第佰玖拾捌話:堕落の御山、燃ゆる

 北条氏康が死去し、さらに関東の情勢は一変する。四代目北条氏政が上杉との同盟を破棄し、武田との同盟を結び直したのだ。北条と上杉の蜜月はほんのわずかな期間で終焉を迎える。柿崎が出した人質は北条より返却され、

「ぬしはどうする?」

 道理で言えば北条三郎、現在は上杉三郎景虎である彼もまた北条へ戻るはず。

 しかし、

「……私は北条よりも、越後がようございます」

「そうか。なら、その通りに手配しよう」

 他ならぬ三郎自身の意向で、彼は越後に留まることとなる。

「よろしいのですか?」

「構わん。四代目は端からそのつもりであったのだろうよ。だから、当初の予定で出すはずだった息子ではなく、年の離れた弟であるぬしを選んだのだ」

「……そうですね。確かに、その通りです」

(……まあ、それだけではないのだろうがな。序列は低くとも父に似た器量を恐れたか。北条の争いの火種と成り得るものを越後へ押し付けた、と言う側面もあろう。いつの世も兄弟、血縁者こそが一番の敵であるからなァ)

 実際に三郎を返還せぬことに対し、氏政からは本来あるはずの反対意見は出てこなかった。すんなりと彼が越後に留まったこと自体が、そう言う憶測を呼ぶ。

 とにかく上杉と北条はまた割れた。

 このやり取りで得をしたのは他ならぬ武田である。すでに信玄はお得意の調略で越中の一向宗を扇動、上杉に対する大規模な反乱勢力を構築していた。そこで落とし切れぬ北条と手を結び、後顧の憂いも断つ。

 これで武田の備えは成った。

「織田との同盟、もう要らぬな」

「……っ」

 娘を送り出して構築した同盟をあっさりと反故とする信玄の冷徹さに、家臣らは言葉もなかった。かつての彼からは考えられないような非情さ。だが、結果は出している。戦の強さも以前までとは比較にならない。

 とにかく戦い、とにかく勝つ。

 ただし、上杉謙信だけは徹底的に避けているのだが。

「理由も出来た」

「……比叡山の件ですね」

「左様」

 武田信玄は嗤う。わざわざ丁度良い敵が隙を見せてくれたのだ。北条の力は測った。北条家中で最強と名高い綱成を倒し、警戒していた氏康も病に散ったあとは徳川、織田と戦い、自らを仕上げるだけ。

 あれから十年、ようやく武田信玄はあの時感じた距離を埋めることが出来た。そして残り二つ、強者を喰らうことで自らを完成させる。

 今まさに、彼自身の絶頂期を迎えんとしていた。

 その眼は獲物を、織田を見る。


     ○


 『魔王』織田信長、と言う虚像を語る際よく用いられるのが元亀二年九月に行われた比叡山延暦寺の焼き討ちである。仏様を崇め奉る山門を焼き討ちするなど許されない蛮行、と言う風潮が世に蔓延っている。

 が、そもそも延暦寺の焼き討ちに関しては過去に二度、同様のことが行われている。楽市楽座同様、彼は三度目、むしろ歴史に倣う立場であった。

 では何故焼かれたか、それは政治に首を突っ込み過ぎたからに他ならない。本願寺も、法華宗も、皆政治と金で堕落し、やり過ぎて敵に焼かれた。

 今の時代とは別物。政治と密接に結びつき、琵琶湖を中心とした膨大な所領を持ち、その通行税で莫大な銭を稼ぐ彼らを快く思う者が果たしているだろうか。

 それでも彼らは常に許されてきたのだ。

 古き時代から続く格式高い寺院であるから。

 だが、今回も延暦寺はやり過ぎる。

「……あくまで浅井、朝倉につく、と。よくわかった」

「殿」

「残念だが彼らを敵とみなす。権六、半介は騒がしい周辺勢力を黙らせよ。藤吉郎にはすでに越前への海路、陸路を封じさせてある」

「「ははっ」」

 柴田勝家(権六)、佐久間信盛(半介)は頭を下げる。

「十兵衛は私と共に延暦寺へ。天誅を下す!」

「御意」

 そして明智光秀(十兵衛)は織田信長と共に延暦寺を討つため、動き出した。信長は宗教を否定しない。元々先祖の流れを汲めば神官の家系であり、彼自身は神道への造詣が深い。最も信ずるは八百万の神である。

 仏も、そして新たに日本へ入り込んできたキリストも、彼にとっては八百万の中の一つ、となる。無論、その場や会話の中では彼らの流儀に合わせるも、彼はキリストも仏教も、同じように受け入れる度量があった。

 神は多様であり、信仰もまた多様。それ自体を否定する気も、拒絶する気もない。ただ、彼らが自らで掲げる信仰を否定するような振る舞いを、行いを取るのであれば別。欲で膨れ上がり、国が如く振るまうのであれば、相応の対応をするまで。

 彼らは自ら、山門の立場を捨てた、と信長は考える。

 ひたむきに信仰と共に清廉に生きるのであれば何もしなかった。

「かかれ」

「三度目の正直、これで滅びますかな、比叡山」

 堕落した宗教、およそ信心深い織田信長と言う人間からすれば最も嫌悪すべき振る舞いを取ったがゆえに、彼らは三度目の業火に焼かれた。

 事前に通告もしている。それでも彼らは自らが延暦寺であり、信心深いとされる信長が仏に弓を引くわけがないと高をくくり、こうなった。

「ぶ、仏敵がァ!」

「実に面白いことを申されますな。我々は事前に攻めます、と通告までした。ただ頭を垂れるだけでよかったのです。我々が間違っていました、と。素直にごめんなさいと言えなかったから、こうなったんですよ」

「仏ば――」

 明智光秀は愛用の火縄銃で欲にまみれた僧の頭蓋を射抜き、悠々と屍を踏み越える。延暦寺は下手くそだった。権威の使い方が下手であったから、此度もまた力に踏み潰されてしまう。この国ほど権威が強い場所で、これだけ潰されるのだから、彼らが愚かなのか、それとも権力が人を堕落させてしまうのか――

「……如何なる力も使いよう。其処を間違えたから、比叡山は燃えるのです」

 堕落した僧の都、比叡山が燃える。

 欲の象徴である様々な建物を、物的証拠ごと、燃える。

 御山に存在しないはずの欲望が、燃えていた。


     ○


 上杉謙信はその報せを聞き、腹を抱えて、涙を浮かべながら大笑いした。自分がやりたかったことを、あの男がやり果せたのである。

 なんと爽快なことか、と謙信は笑う。

 これで一つ、仕事が減った。


     ○


 比叡山延暦寺焼き討ちに対し、多くの諸侯は口を閉ざした。仏教に牙を剥いたのはよくないが、さりとて比叡山を擁護することも出来ない。彼らの堕落は畿内の外でも周知の事実であったから。

 だが、ここで武田信玄が動く。いち早く織田を仏教の敵となじり、甲斐へ延暦寺を移し再興させたい、とぶち上げたのだ。延暦寺のトップである覚恕(正親町天皇の弟)の亡命を受け入れ、彼らを保護する。

 権威を手中に収めると同時に――

「織田、許すまじ」

 織田家へ弓を引く大義も出来た、いや、無理やり作った。

 そして武田信玄は事前申告することなく、軍勢を徳川領へ進めたのだ。御仏に弓を引いた男を討つべく、まずは同盟先の徳川から喰らう。

「あと少し、もう少しだ」

 龍が見える。ようやく見えた。

 ここで、追いつく。

 武田信玄による西上作戦、ここに開幕。

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