第佰玖拾話:第五次川中島の『対陣』
永禄七年、関東でも正月早々から北条里見による激戦が繰り広げられていた。北条、里見の両家にとっても因縁の地、国府台。武蔵国と下総国の境目であり、どちらにとっても抑えておきたい要衝である。
ゆえにかつて、二代北条氏綱、若き日の北条氏康は軍を率いて戦った。小弓公方を自称する足利が里見含む諸将を率いて対峙し、まさに死闘となったのは今は昔。
小弓公方を砕き、北条の名を関東に刻んだ一線こそが第一次国府台合戦である。
そして今、因縁の両家が再び衝突する。
第二次国府台合戦。
しかし、緒戦。小弓公方の亡霊が力を貸したのか、戦力で勝る北条軍を里見軍が打ち破る。その際、先行していた五色備が一角、『青備』の富永直勝らが討ち死にし、北条軍に大打撃を与えた。信頼する友を失い、悲痛に顔を歪める氏康、綱成。
されど、いや、だからこそ彼らは奮起する。
得意の夜襲を仕掛け、勝利したばかりで油断していた里見軍を一気に叩いた。里見義堯ほどの戦巧者であっても、勝利のすぐ後と言うのは隙が生まれるものであったのだ。主力の裏切り、重臣正木の敗死に義堯は叫んだという。勝って兜の緒を締めよ、この言葉が後世に伝わるのはそれがわかっていても難しいから、なのだ。。
「氏康ゥ」
「義堯ァ」
この一戦は結果として、北条に軍配が上がる。だが、追い詰められた里見は積極的に軍事行動を取り、これから先長く北条を苦しめることとなる。
負けたままでは済まさぬ北条と、ただでは転ばぬ里見。
どちらもこの一戦で重臣を失った。奪い、奪われ、戦いは激化する。
其処に上杉がやってくるのだから、関東が荒れるのも無理からぬこと、である。
○
永禄七年八月、畿内では『蛟竜』三好長慶が去り、越後では人知れず長尾政景、宇佐美定満の両名が散った。されど感傷に浸る暇はない。
信濃、川中島にて再び上杉、武田が対峙したのだ。
俗に言う第五次川中島の戦い、である。
ただこの一戦、戦いと銘打たれているものの、実際は戦闘など起きていない。両軍長期対峙していただけであった。
ゆえにこの一戦、別名『塩崎の対陣』と呼ばれている。決戦を望む上杉軍に対し、武田軍は塩崎城から一歩も出ぬ籠城を決め込んでいたのだ。
第二次もかくやと言わんばかりの塩試合。塩崎だけに。
塩試合と名高い第二次川中島でも多少の衝突はあったというのに、今回は一歩も踏み込んでこない消極ぶりに越後勢の罵詈雑言が飛ぶ。
「甲斐の虎も先の一戦で猫に成り下がりましたか」
「補給はどうした、実綱よ」
「景綱です、御実城様。無論、つつがなく」
「……相変わらずキショいのォ、ぬしは」
「お褒め預かり光栄です」
「……」
直江実綱、もとい直江政綱、もとい直江景綱は輝虎の後を追うように名を変えた。政虎から輝虎になった際は、その捨てた政の字を拾うかのように政綱と名乗り、その二年後の今、それに飽きたのかわざわざ長尾家の通字である景を拾ってきた。普通主君の通字など甘粕のように貰い受けたり、元々被っているから、など何か理由があって付いているものだが、この男に理由はない。当然輝虎も与えていない。
と言うかこの男、おそらく初めから景の字狙いだったのだろう。ただ、ほぼ断絶状態の三条、古志と異なり、上田長尾が健在であったため、さすがに景の字を取って付けるのは諦めていたところに降って湧いたような政景の死。
実質的に有力な守護代家三つが崩れ、意気揚々と景の字と合体した景綱。最高に気持ち悪く、当てつけのような改名は輝虎の姉である綾の怒りも買った。
そのせいでさらに姉弟の溝が深まったので、本当に殺したいほど憎たらしいし、心底嫌っている。が、政景亡き今、この男の価値はさらに上がってしまった。
だからこそ、『景綱』を名乗っているのだ。
「攻めぬのですか?」
「あれを無策でか? ありえん」
「らしくない。少し前の御実城様ならば……攻めていたと思いますが」
「その探るような眼をやめよ。気持ち悪い」
「失礼。生まれつきこういう目でして」
「キショい」
輝虎を探るような眼。この理由は嫌でもわかる。どん底だった自分が少しだけ前を向く理由が出来た。その変化を感じ取り、理由を探っているのだ。
当てはあるのだろう。実の娘の事、思い至らぬわけがない。
と言うよりも、すでに輝虎の周りには彼を支えられる人材などほとんどいないのだ。察しが悪くとも、変化に気づけば嫌でも察することが出来るだろう。
だが、
「なら、ぬしが攻めるか? 武田は貧しいくせに鉄砲を買い増したのだろう。あれが固めた布陣を突破するのは至難だぞ。ん?」
「……私では無理でしょうな」
「ぶはは、当然だ。俺でも無理なのだからなァ」
尻尾はつかませない。確定しなければ景綱も何か仕掛ける気まではないのだろう。無論、文を春日山に引き戻せば死に物狂いで殺しに来るだろうが。
離れている限り、この男は何もしない。
だって今、幸せだから。
「ではこのままですか?」
「そうさな。あやつが、我慢できれば……そう成る」
輝虎は不敵に笑う。その眼は敵である虎へと向けられていた。ちなみに景綱、この視線には嫉妬しない。この熱烈な視線は獲物に向けるものであるから。
主君が期待していることだけは腹立たしいが、主君が負けるわけがないと理解しているため、あのままならば結局獲物のまま。
天に選ばれた軍神と同じ土俵で戦おうと言うのが不敬で愚かなこと。獲物はせいぜい捕食者を楽しませ、喰われるがいい。
己は一歩後ろで我が神の子を愛でるだけ――
「……ふふ」
(……留守居にすりゃよかったのぉ)
ちなみに今回の留守居は隠居しようと画策していた本庄実乃を引っ張り出し、とりあえずよろしくと全部放り投げてきていた。政景の死の余波である。
息子の秀綱も城将として父の補佐につけていた。彼はこちらへ来たがったが、とにかく政の出来る人材が足りぬため、そちらで学んでもらおうと考えたのだ。
まあ、おそらくはこの戦、得るものは何もないはずだから。
○
「待機」
山の如し不動のみを言い渡す武田信玄。その眼はこの場の誰に向けられることなく、ただ龍のみを見据えていた。
この場には重苦しい沈黙が横たわる。武田陣営の空気は第四次川中島を境に大きく変わった。如何なる窮地でも、逆境、苦境でも、明るさを失わなかったと言うのに、あれから三年の月日が経ってなお、皆が集まる場には笑顔の欠片もない。
かつては信玄自身に考えがあったとしても、広く皆の意見を聞いていた。そのために優秀な人材を集めたのだ、とドヤ顔で語っていたものである。
だが、今の彼は人に意見を求めない。
おそらく意見を述べたところで採用されることもないだろう。
(……御屋形様は変わられたな)
飯富昌景の背後、部屋の隅で末席として座る大熊朝秀はかすかに顔を歪めていた。昨年、突如昌景の与力となれと命じられた。元々は戦場に出す気など無い、剣術家が適正ならばそう使う、と言っており、実際に第四次川中島にも参戦していない。
しかし、今の信玄は前言を撤回したのか、ただ昌景の下につけと命じたきり、口もきいていない。大熊とて武士の端くれ、主君に戦えと言われたなら戦うまで。
ただ、同じ戦場で戦うのならあちらの方がよかったな、と思うだけで。
大熊の目にも今の信玄は冷たく映る。
本拠地である甲斐、躑躅ヶ崎館の空気もこの場と同じく重苦しくなった。大熊自身、さほど多くを知るわけではないが、越後に比べて明るい連中だな、とは常々思っていたほどである。財務状況は芳しくないのに、よく笑っていられるな、と越後上杉の財務大臣みたいなポジションだった男は苦い笑みを浮かべていたもの。
信玄が色ごとに耽り、弟が追い回し、皆がそれを見て笑う。
今はあれだけ追い掛け回していた女人の尻を追うこともせず、ただひたすらに各地の地図や将棋盤、囲碁盤を眺め思索に耽っていた。
「相手の出方を窺うため、あえて仕掛けるのも一興では?」
香坂(春日)虎綱の言葉を、
「二度は言わん」
「……はっ」
ただ弾き、視線すら向けずに『誰か』だけを見つめる。
誰の言葉も届かない。あえて耳を閉ざした。
(今はまだ勝ち筋が見えん。だが、負けぬ方法はある。茶臼山の時と同じ……今度はそちらが動くまで頑として動かぬぞ。もう、迷いはしない。俺は俺だけを信じ、俺のみを柱とする。不純物は要らぬ。そうだろう、景虎よ)
茶臼山では見えていた、あの山巓がまた見え始める。
龍の尾が見えた。
あの時よりもくっきりと――
(五年、いや十年だ。十年後、俺はぬしと並ぶ。いや、越えて見せる。今は戦わん。だが、十年後必ず引きずりおろしてやる)
武田信玄はほの暗い笑みを浮かべる。純粋なる戦の求道者、こう成ってようやく孤高の頂が見えた。あの日皆で見たまがい物ではない。
冷たく聳える峻厳なる頂である。
其処に立つは日本でただ一人。
(首を洗って待っておれ)
虎は一人、全てを振り払って天へと手を伸ばす。
○
「生意気な」
「何か?」
「……いや、何でもない」
上杉輝虎は何かを感じ取り、哀しげに微笑んだ。複雑な胸中である。遊び相手が本気になってくれたのは嬉しい。だが、同時に本気でこちら側へ来ると言うことは、彼が輝いていた最大の美徳を捨てるに等しいことであったのだ。
捨てねば届かない。しかし、捨てたなら先の時代に残す価値はない。
次の衝突、輝虎は迷わず信玄の首を取るだろう。氏康やあの時点での信玄とは意味合いが異なってしまうのだ。
まあ、それもまた一興。場合によっては自らも喰われかねない。そのひりつきはもう、信玄だけしか与えてくれないだろう。
修羅の道が人の道と重なることはないから。
「まあ、楽しみにしておいてやろう」
六十日にも及ぶ睨み合いは上杉軍の撤退に終わった。ただの一度も交戦することなく幕を下ろしたのだから、これを戦いとするには無理があろう。
ただ時だけを徒に浪費した、まさに徒労である。
ここより上杉は関東へ、武田もまたそちらへ戦の主体を移す。北信濃の大半をきっちり抑え、春日山も手が届くところまで迫りながらも、信玄は時期尚早とあえて別の道を征かんとする。その選択が武田の明暗を分けるのだ。
全ての歴史は繋がっているのだから――
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