第佰玖拾参話:想い出と憧れと

 度重なる出兵、その割に実り少ない状況に上杉輝虎を非難する者は少なくない。特に独立心の強い揚北衆などはいつか寝首をかいてやる、と思う者もかなりいたことであろう。実際に本庄繁長は後々きっちり反乱し、鎮圧される。

 しかし、それ以上に支持されているのが彼の恐ろしさであろう。

 特に下の立場の者からの支持は熱烈であり、神の如くあがめる者も少なくはない。上杉軍自体はずば抜けて強いわけではないが、彼が率いた軍は負けなし、と言うのも支持を強める一因であった。力と実績、それが龍をより強くする。

 実力と実績が生み出すブランド。それが人の目を焼く。

 戦場での上杉輝虎は輝いていた。

 誰よりも――

「すごいのぉ、与六」

「はい!」

 長尾卯松、樋口与六、のちの上杉景勝と直江兼続は最強の軍神が率いる戦場の片隅で目を輝かせていた。齢十一での初陣、まだ元服前であるが箔付けになると輝虎が春日山から引っ張り出してきたのだ。

 当然、姉との衝突はあったが、最後には卯松本人の希望と上田衆の要望が重なり、姉側が折れることとなり、今に至る。

 卯松の周囲には小姓の与六、さらに彼らを包み込むように上田衆が万全の構えを見せていた。万が一にも流れ矢、弾すら通さぬ布陣である。

 輝虎の姉、綾もとい夫を失い出家した仙桃院からは輝虎の、そして彼の家臣らの悪口を散々聞かされてきた。父を殺した憎き仇なのだと。

 だが――

「……すごいのぉ」

 戦場で彼は神を見た。ただ一人、同じ人間であるはずなのに存在感が異なる怪物を。ただの人間が同じ人間を率いているだけなのに、こんなにも違うのだ。

 鎧袖一触、まともに組み合う前に戦が終わる。敵も味方もそうなるとわかり切っていたかのようなあっさりとした決着。彼が、彼の旗印が現れただけで敵の心は折れ、戦う前から勝負はついていたのだ。

 まさに武将の究極系であろう。

 彼の名はもう、それだけで味方を鼓舞し、敵の心を折るのだから。

 これを機に長尾卯松は輝虎を崇拝し、実の父よりも慕うこととなる。偉大なる養父を慕う気持ちは後世に残る書物からも読み取れる。

 それがまた姉の、仙桃院の怒りに油を注ぐのだが――


     ○


「初陣、大義であったな」

「あ、ありがとうございます!」

 輝虎と共に春日山へ戻った卯松は彼に呼び出され褒められる。特に何か戦果を挙げたわけではないが、上田衆の奮闘によりそれなりの活躍は出来た。

 ただ、褒められるほどではないと思っていたので、こうして直接言葉をかけてもらえるとは思っていなかったのだ。

「齢十一、か。俺など戦場のせの字も知らなかった頃だ。ぬしは大物になるのぉ」

「そ、そんなことは……皆のおかげです」

「ぶはは。童の自分は何でも素直に受け取っておけ。さて、若き俊英への褒美をやらねばならぬの。何が欲しい?」

「ほ、ほしいものなど、特には」

「ふむ。卯松は謙虚よなぁ。姉上ならば迷わず上田、と答えるであろうに」

「は、母上はおかしいのです。父上の件と御実城様には何の関係もありません。宇佐美と上田長尾の話です。それなのに、御実城様の悪口ばかりで……」

「そう言うてやるな。姉上もな、わかっておるのだ。頭の中では。だが、心はそうもいかぬ。何かに、誰かに、怒りを向けねば耐えられぬのだろう。その気持ちは少し、俺にもわかるのだ。それはぬしら家族への愛の深さ、その裏返しなのだから。だから、俺なぞよりも姉上を、母を好いてやれ。よいな、卯松」

「……はい」

 明らかに不承不承と言った様子。卯松を見て輝虎はため息をつきたくなる。戦場を体験させるにしても、自分のそばではなく甘粕辺りに任せるべきであった。どうやら刺激が強過ぎたようである。自分に焦がれてもらっても困るのだが――

「で、褒美なのだが……さすがに今、上田を譲るわけにもいかぬ。なるべく早く返してやりたいが、関東の情勢も不穏でな。北条、里見、佐竹、其処に武田まで首を突っ込んできた。上田は関東への玄関口、難しい土地だ」

「はい。わかっております」

「うむ。俺の秘蔵の太刀、と思ったが、これまた姉上に怒られそうなのでな。それは元服後、その祝いとしてくれてやろう。さほど遠い日でもあるまい」

「あ、ありがとうございます!」

 太刀、と聞いて目を輝かせる卯松。まあ男の子であれば皆太刀は大好きである。大人になっても大好きだし、だからこそ趣向品としての価値もあるのだ。

 ちなみに父の形見を失って以来、輝虎は各地から名刀古刀を収集し、春日山で集めていた。個人的に刀が好きなこともあるし、困った時の資産としても運用できる。彼が収集した刀は卯松、上杉景勝へと受け継がれ後世に残す、のはまだ先の話。

 初陣を形式的に済ませたとはいえ、まだ童。

「代わりにこれをくれてやろう」

 輝虎は卯松を春日山、自身が所有する倉庫へ連れていく。其処には多くの刀や琵琶などが埃を被っており、その奥にひときわ目立つ何かがそびえる。

「……これは?」

「俺が童の時分、これで遊んでいた。もう人形遊びする歳でもないだろうが、与六と共にこれで遊びがてら勉強することだ」

「御実城様が」

 かつて林泉寺の離れにドカンとそびえていた城郭模型が分厚い埃を被り、其処にあった。子どもの視点からはとてつもない大きさに見えるだろう。

 だが、

(……こんなに小さかったか。俺の記憶では、ふふ、もっと大きかったのだがなぁ)

 久しぶりに見た輝虎にとってはとても小さく見えた。あの頃はもっと大きく、それこそ本物の城と見まごうばかりと思っていたのに――

「これを頂けるのですか!?」

「……ああ。存分に遊べ」

「ありがとうございます!」

 憧れの人から、そのおさがりを貰える、となって卯松は有頂天になっていた。あまりの喜びように輝虎は苦笑するしかない。

 まあ、喜んでもらえたのなら何よりか。

「後日ぬしらの館へ運ばせよう。姉上には俺から伝えておく」

「はい!」

 ご機嫌取りのつもりではなかったのだが、結果としてどう見てもそうとしかとらえられない様相である。こうなってくると胃が痛くなることが一つ。

 姉の説得となろう。


     ○


「……何のつもり?」

「……俺には不要なものを譲るだけだ。他意はない」

 予想通り姉、仙桃院は難色を示した。こうなってくると理屈ではない。幼き頃より姉の感情的な部分には振り回されたものだが、此度は理由が理由なので仕方がない面もある。ただ、この感情を向けられ続けるのはきついものがあった。

 慕っていた人だから。

「あまりあの子にはかかわらないで」

「そうはいかん。ゆくゆくは山内上杉の名跡を譲る相手だ。俺も見定めねばならぬからな、責務に見合う器か否かを」

「それはそちらが勝手に決めたことでしょうに!」

「だからどうした? ここは俺の国だぞ。文句があるなら寝首の一つ、かけばよかろう。武士を諦めた姉上とて、それぐらいは出来よう」

「……私は――」

「女を言い訳にするなよ。女だてら、戦場で活躍しておる者はおる。足りなかったのは女だからではない。長尾綾が足りなかったのだ」

「虎千代!」

 仙桃院は襟をつかみ、引っ張ろうとするが輝虎は微動だにしない。

「古志や三条に比べ、上田は元々山内上杉に近しい。それゆえに泥を被ることもあったが、ようやく主家を喰らい日の目を見る時が来たのだ。女の感情で邪魔をするな。その行動を政景が望むか?」

「あの人の名前を……口にするな!」

「話にならんな。卯松にこれ以上、幻滅されたくなければ身を正せ。あの子は姉上が思うよりもずっと聡明だ。いずれ見切られるぞ」

「私から、あの子まで、奪う気なの?」

「そのままならばそうなると言うだけだ」

 手を払い、輝虎は姉に背を向ける。結局また話し合いにならなかった。どうしようもなく姉弟間の関係が拗れてしまったから。その原因は己が、己のやるべきことを政景に押し付けたから。これもまた因果応報、罰なのだと受け入れる。

「……くそ、ままならぬ」

 部屋に戻り、壁を殴り、酒をあおる。

 梅干しの塩気と酒、健康を鑑みた場合最悪の組み合わせであるが、これだけ刺激を与えようとしても味気ないのだから何処かが狂っている。

「戦だけだ。戦だけが……俺を癒す」

 上杉輝虎は虚ろに笑い、酒をさらにあおる。


     ○


 上杉輝虎は戦場へ出向く。何処よりも居心地のいい場所が其処であったから。救いを求めて殺し殺されの場所へ赴くのだから、人でなしであろう。

 碌な死に方はしない。それでいい。

「次の戦場は、何処だ?」

 居場所を求め、龍は戦場を彷徨う。


     ○


 織田家と武田家が縁を結んだ。これはもう、どうしようもない状況である。なぜなら彼らの、松平(徳川)の知らぬところで全てが決まっていたから――

 ちなみに松平元康は少し前に改名をしていた。家康と名を変えた理由は不明だが、徳川に関しては三河守を任官される際、松平時代に自称していた系譜が足を引っ張り破断しかけたところを源氏だが藤原の流れも汲む徳川へ改名することで何とか従五位下三河守を任官することが出来た、と言う裏話がある。

「……殿」

「……武田め。許さんぞ」

 今川領への侵攻、挟撃。織田から届いた情報は松平元康改め、徳川家康を大いに苦悩させていた。織田からすればいい話をまとめてきたぞ、後は武田とうまく交渉し今川領を折半、徳川が治めるがいい、と言う認識であろう。

 織田には善意しかない。実際、表では今川と徳川は領土を巡り争う立場である。氏真と家康にどういう思惑があるのかなど外部には関係がない。

 問題は武田であろう。西上野へ侵攻したのも束の間、まさか織田と手を結び今川を切るなど、あまりにも道理に反している。しかも嫡男ごと縁まで断ったのだ。

 狂っているとしか言いようがない。

「どうされますか?」

「……どうしようもない」

 大殿、今川義元の姿が脳裏に浮かぶ。まさか自分が、彼と共に、今川と共に歩むはずだった自分が、その命脈を断ち切る側となろうとは。

 何たることか、と家康は頭を抱える。

 だが、事ここに至ればどうしようもないのだ。今の徳川に織田と手を切る選択はあり得ない。翻り、武田を敵にすることも出来ない。

 今川を討つ側に立つよりほかの道はない。

(大殿、申し訳ございません)

 徳川家康は歯を食いしばりながら、織田の提案を飲み武田との話し合いに踏み出す。大恩ある今川を討ち滅ぼすための話し合いを――

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