第佰玖拾肆話:敵に塩は送らない

 織田軍にてせっせと働く木下藤吉郎秀吉は家中を上手く立ち回って仕事をこなし、知恵の回る男だと周りに示し続けることで、さらに仕事が舞い込んでくると言う素晴らしい正の螺旋を構築していた。

 普段の仕事で信頼を積み上げてこそ、いい仕事が回ってくると言うもの。

 秀吉は積み上げた。

 だから、

「大義であった、藤吉郎よ」

「勿体無きお言葉」

 織田信長より仇敵美濃斎藤氏の弱体化を求められ、斎藤方である城主二名を織田陣営に引き入れる見事な調略で応えて見せたのだ。

「また出世か」

「それに見合う働きはしておる」

「権六殿がそう言うのなら、そうなのでしょうな」

「どういう意味だ?」

 宿老である丹羽、柴田らすら舌を巻くほどの働きぶり。いつ休んでいるのだと思うほどに、家中の至るとこで首を突っ込み、その上できっちり成果を出すのだから常人ではないのだろう。バイタリティが常軌を逸している。

 これで知恵が回るのだから、周りはたまったものではない。

 妬み嫉みを一身に受け、それでもなお飛翔する秀吉。

(楽しい楽しい。やはり人生はこうでなくてはの。己が何処まで昇っていけるか、はたまたどこかで滑り落ちるのか、それを知るための人生よなァ)

 秀吉は充実していた。

 墨俣の地に拠点を築き、戦術的な重要拠点を守る部隊として活躍。それがのちに墨俣城として改修され、伝説の墨俣一夜城になったとかならなかったとか。

 伝説の話はさておき、やはり誰がどう見ても秀吉の出世速度は異常であった。何せ美濃斎藤氏を織田が破り滅ぼした翌年、丹羽長秀や幕府側の人員である明智光秀と共に京の政務に携わっていたのだ。織田家に仕え十年と少々、底辺から成り上がったと考えたなら破格以外の何物でもない。

 そして、魑魅魍魎が跋扈する京で出会うのだ。

「拙者、木下藤吉郎と申す」

「お噂はかねがね。某、明智十兵衛と申します。以後お見知りおきを」

 天下を分けてまみえる、宿命の二人が。

 成り上がりの男と謎の男、今はまだ敵でも味方でもない。


     ○


 武田信玄による嫡男武田義信の幽閉、その女房を駿河へ送り返すと言う意思表示に対し、今川氏真は海を持たない武田に対し塩止めを行った。今川の同盟国である北条もこれに同調したことで武田家は大きな痛手を被ることとなる。

 塩を欠くことは領民の健康被害にもつながり、足腰が立たなくなってしまうのだ。当然、対決姿勢を示した信玄もこれは警戒しており、実をいうと裏で北条と手を組むべく駿河侵攻の話を持ち掛けていた。

 だが、これが仇となった。

「道理の伴わぬ暴挙に加担する気はない」

 北条氏康は息子、氏政から相談を受けこれを一蹴した。武田が強いのはわかる。今川が落ち目なのも理解している。されど、だからと言って嫡男ごと血縁を切り捨て、目先の利益に走るのは北条の在り方として受け入れ難いものであった。

 二代目であろうと、初代であろうと、同じ判断をしたはず。

 彼らが北条である限り、伊勢宗瑞の子である限り。

「……弱った獲物を喰らわぬ者に先はない」

 武田信玄は北条の選択に怒りではなく静寂で応えた。どうせ駿河を得れば済む話、一年領民に耐えさせればいい。多少の犠牲は出るだろうが。

 男の目は数字を見下ろし、行けると判断した。其処にある民の苦悩、苦難、それはすべて度外視し、ただ数字でのみ彼らを見据える。

 こうなるのはわかっていた。わかっていてもそうした。

 目の前に戦があり、勝利があるのだ。

「俺は成るぞ。あの男と同じ、人を超えた神に」

 もはや人の枠を超え、ただ其処に在るだけで勝利を呼び込むほどのブランド力を有した男に、遅まきながら追いつく。そのためには勝利が必要なのだ。

 勝利を重ね、皆に信じさせねばならない。

 武田信玄ならば勝つ、と。

 創意工夫で勝とうと言うのが間違っている。百姓を交えた大規模戦争が主流の今、五分の戦を平面で勝つことが必要なのだと信玄は考える。

 あの男は正しかった。国力を上げて、石高を高め、兵の動員数を増やす。これはそう簡単ではない。土地など容易く得られないから。

 それよりも自分が神になる方が容易く、早い。

「俺は、必ず――」

 武田と上杉、どちらも信玄、輝虎と言う大黒柱あっての国となりつつあった。彼らは強く、替えの利かぬ星である。逆に氏康は現在、政務の大半を氏政へ移行しつつあり、権力の移行を着々と進めつつあった。

 戦の強さは彼らに分があれど、国家として正しい在り方なのは明白であろう。まあ、正しいから存続する、と言うわけでもないのは苦しいところだが――


     ○


「越後への窓口役か、偉くなったのぉ、朝秀よ」

「お久しぶりです、上杉殿」

「ふ、上杉殿、か」

 武田家家臣、大熊朝秀が越後春日山へ使者として訪れていた。それに対しどの面が、と憤る者も少なくなかったが、輝虎は不満を押さえつけ直接こうして話し合う段取りを組んでいたのだ。話題に関しては聞くまでもない話だが。

「困窮しておるようだな」

「はっ。今川の塩止めは領内全域に影響が及び、明日をも知れぬ者が大勢おります。何卒、御力をお貸しいただきたい」

「……そちらの屋形は何と言うておる? ん?」

 大熊は少し、言い淀み――

「対処不要、と。しかし――」

「ぶは、やはりか。あやつもどうしようもない国主よなぁ。家臣は気を揉んで仕方がなかろう。そうは思わぬか?」

「……拙者からは、何とも」

 大熊は頭を垂れ、下を向きながら苦笑する。どの口が、と。

 輝虎もいたずらっぽい笑みを浮かべている以上、そういうツッコミを待っているのだろう。相変わらずのようで自然と綻んでしまう。

 ただ、話の内容に関しては、

「戦は弓矢にてするもの。敵ながら哀れに思い塩を無償で提供しよう、とはならんのぉ。と言うかほれ、今川から書状も届いておるぞ。参加要請がな」

 正直苦しいところが多過ぎた。

「……」

「武田とは随分長く敵対しておる。哀しいかな、救う理由がない。そも、屋形本人が頭を垂れる覚悟もなく、敵である俺に請うのは筋違いであろうよ」

「道理でございます」

 そう、上杉と武田は長く敵対している。北信濃を巡り十数年も。目の前の大熊朝秀にしても越中を絡めた武田の調略が元で越後を去っている。

 救う理由がない。手を差し伸べる道理もない。

「が、俺も鬼ではない。ぬしが俺の下へ戻ってくるのなら、塩の件考えてやってもいいぞ。さあ、どうする?」

「……っ」

 輝虎の顔を見て、それが冗談でないことを理解する。本気で彼はそう言っているのだ。あの日の別れを反故にしてでも――戻って来いと。

 おそらく今の武田信玄、彼の状態を理解したからこその提案であろう。かつての彼ならば大熊朝秀を活かすことが出来た。武家のしがらみを外し、剣豪として弟子の指導や同じ剣豪との一騎打ちなどで花を咲かせる道もあっただろう。

 だが、今の信玄にそれは求められない。他ならぬ輝虎が彼を落としたのだ。修羅の道へ。結果、彼はあの時よりもさらに強くなった。

 何もせずとも今川には勝つだろう。北条と敵対しても今の信玄が負ける気はしない。多くを捨て、彼はそう成った、そう成る道を選んだ。

 だからこそ今、かつて自分の懐刀だった男を取り戻せるのならば、自分の代はともかく長尾政景の犠牲が生んだ次世代に繋げ、遅まきながらそういう道を作ってやることも出来るかもしれない。いや、出来る。

 そう、卯松を育て上げればいいだけの話。

 だから――

「上泉は諸国流浪の旅に出ました」

「おう。聞いておるぞ」

「羨ましいと思います。あの男なら剣の理に至るでしょう。拙者の届かなかった、高みへ。余計な不純物を除き、ただそれだけに生きる道を選んだから」

「ぬしもそうせよ」

「出来ませぬ。今、拙者の主家は武田家にございます」

「……それは――」

「拙者は一度、我欲のため主君に背き、甲斐へ流れつきました。あったのです、拙者にも。上泉と同じ機会が。それだけで充分。これ以上は、頂けませぬ」

 大熊朝秀は静かに、深く頭を下げた。

 自分が生涯の主君と定めた男を裏切った。そうして流れ着いた場所で、今一度背くことなど大熊には出来なかった。心の中ではそうしたい。ただいち剣豪として上杉輝虎に仕え、彼の馬廻りとして剣を振るう。それはとても幸せなことである。

 だからこそ、ありえないのだ。

 大熊朝秀は一度、それを捨てたのだから。

 上杉輝虎は一度、それを捨てさせるよう背中を押したのだから。

 だから――

「何卒、ご容赦を」

「……」

 彼らが再び交わる道はない。それは武士の道に反する。そういう武士もいるが、大熊朝秀にとっての武士道はそうではなかった。

 ただ、それだけのことである。

「……甲斐武田は、沈むぞ」

「ならば、共に沈むまで」

 真っ直ぐな眼を見て、輝虎はしばし目を瞑り、

「ならば、もう知らぬ。俺は何もせぬぞ。めんどくさい。俺からすれば武田も北条も敵だ。つまり、今川も敵。今更、手など組めるかよ」

「……上杉、殿」

「俺は何もせん。そう決めた。さっさと帰れ。恩知らずの裏切り者が」

「感謝いたす!」

「感謝されるいわれはない」

 武田に手を差し伸べることはないが、今川に与することもない。何もしないと言うことは、今まで通りの日本海側、越後からは塩が買えるということ。

「……」

 大熊朝秀は深く、深く、頭を下げかつての主君に感謝する。与えられてばかりだった。今もそう。ついぞ、まともに役に立つことはなかった。

 悔やみ切れぬ己の未熟さ、弱さ。

「……では、失礼いたす」

「……おう」

 もし、もう一度生まれ変わることが出来たのならば――例えば太平の世、刀をひと振り携え世の中を渡り歩き、その技のみで食べていくのも面白いだろう。

 困難は沢山あるはず。だけどきっと、面白いはず。

 そんな夢を二人は共に浮かべる。

 武家に縛られることなく、自由に生を謳歌する。

 そんな夢を、

「……振られたか」

 見る。


     ○


 翌年、永禄十一年末、武田軍は徳川軍と強調し、今川領への侵攻を開始した。これを以て甲相駿三国同盟は完全な破綻を迎える。

 そして日本は知る。修羅に堕ちた虎の牙、その強さを。

 ここより、甲斐武田の全盛期が始まった。

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