第佰玖拾伍話:争いの中、ひと時の休息
越後某所、とある尼寺が隣接する寺院の一角にて、静謐な空気を裂くように碁石の音が響く。ぱちり、ぱちり、と絶え間なく刻まれる音の連なり。
其処には練達の気配が漂っていた。
「……参りました」
「ありがとうございます」
柿崎景家は大きく息を吐き、笑顔で投了する。すでに隣の斎藤朝信はとうの昔に投了し、静かに茶をしばいていた。
二人の相手は、お隣の尼寺に住まう尼僧の文春である。
「相変わらず地に辛く、間違えぬ碁ですな」
「いえ。今日は上手く打てました」
「ふふ、今日も、でしょうに」
「まあ」
置き石があればあるで打ち方は変わるが、彼女の真骨頂は置き石なしの後手番。序盤中盤と広く地を取り、ひとたび相手が荒らそうとすると必ず咎め、手損に持ち込まれてしまうのだから容赦がない。鉄壁の守り、捌き、それが彼女の戦である。
男に生まれていればさぞ、名将となったであろう。
「最近はこちらにいらっしゃるのですか?」
「ええ。最近はもっぱら越中か、身内か、ですな」
「……荒れておりますか、家中は」
「それはもう」
柿崎景家は茶をすすりながら苦い笑みを浮かべる。
「敵には鬼のように強く当たり、味方には甘い。二度目の反乱であった北条(キタジョウ)、揚北衆の本庄もつい最近歯向かいましたか」
「この短い期間でよくもまあ」
「弥五郎(高広)殿の気持ちはわかります。彼の反乱は、一度目とは毛色が違う。終わりの見えぬ関東遠征、厭戦感が漂う民の代弁として立ち上がったのでしょう。実際にあれを機に関東諸侯の多くが我らの陣営を離れました」
「……なら、きっとあの人は許したのでしょうね」
「ええ。紆余曲折はありましたがご丁寧に厩橋城まで返しましたから」
「本庄殿は?」
「一度戦ってみたかった、と御実城様に正直に申し、これまた不問と」
「あはは、あの人が好きそうな返しですねぇ」
「まことに。むしろ歯向かったことで序列が上がりましたな、あの者は」
反乱した者に対し、上杉輝虎が課した処分は極めて甘いものであった。普通、二度目ともなれば一族郎党根絶やしにしてもおかしくはない。いや、一度目の時点でそうする者も少なくないだろう。だが、輝虎は笑って許す。
例外は黒田の時ぐらい。異常なほど彼は味方の裏切りに寛容であった。
「我々としてはもう少し、厳しくして頂かねば示しがつかぬのですが」
「遊び相手が欲しいのですよ。いい歳をして童なのです」
「……ですなぁ」
文春は笑えるほどに鮮明なイメージが浮かぶ。ぶはは、と言う笑い声が今にも聞こえてきそうなほどであった。
「ただ、良き報せもございます」
「まあ。どのような?」
「この度、正式に越相同盟が締結される運びとなりました」
柿崎の言葉に文春は大きく目を開き、静かに、小さく頷いた。
今の『情勢』を鑑みればいずれそうなる可能性はあった。だが、十年近くにも渡り殺し合いを続けてきた輝虎と氏康。山内上杉の名で考えれば遥かに前から衝突してきた上杉と北条がとうとう、手を結ぶ運びとなったのだ。
その理由は――
「虎が止まりませんね」
甲斐の虎、武田信玄であった。
「まことに。話が持ち上がった当初、御実城様は反対されておりました。同盟などまかりならぬ。今まで散った者たちに顔向けできぬ、と」
「本音は?」
「喧嘩相手が減るのは嫌だ、でしょうなぁ」
「でしょうねえ」
二人と一緒に斎藤もけたけたと笑い合う。
「あの人の意志を曲げるほど、ですか」
「はい。虎の勢いは留まることなく、より力を増すばかり。今の武田が負ける姿を某は想像できません。御実城様以外が相手では――」
「あの人は?」
「動けず仕舞い。荒れ狂い、ともすれば暴走しているようにも見えますが、御実城様への対策だけは必要以上にしております。本庄の反乱も武田の手が入っておりますし、越中での争いもまた武田によるもの」
「……なるほど」
虎は明らかに龍と戦うことを避けている。恐れているのか、それとも別の理由があるのか、それはわからない。
ただ、龍もまたあえてその手に逆らうことなく、虎の意のままに踊っている。彼ならば当然、虎の意図を読むことなど出来ているだろう。
そうしないのは――
「怖いですね」
「ええ。これだけ戦うことを避けてきた相手が開戦に踏み切るとなれば、当然勝つ算段が組まれているのでしょうから。油断なりません」
龍が虎を待っているから、そう文春は理解した。待っているのだ、虎が自信をつけて自らの前に立つことを。
最強の喧嘩相手として、自分を喰らう可能性を持つ者として、その時を待つからこそ好き放題やられている、龍最大の理解者である彼女はそう考えた。
○
永禄十一年末、武田信玄が駿河侵攻を開始する。
当然、今川氏真は迎撃のため薩埵峠を主戦場と定め出陣する。が、ここで調略の武田が牙を剥き、開戦前に駿河の有力国衆二十一人を引き抜かれ今川は大敗を喫してしまう。鎧袖一触、まともな戦にもならなかった。
あまりにもあっさりと今川館のある本拠地駿府を武田が占領してしまう。開戦から十日にも満たぬ風の如し侵攻であった。
「……」
ここで武田四天王が一角、馬場信春(永禄五年に信房から信春へ改名)が栄華を誇った駿府を、その象徴である今川館を焼き払う。
水の都は一夜にして、火に飲み込まれてしまったのだ。
まさに火の如し苛烈な攻め。後年、これは馬場の独断であったとされているが、記録とは所詮後付け、駿府を吐き払うと言う大それた判断を現場指揮官が独断でやるか、と考えると疑問は残る。まあすべては闇の中である。
東の都駿府はこうして灰燼に帰す。
「……申し訳ございません、父上」
氏真は苦渋の決断をし、遠江の家臣の朝比奈泰朝の居城掛川城へ身を寄せる。が、其処には事前に示し合わせた通り三河の徳川家康が攻め寄せてきた。
掛川城もまた包囲されてしまう。
急ごしらえの籠城、さほど糧食がない中で今川家は半年持ちこたえる。徳川もあえて攻勢を強めることなく、まるで彼らを守るように囲い続けた。
盟約通りならば、武田は遠江には手を出すことが出来ない。駿河と遠江を武田徳川で分け合うのが事前の取り決めであったから。
その間、今川と同盟を組む北条が武田と薩埵峠にて交戦。氏政率いる軍勢は倍以上の兵力で武田相手に優勢を取りつつ睨み合いとなる。
結果として三か月続いた睨み合いの末、一時的に武田信玄が駿河を去ることになる。しかもこの時、武田も気づかぬ罠が発動する。
それは、
「武田は遠江侵攻も視野に入れている、と?」
「あくまで武田陣中に流れる噂ですが」
徳川家康、松平竹千代と今川家の関係性である。
「火のない所に煙は立たぬ。それに、今の武田が駿河だけで手を引くほど謙虚とも思わぬしな。よし、これでいけるぞ!」
掛川城を包囲する徳川家康は乱破を使い拾ってきた噂を事実として扱い、武田に盟約反故の気あり、として武田との協調を蹴ったのだ。
あくまであちらが先に盟約反故をしようとした、と言う体で。
待ちに待った隙を突き、徳川は逆に北条と密約を交わした。元より、家康に大恩ある今川家を断絶させる気など無かった。むしろ生かすための包囲である。
「……久しいな」
「ご無沙汰しております、今川殿」
「ああ。そうだな、今はもう、そうなるのだな。此度、こちらの助命を受けて頂き感謝する。三河守殿」
「……いえ。当然の道理を通したまでのこと」
永禄十二年五月十七日、家臣の助命と引き換えに掛川城が開城、今川氏真らは徳川の軍門に下ることとなった。裏には今川の同盟相手である北条の仲介もある。
それ以上に、
「……私を笑うか?」
「笑いませぬ」
「……そうか。そなたは最後まで、くく、好かん男であったなぁ」
「……」
「父上の無念、そなたに託す。私は、器ではなかったよ」
「必ずや」
徳川、いや、松平竹千代と今川氏真、今川義元の関係性がこの決着を生んだのだ。この時点では徳川、北条、今川の三者間で武田勢力を駿河より追い払った際、今川家へ国主の座を受け渡すとの密約が交わされるが、履行されることはなかった。
今日この日、戦国大名今川家は滅亡したのだ。
しかし今川の血は続く。それもまた奇縁と言うもの。
○
「北条と武田はこれより激しく相争うこととなるでしょう。御実城様に北条を滅ぼす気がない以上、手を結ぶより他はない」
「……そうですね」
柿崎景家、斎藤朝信、そして文春の三人は境内でのんびりとしていた。会話の内容こそ不穏ではあるが、それはそれとして寺院の静寂は彼らにひと時の安らぎを与えてくれるのだ。戦場の喧騒は遠く、静謐が其処にはあった。
「同盟の際、某の息子と北条の七男が交換される手はずとなりました」
「柿崎殿の? 何故ですか?」
「御実城様には子がおられませんから。まさか卯松様を出すわけにも参りませぬ」
「……それでよく話が通りましたね」
「ふはは、関東で暴れた甲斐がありましたな。それなりに価値があるとみなされたようです。息子も了承済み。御家のためですから」
「……柿崎殿はまことの忠臣です」
文春の言葉に柿崎は困ったような顔をして、
「申し訳ありませぬが、某は御実城様のことをそれほど好いてはおりませぬ。此度は弥五郎(高広)殿と同じく、不毛な争いを終わらせるために骨を折っただけ。反乱を企てるか、子を差し出すか、手法の違いでしかありませぬ」
彼女の忠臣と言う言葉を否定する。
「我らの、民草の命を何だと思っているのか。戦が好きなのは良い。武士ならば当然でしょう。だが、力の行使には目的がなければならないのです。土地か、銭か、糧食か、仇敵を討ち滅ぼすことか。何でも良い、何かあれば……」
上杉輝虎の戦には目的を感じない。何かあるのか、そう思ってここまで来たが、残念ながらそのビジョンが見えることはなかった。
ならば、彼のために散った命は何のためにあったのか――そう思うと柿崎は腸が煮えくり返る思いであった。
「武士だけは、なりたくなかったそうです」
「……?」
「長尾虎千代と言う童の話ですが……剣が好き、城が好き、狩りが好き、音楽が好き、囲碁が好き、だけど武士は嫌い。武士の生き方が、心の底から嫌いだった。兄が好き、光育様が好き、乳母が好き、父母から感じられなかった愛に飢えていた」
石ころを大事そうに集める偉そうな子供を、想う。
「その子は何でも出来ました。きっと、生まれ次第で何にでも成れた。だけど、生まれた瞬間からその子は武士の子で、それ以外の道はなかった」
「……皆、そうです。文春殿だって――」
「はい。皆、それを我慢している。だけどその子はそれが出来なかった。ただ、それだけのことのような気がします。今も、きっと……想像ですが」
「「……」」
柿崎と斎藤は目を見開く。想像したこともなかった。武家に生まれ、彼らは当たり前のように武士となった。息苦しさを感じることはあるが、それは皆同じと飲み込める大人であった。だが、長尾虎千代は、上杉輝虎は違うのだと彼女は言う。
「……不可能です」
「すべてを灰燼に帰せば、あるいは……新しい何かが生まれるかもしれません。あの人は子どもだから、その先は知らないし得意な人が、自分以外の誰かがやればいい。そんなふざけた、投げやりな考えをしているのかもしれませんね」
「……」
「辻褄は合う? 馬鹿なことを言うな、斎藤よ。それは、そんなことが――」
上杉輝虎の介入で関東は一気に荒廃した。多くの命が消え、諸侯が消えた。そして北条や佐竹、里見などの英傑たちが残った。彼らの判断が関東の趨勢を決める、其処に現在は武田が乱入した形であるが――関東管領に依らない、公方にも依らぬ秩序が生まれようとしている。今、山内も足利も関東の中心にはいないから。
それと同じ現象が全国各地で起きている。興亡が繰り返され、旧時代の勢力が新時代の者たちに踏み潰されていくのは珍しい光景ではなかった。もちろん、未だに権威の力は強い。人々を縛っている。だが、以前ほどではない。
それは各地で破壊の嵐が巻き起こっているから――
「あの人の末期は、それはそれは酷いものでしょう。これだけ多くの命を踏み潰してきたのですから……因果応報、戦場で醜く、泥に、血にまみれ、息絶えるはず。それで許してあげてくれませんか? あの人は、あの子が一番なりたくなかったものに殉じて、征くのですから。何卒、助力をお願いいたします」
文春が上杉の重臣、二人に向かって深々と頭を下げる。
「面を上げてください。文春殿が頭を下げる必要など何処にも――」
頭を上げさせようとする柿崎の肩を、斎藤が掴む。そして首を横に振った。わかってやれ、と。これが二人の形なのだと、物言わぬ男の眼が語る。
「……そろそろ引退しようかと思っていたのですが、文春殿に頼まれたのではそうもいきませぬな。御実城様のためではなく、御実城様のために頭を下げる方のために、この柿崎、御実城様へ忠を尽くすとしましょう」
「……同じく」
「ありがとうございます」
息子を差し出すのを以て最後の奉公とする、柿崎景家はそのつもりであった。宇佐美定満の暴挙があってから、彼なりに色々と考えていたのだ。今はまだ衰えを感じないが、衰えを感じてからでは遅いのだと彼を見て思った。
潔く、まだ余力がある内に、自ら手放したと胸を張って余生を過ごし、逝けば周りに迷惑など掛からない。直江景綱よりも少し下だが、彼とはほぼ同世代。
そろそろ進退を、と思っていたが、
「……」
「引退の話は聞いていない? 別によかろうが、撤回したのだから。よくない? ぬしもよくわからぬ男だな、斎藤よ。何故睨む?」
「ふふ、お二人は仲が良いですね」
「そうですかな?」
「そうですとも」
柿崎景家、斎藤朝信、越後が誇る猛将二人は上杉家臣団の筆頭として戦場に立ち続ける。その任が果たせぬ時まで、互いにその時は違えども――
柿崎景家は天正二年、今より五年後病死するまで生涯現役を務め、斎藤朝信は文禄元年頃に同じく病に倒れるまで上杉家に仕え続けた。
その裏に誰かの愛があったことなど、誰も知る由はない。
○
「……これだ。この感覚だ! く、くく、ふは、ふははははははは!」
永禄十二年、十月。甲斐の虎の牙が相模の獅子に深く食い込んだ。一度退き、態勢を立て直した武田軍は駿河ではなく直接、北条が本拠地小田原を狙って侵攻してきたのだ。だが、北条は慌てない。あの男にやられてから十年近くの時が経った。その間、北条が何もせず時が過ぎるのを待つだけ、なわけがない。
小田原はあの時とは比較にならぬほどの堅固さを誇っていた。抜けるものならば抜いてみよ、威風堂々と守りの北条が虎を迎え撃つ。
『……抜けんな』
信玄の判断は速かった。小田原城の堅さを理解するや否や、撤退してみせたのだ。ついでのように火を放ちながら。風の如し放火である。
北条は不動を貫く。虎の撤退が自分たちを小田原から誘き出すための策である可能性を考慮して、である。今、氏康と話が出来る状態ではなかったため、氏政はここで一旦籠城し続ける選択を取る。それ自体に間違いはない。
が、後詰との連携にほつれが生じた。
其処を虎が噛みつく。
三増峠の戦い。北条氏康の三男、五男(諸説あり)である北条氏照、氏邦と北条最強の男、北条綱成が撤退中の虎とぶつかった。
開戦当時は軍勢、布陣、地の利共に北条有利であった。だからこそ綱成も二人の仕掛けに反対しなかったのだ。それに、ここが食い破られても足さえ止めたなら小田原の本隊が追いつき、挟撃できると言う判断もあった。
氏康ならば阿吽の呼吸で――しかしその保険は残念ながら機能せず、加えて武田信玄により捲られ、敗戦を喫してしまったのだ。
甲斐の虎を前に地黄八幡、敗れる。
『……勝てん』
指揮は自分になかったが、自分が指揮であったとしても今の虎には勝てなかった、と綱成は悔しげに地を叩く。
氏政との連携も取れず、北条に手痛い傷を負わせた武田は悠々と本国へ帰還。そのままの勢いに乗って駿河へ乗り込み、今度こそ駿府をその手にする。
虎が獅子を食い破り、天へとまた一歩近づいたのだ。
「……もうすぐだ。もうすぐ、追いつく。そして、追い越すゥ!」
甲斐の虎武田信玄、完成の時まであとわずか。
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