第佰玖拾壱話:暴走する時代

 駿河、遠江、二か国を治める今川氏真は苦境に立たされていた。方々手を尽くし勢力維持を目論むも、その全てが空振ってしまう。いや、一定の効果はあってもそれ以上に混乱が離反を招き、それがさらなる混乱へと繋がる負の連鎖が起きていた。

 それだけ先代今川義元の影響力が凄かったのだろう。

 その損失はなかなか埋まらぬまま、じわじわと削れる版図に氏真は顔を歪める。三河、松平との軋轢は仕方がない。上同士はある程度理解した上で、隣の織田を刺激しないように衝突しているだけ。氏真も三河は端から捨てたつもりである。

 北条との同盟は健在。それだけは現状の好材料と言える。

 だが、

「……ふざけるな!」

 戦国大名今川家の命運を断つ一手が、氏真の与り知らぬところで放たれてしまったのだ。寝耳に水とはまさにこのこと。

 ただでさえ遠江の混乱も収まらぬ中、こんな事件が表沙汰になれば今川家は窮することになろう。家臣の離反がどうこうではない。

 外敵が生まれようとしているのだ。

 それも、かつては味方であったはずの勢力が。

「……父上。私には、道が見えませぬ」

 父ならばどう捌いただろうか。桶狭間で散った今でも氏真は思う。父ならば飄々とこの難局を乗り切り、今川家の手綱をきっちり握りしめていただろう、と。

 そんな画がありありと浮かぶ。

 だからこそ――辛いのだが。

 政治とは空気である。氏真が優秀であろうが不出来であろうが、空気が生み出す流れの前には大した意味はないのだ。今川は落ち目、その空気が形成されてしまった今、如何なる手段を用いてもその流れを変えることは難しい。

 今川氏真は決して統治者として無能であったわけではない。文書発行を重ねて寺社や国衆の繋ぎ止めを画策し、幕府に根回しし相伴衆の格式を得て権威の力も借りた。今より少し後になるが徳政令や六角から倣い楽市などの政策も打った。

 父が残した西から流れてきた公家たちとの繋がりも大事にし、忙しい合間を縫って蹴鞠や和歌を披露する場にも積極的に参加した。

 全ては今川家のためである。

 されど、流れは変わらない。否、それ以上に悪化する。

 修羅に堕ちた虎の手によって――


     ○


 永禄七年七月、ことは第五次川中島の裏側で進行していた。

「父上!」

「……何だ?」

「今川と縁を切るつもりとは、どういうことですか!?」

「そのままだ」

「私の妻は今川の女ですぞ!」

「折を見て離縁せよ。話はそれで終わりか? 戦支度をしておるのだ」

「……」

 些末なことだ、と言わんばかりの発言に武田家嫡男、武田義信は顔を歪めていた。第四次川中島の戦いからずっと、父はおかしくなってしまった。

 家中は緊張感に包まれ、笑顔の絶えなかった家臣らは常にひりついている。義信も父の色呆けには困ったものだ、など言いながら父を尊敬し、その背を目指していた。それなのに、あの一戦で尊敬すべき父は狂気に堕ちた。

 確かに今、今川は弱っている。義元と言う大黒柱を失い、元々潜在的に存在していた火種がそこかしこで噴出、対応に右往左往しているのは事実。

 だが、だからと言って今川と縁を切るのはあまりにも短絡的である。駿河を得て、荒れた遠江を得て、接するは現在勢いに乗る織田の同盟勢力、三河の松平。彼らと戦えば必ず織田が顔を出してくるだろう。

 そして何よりも、現在今川と同盟を継続している北条を敵に回しかねない。と言うよりも十中八九そうなる。北条も上杉、里見、佐竹らとの戦いに疲弊しているが、それでも一大勢力であることに違いはない。

 西は織田。東は北条。北は上杉。

 こんなもの早晩破綻するのは目に見えている。

「……若様」

「隠居していただくほか、あるまい」

 甲斐武田家の呪いにも似た因習。先代の信虎が父を追い落としたように、信玄もまた信虎を追い出した。今、義信もまたその岐路に立つ。

 やりたいわけではない。されど御家のため、今目先の利益を求めて今川の敵となり、領土を奪うのはあまりにも軽挙妄動が過ぎる。

「叔父上が生きていれば必ず諫めたはず。私もそうするまで」

 凪の川中島、その裏側で息子義信は暗躍を開始した。

 全ては御家のために――


 しかし、

「俺を欺けると思うたか、愚かな息子よ」

「父、上ェ」

 父と違い武田信玄は隙を見せず、逆に息子を反逆者として彼の賛同者らを処刑し、家臣団は追放。息子義信もまた拘束されていた。

 永禄八年、一月のことである。

「今川と手を切り、北条と手を切り、武田に何が残るというのですか!」

「武田の領土が残る」

「甲斐、信濃、駿河……上野国にも手を伸ばしている。本気でその範囲を、武田だけで守り切れると思っているのか! 不可能だ!」

「勝ち続ければ良い」

「……上杉に、敗れた男が常勝気取りか」

「……」

 信玄は無言で息子の顔を殴りつける。口の端を切り、流れる血を手枷があるため拭うことすら出来ない義信。それでも眼は、間違った方へ進まんとする父を睨む。そちらではない。何故わからないのだ。その先に、武田の命脈はない。

「俺がいつ敗れた? 信濃を得たのは俺だ。あの戦は武田が勝った。俺が勝った!」

「ならば、挑めよ。海が欲しいなら、越後を、春日山を得ればいい」

「……まだ早い。今川の方が容易い」

「……結局、父上は上杉から、あの男から、逃げているだけではありませぬか」

「……義信ゥ!」

 悪鬼羅刹を貌に宿し、信玄は息子を殴打し続ける。見るに堪えぬと四天王らは顔を歪め、目を伏せた。虎は変わった。もう、あの頃の面影はない。

「俺はァ!」

「が、は」

「御屋形様! おやめください! これ以上は、死んでしまいま――」

 香坂虎綱が体を抑え、止めるも信玄の目に浮かぶ冷たい光に虎綱をはじめとした家臣らは息をのむ。この男はまさか自身の後継者を――

「考えを改める気はあるか?」

「……ありませぬ」

「……そうか。残念だ」

 息子から目を背けるように身を翻す父、信玄。その背を睨むように、歯を食いしばりながら義信は言葉を紡ぐ。

「典厩(信繁)殿も、同じく止めたはずです!」

「……あやつは死んだ。死人は、何も語らん」

「父上!」

 全てを拒絶し、甲斐の虎は我が道を征く。あの日、人に頼ったがゆえに不純物が混じった。それが自分をあの男の高みから引きずりおろしてしまったのだ。

 もう間違えない。己のみを信ずる。

 虎は修羅の道を征く。

 同年十月、後継者であった武田義信は甲斐の東光寺へ幽閉され、十一月には彼の正室が駿府へ送り返された。謀反を企てた結果、とは言え今川にとって、そして同盟を組む北条にとっても凶報以外の何物でもない。

 じき、敵に回ると宣言したに等しいから。

 東国の混沌は増すばかり。

 二年後、ひっそりと幽閉されていた義信は三十歳でこの世を去ることになるのだが、その死因は不明である。自死か、病か、それとも――

「諏訪殿!」

「何ですか、馬場殿」

「……織田の女を室に迎えよ、と」

「……あらぁ、本気で今川とやる気なんですねぇ。御屋形様は」

「……はい」

「参ったなぁ。信濃で満足、それじゃあ駄目なんですかねぇ」

「……」

「はいはい。御屋形様には逆らいませんよ。怖いもの」

 諏訪四郎勝頼。のちの武田勝頼は同年十一月、織田家の養女を正室に迎え入れることとなる。これにより武田の道筋は明確になった。

 今川を切り、織田と手を組む。

 当然、穏便に済むことはない。


     ○


 また、同じく永禄八年五月十九日、畿内にて激震が走る。

 室町幕府将軍、足利義輝が殺害されたのだ。

 これが世に言う永禄の変、である。

 下手人は三好義重、そして三好三人衆と呼ばれる三好長逸、三好宗渭、岩成友通、最後に松永久秀の息子、松永久通であった。

 其処に松永久秀の名はない。

「……公方様を、僕が、殺したのか?」

「不可抗力でございます。我らは誠心誠意、公方様に要求したのですが聞き入れられず、逸った兵らの手で……すでに咎人は処刑しております」

「されど、今が好機。三好が天に昇る時ですぞ!」

「名を義継と変えられませい。天下に知らしめるのです。義の字を継ぐ者、として」

「あ、ああ。のお、弾正(松永久秀)に相談したいのだが」

「必要ありません」

「あのようなぽっと出、信用するに値しませぬ」

「我らがおりますれば」

 三好三人衆の押し込むかのような言葉が若き、若過ぎる主君を飲み込んだ。その様子を久秀の子、久通は哀れな者を見る目で見つめる。

 三好三人衆は三好の系譜であるが長慶と直接の繋がりはない。宗渭に至っては長慶の父を陥れた内の一人である。彼らは長慶が久秀を重用することに不満を抱いていた。そして昨年、長慶が散ったことで彼らは動き出したのだ。

 三好の後継者を手中に収め、傀儡とし権力を握るために。

 だから今、松永久秀は京にはおらず大和国にいた。引き離されたのだ、久秀と義重、否、義継は。三好三人衆によって。

 久通はそうなることを読んだ久秀が仕込んだ間者であったが、残念ながら彼一人では彼らの暴挙を止めることはできなかった。

 まさか、このような悪手を放つなど、誰が想像できようか。

(大義無き謀反。道理が通るわけもなし。父上……残念ながらこの者ら、父上の想像以上の愚か者でした。三好の命脈は今日、尽き申した)

 松永久秀が息子、松永久通が天を仰ぐ。

 その報せが久秀の耳に入ると――

「……くそ」

 あの飄々とした男が珍しく、怒りをあらわにしたという。足利義輝のことなど彼にとってはどうでもいい。大事なのは三好の、長慶が残したものを繋げること。

「まだ私は去りませぬよ、長慶様」

 乱世の梟雄と謳われた松永久秀。されど、彼の足跡を辿ると常に三好のため、長慶の系譜のために動いていることがわかる。彼は必死に、その生涯を賭して三好のために働いた。裏切り者など印象でしかない。

「実は義理堅いのでね」

 何者でもなかった己を取り立ててくれた大恩人。彼はずっと前から決めていたのだ。三好のため、否、長慶のために生きることを。

「さて、どうしたものか」

 ゆえに彼は考える。実の子でなくとも長慶の流れを汲む者、最後に己が三好を継がせると決めた者。三好義継のため、彼は動き出す。


     ○


 そんな中、上杉輝虎はいつものように関東で大暴れをしていた。相も変わらず暴れ散らかす彼らはもはや東国の風物詩である。

 今年も越後から蝗の大群がやってきた、みたいな。

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