第佰玖拾漆話:勝ち負けつかず

 北条氏康はその日、夢を見た。まだ父が生きていた頃、偉大な父の跡を継ぐ重圧にさらされ、責務を担えるのか不安であった頃の、記憶。

 小田原の見回り、と言う名の散歩をしている時、妙な光景を目撃したのだ。戦ばかりで女人にそれほど興味を示さなかった男が必死に口説いていた。確かに美しい女性であった。すらりと背が高く、顔立ちも整っていた。

 だが、それ以上に眼が氏康の目を引いたのだ。

 偉大な父の陰に隠れた己では持ちえぬ、絶対的な自信。詳しい年齢は聞けなかったが、見たところ己よりもずっと年下に見えた。

 それなのにあの眼は天から見下ろすようで――ああいう力が欲しいと思った。彼女が隣にいれば自分もそう成れるのではないかと思った。

 だから、必死に探したのだ。恥も外聞も捨てて。

 そして勝負をした。皆の力も借りて――

 勝ち負け付かず、永遠に決着のつかぬ盤面だけが、残る。


 夢を見た後の朝、最近では珍しく痺れも薄く、意識もはっきりしていた。思えば父も晩年、同じような症状であった。遺伝、なのかもしれない。

 長くはない。明日にも意識を欠くかもしれない。

 ただ、出来ることはやった。父がそうしたように、子にすべてを託すことは出来た。東国の情勢が不安定なことだけは気がかりであるが、残された時間でそれを解決することは不可能である。無念だが、氏政のすべき仕事なのだろう。

 もう、自分の手には何も残っていない。

 だから今はただ――

「大殿」

「今は誰もおらぬから新九郎でいいよ、孫九郎」

「体調は快方に向かっているようだな」

「今日は、な」

 早朝、北条孫九郎綱成はわざわざ自分の様子を見るためにここまで来たのだろう。そんな無駄なことをするなら息子の手伝いでもしてほしいのだが。

「父と同じだ。そう長くはない」

「まだ死ぬには早いぞ。龍雲斉(赤備の北条綱高の法号)殿はまだピンピンしている。彼より若い俺たちが先に逝くことなど許されん」

「無茶を言うな。これもまた天命だ」

「……俺は認めん」

「……すまぬな」

 氏康は痺れが残る手を叱咤し、普段の習慣である早朝の酒を飲む。最近めっきり出来なくなっていた習慣であるが、折角ならと今日だけ復活させた。

 指の震えが器に伝わり、揺れているのはご愛敬か。これでも今日は調子が良いのだ。最近はもう、こんなことすら一人では出来なくなったから。

「注意せんのか?」

 てっきり息子同様、飲酒姿を見られたら注意されると思ったが、綱成は何も言わずに隣で腕を組み、縁側に立つ。

「御本城様に嫌と言うほど言われているだろうから、俺からは言わんよ」

「ふふ、助かる」

 酒をちびり、ちびりと口に含む。普段通りの、いつもの味。こうすると一日の始まりを感じることが出来る。

 今日はどうやら、いい日になりそうな予感がする。

「孫九郎、折角だから少し頼まれごとをしてくれぬか?」

「構わんよ。何でも言ってくれ」

「そう畏まるなよ。大したことじゃない。碁盤を持ってきて、俺が諳んじるからその通りに石を並べて欲しい。酒もまともに飲めぬ手では、調子が良かろうと私一人では一日が終わってしまうからな。頼む」

「任せろ」

 綱成は迷うことなく氏康の頼みを聞く。こういう時病人は役得であるな、と氏康は自嘲する。まあ、本当なら自分一人で何でもしたいのだが。

「持ってきたぞ」

「ありがとう。では――」

 氏康の言葉に従い、綱成は碁石を並べていく。すぐに彼はその盤面が、誰との対局であるかに気づいた。それは彼にとっても思い出深いものであったから。如何なる窮地も勝つと言い切り、そうしてきた男が初めて勝てぬかもしれないと思わされた一戦であったから。その衝撃たるや、先日の敗戦と並ぶほどであった。

 勝敗の見えぬ盤面。ここで時が止まる。

「……覚えているか?」

「無論だ」

「この盤面、果たしてどっちが勝っているのだろうな?」

「わからん」

「そこは勝ったと言えよ、地黄八幡」

「新九郎の前で強がる意味はないからな。それにもう、土を付けられた名だ」

「……そうか」

 ここからが本当の勝負であった。勝負の分かれ目、その手前で父が危篤である知らせが入り、勝負はお預けとなってしまったのだ。永遠に。

 だからその先は誰にもわからない。神にすら、わかるまい。

「なあ、友よ。おかしなことを言っても良いか?」

「場合による」

「なら、言おう。この十年、私たちはずっと上杉と、かつて長尾景虎であった者と戦いを続けてきた。大きな戦は小田原の一件ぐらいであったが、まああそこからずっと地続きだったと思えば、関東全域で十年続いた戦、大戦であったとも」

「そうだな」

「彼らは攻め、我らはそれを受け、守った。攻め寄せてきた彼らを弾き返しながら必死に打ち回して、はや十年。この病は心労が元だと思うのだが、どう思う?」

「まあ、要因の一つではあるだろうな」

「ふふ、そうに違いない。全部上杉のせいだ」

「……ぬしのは冗談だが、息子は本気でそう思っているぞ。俺がぬしに生きていて欲しいのは、何も情だけではない。今、上杉憎しのあまりにあの武田と手を取り直す、道理に沿わぬやり方を認めたくはないのだ」

「あれの女房は武田だ。そうしたい気持ちはわかるし、あえて止めはせんよ。現役を退いた者が口を出して、好転することなどそうないからな」

「……しかし、先代なら――」

「それは禁句だ、孫九郎」

「……むう」

 氏政が上杉と手を組むことを快く思っていないのは氏康も承知している。その後、同盟の足並みがそろわぬのは何も上杉側だけが問題ではない。氏政は切る下準備とばかりに信濃攻めなど、難しい依頼を上杉に投げつけている。

 それを繰り返して同盟を切る大義とする気なのだろう。北条と上杉、蜜月はそう長くない。それこそ氏康の死と同時に、切れても不思議ではない。

 それはそれで良いと氏康も考えている。

 もう、自分は任せた身であるから。

「話がそれた。私が言いたかったのは、長尾景虎の戦、彼女に似ていたな、と言うことだ。苛烈な攻め、急所を突く鋭さに、こじ開ける腕力、大胆さもそう」

「……富永殿も申しておられたか」

 七年前に散った忠臣を思い出し、二人は何とも言えぬ表情となる。

「ああ。笠原も、多目も、龍雲斉も、皆少しは感じていたと思う」

「やもしれん」

「ゆえに私は思った。長尾景虎は実は、女人なのではないだろうか、と」

 あまりにも突拍子もない発言に、綱成は目を丸くする。

「……小田原でも、戦場でも見ただろう。あの背の高さで女人は化け物の類であろうが。確かに彼女もデカかったが、いくら何でも――」

「同じ越後で、とらだし」

「……親戚かもしれんが、本人ではないと思うぞ」

「夢ぐらい見させてくれよ。きっと彼女は、私と決着をつけるために遥々小田原まで来てくれたのだ。あの日の続きを求めて幾度も関東へやって来たのだ」

「……頭、大丈夫か? 今日はもう寝た方が良いぞ」

「おかしなことと言っただろうが」

「限度がある」

「ふん。夢のない男め」

 氏康は酒を一気に呷る。口の端からこぼれたが、それは腕で拭う。

「だがな、彼女はきっとがっかりしただろう。私は彼女の喧嘩を受けなかった。北条と言う『城』を優先した。武田のような決戦は避けた」

「当然だ。川中島で武田は有力家臣を多く失った。もう一人の当主とすら言える男をも失った。上杉も相応の犠牲を払った。割に合わぬよ」

「ここからの盤面もそうなったはずだ。殺った、殺られた、そういう戦いになったはずなのだ。ならば、やはり私は期待外れであったのだろうな」

「碁と現実の戦は違う」

「彼女ならきっと、笑って同じと言うさ」

「……かも、しれんな」

 氏康は微笑む。

「選択に迷いはない。正しき道を選んだ自負はある。だが、ふと思うのだ。私は、俺は、きっと勝負がしたかったのだと。何のしがらみもなく、全力で、命を賭して、そういうやり取りがしたかったのだと、想う」

「……」

「実はな、俺はずっと後悔していた」

「……何を?」

「あの日、何故俺は皆と共にあの寺へ行ってしまったのか。何故一人で向き合おうと思えなかったのか。その弱さを、ずっと悔いている」

「俺や笠原が抜け駆けを止めていた」

「だが、俺が命じたら二人は手を引いてくれただろう?」

「……」

「結局、俺の弱さを、自信のなさを読み取られたから、皆はついてきてくれた。俺もそれを受け入れた。それを、悔いているんだ。北条氏康、新九郎の名を継いだはずの男が、臆病風に吹かれていたことを、悔いている」

 獅子の眼は今、爛々とした光を宿していた。

「今ならば、北条を息子に預けた俺ならば、ただの北条氏康ならば、一人で戦える。あの日の続きを、いや、最初からやり直して……例え敗れたとしても、そうできたなら俺は満たされるような気がするのだ」

 あの日、七人対一人の戦いがあった。堂々と渡り合った彼女と、叶うのならばもう一度、今度は一人で対峙したい。

 今の、長く関東に君臨して自信を得た今ならば、彼女と向き合う勇気と覚悟が持てる。そして今度こそ、しがらみなく賭けよう。

 互いの誇りを。

「今ならば……ふふ、これは言い訳かな?」

「いや、勝てるとも」

「孫九郎がそう言ってくれるなら、嗚呼、やれる気がしてきたよ」

 あの日、父を理由に退いた。この十年、北条を理由に向き合わなかった。だが、病を得てようやく荷を下ろすことが出来た今、退く理由はない。

 今ならば――叶わぬ願いと知りながら獅子は天を見つめる。

「生きろよ、新九郎」

「そうだな。生きて、再戦せねばな」

「その意気だ」

「今度こそ、決着を……」

 二人は共に、同じ天を見上げる。

 あの日を、浮かべながら――


 この日以降、『相模の獅子』北条氏康が明瞭な意識を持つことはなかった。中風が深刻化し、目を覚ましたと思っても意思疎通叶わず皆が悲しみに暮れた。彼はずっと夢を見ていたのかもしれない。誰かとの決着をつける夢を。

『……そうか、そう言うことか。ならば、待とう。牙を磨いて。安心してくれ、今度は絶対に逃げない。今度こそ決着を付けよう!』

 獅子は待つ。龍がこちら側へ来ることを。

「……」

「御実城様、何かおかしなことでもありましたか?」

「いや、何でもない。ただの……私事だ」

 龍もまた虫の知らせに少し悲しみ、されど笑みを浮かべる。

 永遠の先できっと、決着が待っているような気がしたから。


 元亀二年十月三日、獅子はこの世を去る。

 享年57歳。

 戦の強さもさることながら、彼の残した功績は内政面にこそあった。徹底的な検地による公平な税の徴収及び、税率を周辺国に比べ軽くして領民の負担を削った。度量衡の統一、目安箱の設置、上水道の整備、通貨統一、挙げればきりがない。

 北条が残らずとも、彼ら五代が築いたこれらの政策はのちの江戸幕府にも受け継がれ、北条の在り方を制度として残すこととなった。

 獅子はその礎を築いた。その貢献は計り知れない。

 それが三代目、『相模の獅子』北条氏康の生涯であった。

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