第佰玖拾陸話:元亀元年

 またも元号が変わり元亀元年(1570年)、上杉家に同盟締結のための人質として北条三郎氏秀が相模より送られてきた。十年にも渡り関東でしのぎを削ってきた仇敵北条氏康の七男であり、越後勢からすると複雑な胸中であろう。

「よう来たのぉ」

「お初にお目にかかります」

「……ぶは、あの男によう似とる」

「……?」

「気にするな、独り言だ。これよりぬしは上杉三郎景虎を名乗れ」

「ッ!?」

「よいな」

「は、はっ!」

 北条三郎は上杉家に養子入りする。それは決定事項であったが、一門の通字である景、そして何よりも虎の字を与え、かつての己と同じ名とした。

「……そんな、馬鹿な」

 家中も揺れたが、何よりも慄いたのは長尾卯松、先年元服を果たし長尾喜平次顕景と名を改めた男であった。輝虎の後継者、誰もが、何よりも自分がそう思っていたのに、突如降って湧いた者が憧れの男の名を冠し、現れたのだ。

 許せないことであった。認め難いことであった。

「若様」

「……三郎なぞ、認めるか」

 だが、ここに来て上田荘及び上田長尾の件で息子と亀裂が走っていた輝虎の姉である長尾綾、仙桃院はほくそ笑んでいた。

 息子に灸をすえられると共に、北条三郎の嫁には長尾の血統を送ることが決まっている。輝虎に子がおらぬ以上、それを出すのは上田長尾の娘。

 三郎に上杉を継がせ、上田長尾を顕景に継がせれば、家中に影響力を残しながら家族全員で上田荘へ戻ることが出来る。まあ、娘は欠けてしまうがこれも武家ならば仕方がないこと、それは彼女も歩んだ道である。

 この時点で彼女は三郎を、上杉景虎を推すと決めていた。実の息子には愛する人が守ろうとした上田長尾を守らせ、義理の息子には憎き宇佐美を操った弟から上杉を奪い取り、与える。これで全てが上手くいく。

 仙桃院はそのために――

「三郎殿、何でも頼ってくださいね。私はそなたの義母なのですから」

「温かいお言葉痛み入ります」

「そう固くならずに。ねえ、華もそう思うでしょう?」

「はい。お母様」

「家族は仲良く、ね」

 上杉三郎景虎の取り込みにかかる。あえて息子に見せつけるように。

「……母上ェ」

 これがのちに御実城様亡き後巻き起こる、国を割る御館の乱に繋がるのだ。今はまだ、火種だけが其処に在る。


     ○


「御実城様も人が悪い。あれでは火に油を注ぐ様なもの」

「……ぬしはどう見る、実綱」

 家中に衝撃を与えた三郎事件。それは数多の憶測を呼び、越後中を駆け回っている最中であった。そんな中、のんびりと輝虎は構えていた。

「景綱です。そうですね……人質の割には良い面構えであったと思いますよ。個人的には若様と比べても遜色ない人材かと」

「俺もそう思う」

「で、どちらにされるのですか?」

「ぶは、阿呆が。俺の後継者など俺の死後、好きに決めれば良いのだ」

「国が割れますな」

「俺が暴れた後に、その国とやらが残っておればな」

「……素晴らしい」

「老いても気持ち悪いのぉ、ぬしは」

「恐縮です」

 上杉輝虎にとって、後々のことなどどうでもいい。自分が決めることではなく、自分が考えることでもないと悟るに至ったから。ただ、政景の忠義には報いねばならぬし、そのために『上杉』で守ろうとした。

 だが、姉の目論見に沿ったとしても政景の子らは守られるだろう。むしろ、より政景の想いに沿う形となるかもしれない。

 となれば、やはりどちらでもいいのだ。輝虎からすれば。

「母上も二年前に亡くなった。これで幼き頃の俺を知るは、僧を除けばぬしぐらいか。くく、想えば随分と遠くまで来たものよなぁ」

「まだ私の娘がおりますよ」

「ふん、俗世にはおらぬ。ぬしもしつこい男だな」

「唯一無二の龍に、並ぶ者などあってはならない。私の持論です」

「……困った男だ」

「ですが、正しかったでしょう?」

「……ああ。そうだな。そのおかげで俺は、欲しくもない最強の座に至ったわけだ。負ける気がせんよ。誰であろうと。今ならば、神にすら負けぬとも」

「それでこそ我が主」

 孤高の頂に彼は立つ。虎を踏み潰し、獅子を殴り続け、手に入れた万能感。常勝不敗の龍は天より地上を見下ろす。

 最後に喰らうべき神は今、都合よく畿内へ、京へ集まっている。東国での争いで磨いた爪牙を、西へ突き立てる時が近づいている。

 全て踏み潰し、喰い殺した先には何があるのだろうか。

「ぬしも消えたら、より完璧に近づくぞ」

「無念ですが、最高ですね」

「やはり、気持ち悪い男だ、ぬしは」

「恐縮です」

 元亀元年九月、上杉輝虎はさらに名を変える。出家し、法号を得たのだ。

 その名こそが上杉不識庵謙信、世に言う上杉謙信の誕生である。

 出家した理由は不明であるが、ただ一つ言えるのは武田信玄同様、この名こそが後世に残り、語り継がれるようになると言うこと。

 最強の軍神が今、最後の名を冠する。


     ○


 神風により世紀の一戦を制し、今まさに天へと昇りつめんとする男、織田信長。彼は足利義昭(先年、義秋から義昭へ改名)を奉じ、今日を実質的に支配せんとしていた。他ならぬ足利義昭本人がそれを望んだのだ。

 当初、織田信長はこれを固辞し、自らの所領へ戻って行ったこともあったが、朝廷からも頼られたことで否と言えずその任につく。

 その際、朝廷より天下静謐執行権が与えられる。

 これによって彼は朝廷の、帝の名の下に戦うという大義名分を得た。この時より彼は天下布武を掲げ、畿内静謐のため幕府を再興し、秩序を取り戻す戦いに乗り出すこととなる。此度の朝倉攻めのその一環であった。

 だが――

「……朝倉、浅井ィ」

 金ヶ崎にて織田信長は痛恨の敗走を強いられることとなる。

 織田軍は開戦当初、錚々たる面々をこの一戦に投入していた。同盟である徳川家康や少し前に三好三人衆と袂を分かち主君三好義継と共に織田軍へ降った松永久秀も陣容に加わる。さらに上り調子の家臣、木下秀吉と幕府の奉行衆として名を連ねる明智光秀もいた。朝倉になぞ負けるわけがない。

 そう思って臨んだ一戦。

 しかしここで血縁同盟を結んでいた浅井が織田を御裏切り、朝倉へついたことで必勝の構えは崩れ、逆に挟撃されることとなった。

 勝てぬ一戦。撤退するしかない。

 そんな時に、

「わしが」

「私が」

 死出の旅路となる可能性がある殿を立候補する者が二人いた。一人は木下藤吉郎秀吉、もう一人は明智十兵衛光秀である。

「……よいのか?」

「生きるか死ぬか。一つわしの運を賭けてみようかと」

「殿が一番、面白そうなので」

「……全く、うつけどもが。生き抜くのだぞ!」

「「御意」」

 金ヶ崎の退き戦。尋常ならざる撤退戦にて、雌伏の時を経た織田の双翼がとうとう歴史の表舞台で躍動する。

「藤吉郎殿、最近調子がすこぶる良いようで」

「はっはっは、昨年但馬で十八城落としておりますからな」

「僅か十日で事を成した知恵、此度も拝借させて頂こう」

「お任せあれ」

 地獄のような撤退戦、その殿でありながら彼らの顔に暗い影はなかった。死なばそこまで、死生観も含め二人はとても似ていたのだ。

 当然、戦も噛み合う。

「「はは」」

 二人は地獄の底で笑う。自分が二人いるような感覚に陥るほど、スムーズに事が運ぶ。正直死を覚悟していた。それもまた良しと腹をくくっていた。

 だが、二人なら――

「鉄砲も使いようですなぁ」

「地の利あってこそ。お互い様でしょう」

 地獄の底であっても負ける気が、死ぬ気がしなかった。京での政務も気が合うとは思っていたが、戦場ではその比ではなかった。

「生き永らえましたな」

「ツイておりました」

「全くです」

 木下秀吉、明智光秀、殿としての役目を果たし逃げ果せた後、立場の差や生まれなどを飛び越え、心の底から笑い合った。

 互いに嘘吐きなれど、この時ばかりは本物の笑顔であったのだ。

 織田信長は幸運であった。本来、挟撃となった時点で全滅もあり得た局面である。しかし彼は優秀な家臣を持っていた。そして幕府側の人員である明智光秀もたまたま陣容に加わっていた。この二人でなければ殿など果たせなかっただろう。

 加えて本隊の撤退中、進行上に朝倉寄りである近江の国衆、朽木元綱がいた。絶体絶命と思っていたところ昔取った杵柄、日本の副王が側近であった松永久秀が彼を口説き落とし、京への道を開いたのだ。

「私は適当で構いませんので、孫六郎(義継)様への便宜をお願いします」

「うむ。承知した」

 副王の右腕、松永久秀も本来織田陣営にはいないはずの男である。信長は今回も負けた。彼は美濃でも結構負けている。だが、どれだけ負けても最後にはこの男が勝つのだ。このような絶体絶命の窮地であっても生き永らえる。

 そしてまた、立ち上がることが出来る。

 再起した織田軍は三か月後姉川にて浅井朝倉の連合軍を打ち破り、健在ぶりを世に知らしめる。負けても負けない。

 神の子織田信長の進撃は止まらない。


     ○


 そして、畿内が賑やかになる裏で、

「……そう、か」

 相模の獅子、北条氏康はえもいわれぬ手のしびれを見つめ、自らの終わりを悟った。元亀元年八月、中風の症状が深刻化し始める。

 元々氏政へ権力の移行を進めていた最大の理由が表層化してきたのだ。

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