第弐佰弐話:役者不在
元亀四年四月末、長旅に耐えられぬと火葬され、遺灰となった武田信玄と共に諏訪四郎勝頼は甲斐へと帰国する。国内外への悪影響を回避するための苦肉の策として、父武田信玄の死は秘匿され、隠居し家督を譲り渡した、と言う形となった。
だが、問題は山積みである。そもそも勝頼は信濃の諏訪氏を継いだ人物であり、その時点で武田家の本流から外れていた。だからこそ、勝頼は自身を正統な後継者ではなく、武田信玄の孫である武王丸の後見人、と言う立場を取らざるを得なかった。この辺りが非常に面倒くさいのが当時の御家事情と言うもの。
越後でもそうだが、甲斐も決して一枚岩ではない。元々信虎の時代、嫌と言うほど国内で相争っていた土地柄である。
信玄が力で押さえつけていたものが急な当主交代の揺らぎを察し、求心力を失っていくのは謙信の先代、晴景の時と同じこと。
あれだけ丁寧に継承しても揺れたのだ。ここまで急な状況で凪ぐわけがない。何をどうしても国内は荒れる。それを少しでも抑え込むには――
「……進むも地獄、留まるも地獄、か」
外の敵に向かうしかない。甲斐の諸将は皆、諏訪の、信濃の人間である勝頼を警戒していた。信濃の者を重用し、甲斐の重臣を干すのでは、と。
実際、トップの交代を機に周りを一新するのは古今東西よくあること。勝頼の人柄を知る者ばかりではない。前線を張る武田四天王と謳われた英傑たちも、重臣ではあるが武田家の政を司る立場ではないのだ。
現場と管理者のズレ。率先して戦場に出て、現場からの信頼を勝ち取っていた勝頼も、残念ながら甲斐本国、躑躅ヶ崎館では新顔でしかない。
哀しいかな、他家だけ重臣たちの顔を立てるためにも、父の拡大路線を引き継ぐより道はなかった。信玄亡き今、其処に活路は見えぬと言うのに。
○
元亀四年、七月。本願寺や朝倉、武田へ援軍を募るも上手くまとまらず、本願寺のみが色よい返事を返してきた。その時点で義昭は信玄の死を知らなかったのだ。もう一度虎が牙を剥いてくれたなら風は変わる。
だが、その風が吹くことはない。
義昭は二条御所では信長とは戦えぬと、重臣の城であり宇治川の島地に築かれた天然の要害である槇島城へ移った。
信長もその動きに呼応し、再度軍を起こし二条御所を押さえ、槇島城をも包囲した。義昭は孤立無援に陥る。足利一門の威光は、誰にも届かなかった。
後詰の確証無き籠城に、先はない。
「……栄枯盛衰。世の常、か」
一世一代の大勝負に敗れた足利義昭は息子を人質として差し出し、京から追放されることとなった。たった半年もしない内に変わった風向き。
読み違えた。時勢が信長を選んだ。
それだけのこと。
通説として、この時を境に足利一門を頂点とする室町幕府は滅亡したとされる。実際に天下を治める者、天下の主権者と言う意味でなら、これ以降足利一門がそれを握ることはなく、滅んだと言っても差し支えない。
ただ、義昭自体将軍の地位から離れたわけではなく、しばらくはそのままその地位におり、放浪の末備後国の毛利輝元の下に身を寄せ、その名で様々な国へ通達などを出している。京を離れたことが幕府滅亡となるなら、すでに先代の義輝なども朽木へ落ち延びており、それよりさらに離れるも同じ事例とするのなら、まだ室町幕府は滅んでおらず、織田政権と並立している状況、と考えるべきだろう。
実際に義昭がその地位を手放すのは信長没後である。其処こそが本当の意味で室町幕府の滅亡、なのではないだろうか。
この辺りは諸説あり、色々と入り組んでいる、と言うことだけ述べておく。
とは言え、これで天下は織田の手に落ちた。
この時を以て信長の奏上にて元亀が終わり、新たな年号である天正が始まった。
そして――
「勝つぞ!」
「この御方は、まったく」
「天下人になっても変わらぬか!」
夜半風雨の中、天下人となった織田信長は自ら槍を携えて、浅井の小谷城へ援軍として現れた朝倉軍を急襲、一気呵成に打ち破った。
風を背に信長は仇敵朝倉を滅ぼした。
その翌月、羽柴秀吉が浅井親子を撃破し小谷城を陥落させる。
「味気なし。運が悪かったですなぁ」
常勝、織田軍の中でもひときわと輝く秀吉の戦はまさに円熟を迎えていた。攻城戦の名手、幾多の城を落とす手腕は織田家、いや天下随一であろう。
その勢いは留まるところを知らない。
足利を京から追放してふた月もせぬ内に、織田にとって厄介であった浅井朝倉の連合軍を完膚なきまでに粉砕、滅亡に追いやった。
まさに順風満帆である。
そして織田はここから本願寺との戦に本腰を入れることとなる。元より織田信長、神仏を食い物とする輩が大嫌いである。腐敗した延暦寺を焼き払ったのもそう、念仏教を広めて下々から銭を吸い上げ、肥え太った本願寺も好きな相手ではない。
其処がわざわざ足利に寄り、隙を見せてくれたのだ。
ならば――
「天下静謐がため、民草を操る悪の権化を討つ」
「はっ!」
これを機に一掃する。
宗教は良い。心の拠り所となる。それに対し彼は貴賤を設けない。規制も施さない。だが、行き過ぎた搾取は害悪でしかなく、拠り所の在り様を超過したものは排除する。それが彼の考え方である。延暦寺は行き過ぎた。
本願寺もまた、銭に、色に、欲に溺れている。
だから、戦うのだ。全ては正義のため、静謐がために。
○
同じ頃、上杉謙信は突如越中へ本格的な侵攻を開始する。その勢いは凄まじく、あっという間にいくつも城が落ちた。たったのひと月もせぬ内に越中国の大半を落とし切ったのだから、その勢いは推して知るべしだろう。
最近は少しばかり大人しかったが、関東からよろずを毟り取ってきた上杉軍である。ひとたび腰を上げたなら、並の者では戦う気力もわかないだろう。
対峙するだけで戦う気を失わせる。戦いにもならぬ状況を構築した。
これぞまさに軍神の戦である。
現在は越中と加賀の国境にある朝日山城を攻撃中であった。其処を越えたなら越中やその周辺に蔓延る一向宗、本願寺の中心地が一つ、加賀である。
彼は別に本願寺のことは嫌いではない。教えを極限まで簡素化し、念仏を唱えるだけで極楽へ行けるとのたまう彼らが民草に支持されることも悪いとは思っていない。むしろ、ここまで露骨であるのは小気味よいとさえ思っていた。
だが、哀しいかな、彼らは自分の進行方向にいる。避けて歩くのは面倒くさく、そもそも健在であれば足を引っ張ってくるのは自明。
「南無阿弥陀仏、っとなァ」
だから踏み潰す。ただそれだけのこと。
軍神の歩み、その線上にいる者は止めようがない。まだ情報が畿内へ到達する前に、彼はここまで来た。越中を突き抜け、加賀も飲み込めば越前へ至る。
其処はもう、天下を統べる信長が朝倉を打ち倒し手に入れた、彼の勢力圏である。今、上杉が織田と戦う道理はない。むしろ手を取り合っている間柄である。文通、贈り物を送り合い、あちらは仲良くやっている気であろう。
だが、もう其処はどうでもいい。正直言えば誰でも良いのだ。あの虎の代わりであれば、今の自分の遊び相手となるのなら誰でも。
織田がそうだと言うのなら、遊びに向かうまで。
「柴田、丹羽、佐久間に羽柴、明智、ぶはは、喰い放題かァ?」
信長くん、遊びましょ、と言う具合である。
今度は如何なる奇跡を見せてくれるのか。実に楽しみである。天が、神がもたらした奇跡を、全力で踏み潰す。そのまま畿内を、天下を踏み躙る。
龍は今、本当の意味で天災と化していた。
しかし、その歩みに待ったをかける者がいた。
「……あン?」
それが相模の獅子が息子、北条氏政である。彼は上杉の進軍を窺い、ここぞと言うタイミングで上野国へ進出してきたのだ。
正直、謙信本人としては氏康亡き後の関東のことなどどうでもいい。勝手に奪い取っていろ、と言いたいところなのだが――
「どうされますか?」
「……楽しそうだな、実綱」
「景綱です。が、楽しいですよ。御実城様がそのまま振り切り西を目指すもよし、東へ転進するもよし、どちらにせよ私は隣で龍の歩みを見つめるだけ」
「……ならば、愛する我が養子がため、東上野くらいは守ってやるとするか」
「愛するなど、ふふ、冗談でも聞きたくないですなぁ」
「ふん、気持ち悪いんじゃ、阿呆が」
関東管領の責務、何よりも長尾政景の残した上田荘を危険にさらすわけにもいかない。怒り心頭な状態でも、忠臣の想いは酌む。
ゆえに謙信は一旦撤退し、関東へと向かう。
後顧の憂いを断ち、存分に西へ向かうため。それに、今の自分なら織田ぐらいでなければ勝負にもならない。行こうと思えばすぐに辿り着ける。
今、急ぐ理由など無いのだ。
北条氏政の動きで今回、上杉謙信が加賀にまで踏み入ることはなかった。織田と接することも、そもそも織田に敵意を悟られるところにも辿り着かなかったのだ。
それゆえ蜜月はいましばらく続く。
されど、破局の時はすぐ。龍の眼はもう、信長しか見ていないのだから。それ以外の遊び相手は皆、すでにこの世を去っていたのだから。
本当に遊びたかった者たちはもう、皆いない。
天正元年、八月末のことであった。
○
ひとりの老人が遺灰の前でうなだれていた。豪放磊落を絵に描いたような男であり、彼が消沈しているところなど付き合いの長い者でも見たことがない。
そんな男が今、打ちひしがれている。
「……俺ァ、間違えちまったんだろうな」
公にはまだ死んでいない男。その遺灰の、遺骨を前に男は酒を飲む。味がしない。ここ最近ずっと、美味い酒が飲めていないせいですっかり老け込んでしまった。
それもこれも全部、目の前の馬鹿息子のせいである。
「強くなれと願った。実際に強くなった。だが、だからこそ間違えちまった。あの小僧と戦うべきじゃなかった。並ぼうとすべきじゃなかった。あれはな、生まれついての怪物だ。天才だ。戦うために生まれてきたようなガキだった」
男の名は無人斎道有、出家する前は武田信虎として甲斐の守護をやっていた。先々代当主、御年八十歳である。
「ガキの時分で完成されていた。モノが、違うわなぁ。俺たち凡人とはよぉ」
男は思い出す。あの時の邂逅を。まだ現役を退いたばかりで、全盛期と言って差し支えない状態だった。賭け事だろうが何だろうが、本気でやれば負ける気はしない。ただの運勝負、されど、其処が勝負の分かれ目でもある。
其処からの立ち回りも、義元から聞いている。
子どものやることじゃない。子どもに出来ることじゃない。
「太郎よ。あのガキに何を見た? なあ、ぬしならわかっただろう? 其処で争うべきじゃないと。戦場以外で勝つべきだと。なのに――」
わかっている。信玄が、晴信が、太郎がああなったのは自分がそう育てたから。突き放し、反骨心を叩き上げ、自らを喰らい飛翔せよと願った。
その結果が、今。
「俺ァ、駄目な親だったなぁ」
道有は、いや、信虎はただ酒を飲み、俯くばかり。武田の撤退を聞くまでは足利の味方として畿内で領地を持つまでになっていた。織田への反抗作戦として反織田を掲げる名門六角氏と策を練っていたほどである。
齢八十を経て生涯現役、だったにもかかわらず、今は老いさらばえた。信繁、次郎が亡くなった後も若々しさは薄れたが、今はもう年相応の覇気しかない。
「すまねえ。でもよ、ぬしらも駄目な息子だぜ。親より先に死ぬガキがいるかよ。次郎のように戦死したなら仕方がねえさ。武士だからな。でも、病は駄目だ。なんで俺じゃなく、太郎なんだ? え、仏さんよォ。なんで、俺じゃ、なかった」
自分のことでは涙一つ流さなかった男が静かに泣く。
自分に似た息子の死を眺めながら――
「……畜生が」
ただ、涙を流す。
この翌年、武田信虎は身を寄せていた信濃の高遠城で静かに息を引き取った。息子、武田信玄の死から一年後のことであった。
齢八十一歳、無限に生きるのではと周りに思われていたほどの怪物は、年相応に弱りこの世を旅立った。息子たちの後を追うように。
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