
勝頼はその言を退けた。武士は面子を重んずる。そして強さを貴ぶ。哀しいかな、今の武田に手を引く選択肢はない。かつての三方ヶ原と逆の構図である。
その道理を聞き入れることが出来る者たちばかりならば、武家の棟梁とは楽な仕事であろう。そうでないから常に苦しみの中にあるのだ。
「すべては私の責任だ。皆は上手く退いてくれ」
「「「……はっ」」」
決戦は避けられない。避けては家が崩れるから。
まあ、避けずとも――
「……これが、今の織田か」
三百万石を優に超える戦国の寵児、織田信長が踏み潰すだけなのだが。
決戦の地、設楽原は織田の軍勢が展開を終え、武田軍との衝突を今か今かと待ち構えていた。三万を超える戦力、それらが堅固な砦が如し陣を彩る。
見ただけで武田の士気が揺らぐほどの布陣。
兵力差は倍近く。まともに組み合っても苦しいと言うのに、あちらは陣を工夫し何が何でも勝ち切ると言う強い意志が陣容からも見て取れる。
「……勝てぬ」
勝頼が天を仰ぐ中、織田包囲網を形成していた最強の一角、武田軍と織田軍の運命を分ける一戦が始まった。
長篠の戦い。通説では鉄砲の三段撃ちがあったと言われているが、あれは江戸期に創られた小説を明治の陸軍が史実として教科書に載せただけ。全くの嘘と言い切ることは出来ないが、実在は疑問視されている。
そもそも、鉄砲に関して武田は二十年近く前に三百艇購入するなど、他国に比べてかなりその導入に力を入れていた。鉄砲を使うかどうか、戦法として習熟されているかどうか、その点で武田が後れを取る道理はない。
実際に長篠城では武田も攻城の際、それなりの鉄砲を用いている。
ならば何処で優劣が、勝敗が決まったか。それはもう、見たままでしかない。
圧倒的な戦力と、兵法の基本に則った陣容、それだけである。
数こそ力。金こそ正義。
「鶴翼、最後まで虎の亡霊を掲げますか。実につまらない」
「そりゃあ中央が精強でこそ、じゃろうが。悪手よな、武田よい」
そして人材、質ですら、今の織田は桁が違う。柴田、丹羽は言うに及ばず、今や織田のエースとして貫禄もついてきた羽柴や明智、佐久間、滝川、錚々たる顔ぶれが並ぶ。信長は必勝を期すため、出し惜しみなしのまさにオールスターを用意していたのだ。それほどに彼にとって、あの同盟を蹴った行為は許し難いものであった。
織田へ向けた暴力、その反動が今、武田を襲う。
堅固な陣形で最初の当たりを受け止めた後、織田軍は一気呵成に中央を崩した。其処からはもう、ただの蹂躙である。
張子の虎、鶴翼の陣はズタズタに引き裂かれ、武田の重臣たちの尽くは無残に命を散らしていく。あれだけ精強を誇った軍であるのに――
「……強い」
成す術なく、武田軍は大敗を喫した。
織田軍の主だった武将に戦死者は見られず、馬場、山県、内藤を始めとする重臣たちの多くが、この長篠の地に散った。
逃げて良い、と言ったのに彼らは逃げなかった。むしろ、勝頼を逃がすために全力を尽くして戦った。抗った。
虎の残した最後の牙を示すかのように。
「天晴よ、甲斐武田」
信長もまた彼らを称賛する。裏切られた相手であり、ある意味で誰よりも追い詰められた相手であるが、それでもなお信長は称えずにはいられなかったのだ。
最後まで奮戦した武士たちを見て――
此度の勝利を以て、包囲網は完全に瓦解し、長島の件もあって本願寺は和議を求め、信長もこれを了承。一時的に完全な天下(畿内)静謐を成し遂げたのだ。
この大敗が武田の命運を決定づけた。其処に間違いはない。だが、そもそも今の織田と戦うことになったのは、先代が残した負の遺産のせいである。もし、より多くを求め織田と手を切らねば今も味方であったかもしれない。もし、今川と手を切らずに道理を通していれば北条、今川の三国同盟で決戦に臨めたかもしれない。
歴史は連なりである。必ず、そうなる原因はある。
そういう意味で武田は自ら退路を、味方を断ち、こうなった。滅亡はまだ先のことであるが、されどここから武田が挽回する目はない。
それこそ天下を治める者が突如、崩れ落ちることでもない限りは――
甲州征伐により武田家が滅ぶのは天正十年三月。本能寺の変により天下人が散るのは天正十年六月。たった三か月、まさに世の無常であろう。
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