第佰捌拾玖話:二人だけの『勝負』
「――定満はな、本当に凄かったのだぞ。どんな問いかけをしても考える素振りすらなく、すらすらと答えたものだ。俺の知る誰よりも戦への造詣が深かった。誰よりもだ。今でもそう思っておる。本当だ」
「……」
「だがな、教わってしまったのだ。この俺が。あやつは俺に惜しげもなく全てを教えてくれた。だから、要らなくなった。俺で事足りるから」
「……」
「俺に知識を授けるべきではなかった。そうすれば役割分担が出来た。任せる仕事もあった。でも、今の俺に欠けはない。少なくとも戦場において宇佐美定満に出来て、上杉輝虎に出来ぬことは……ないのだ」
「……」
かつてなら高慢ちきとでも言っていただろうが、弱り切った彼に憎まれ口をぶつける気にはならなかった。それに、これは事実であるのだ。
今の越後に欠けてはならぬ駒がいるとすれば、それは直江実綱(政綱)などの政を取り仕切る人材くらいであろう。長尾政景もここに該当した。
上杉輝虎が遠征に外へ出ることが増えれば、必然的に内側を守る者が必要となる。世の中はすべて需要と供給であり、輝虎の戦場に宇佐美のような考える駒はそれほど重要ではない。考えることはすべて、頭である輝虎がやれてしまうから。
もちろん備え制度による指揮権の分散で多少の思考力は必要になったが、そこに必要なのは目先を考える力。大局観ではない。
宇佐美定満の性能は駒として過剰であった。それだけならまだ使い道はあったが、哀しいかな足腰の劣化により駒として一番重要な仕事を果たせなくなってしまった。それが彼を切ろうとした最大の理由である。
「朝秀の武もそうだった。一対一では突き抜けていたが、多人数が入り乱れる戦場では俺の方が上であった。柿崎らと比較しても剣への信仰、こだわりが足を引っ張り十全に力を発揮できず、替えの利く駒でしかなかった」
大熊朝秀とて自らの陣営に絶対必要な存在であれば、どのような手段を用いてでも武田の調略を跳ね除け、越後に残していた。だが、戦場での彼は剣術の才に比例することなく、優秀な武将と言う価値しかなかったのだ。
だから、本人の輝ける場所であろう新天地行きへ誘導した。まあ、その人を活かす武田信玄はもう存在しないのだが。
「……この話何週目?」
「……微妙に違う。その、話の枝葉が」
「要は一人で寂しいですって言いたいんでしょ?」
「……身も蓋もないのぉ」
「しかも私に気を使って、一番重要な人物の話だけはしないし」
「……」
「私はそっちが聞きたいんだけど」
「……むぅ」
最近世間話を誰ともしなくなり、とりあえず愚痴などをつらつら語っていたのだが、話のまとまりがなく同じ話を何週もしていた。普段は要点だけしか語らなかったり、要点すらも説明せぬ男なのだが、こうなるとただの口下手男である。
「梅さんや弥太郎の話」
「……なぜ弥太郎を知っておる?」
「たまにお隣の寺院に持の字とか、あと柿崎さんとか来るから」
「おん? 持の字はともかく、なぜ柿崎が?」
「碁を習いに、ね。斎藤さんとかも来るけど……何、嫉妬してんの?」
「せんわ阿呆」
まさか己の知らぬところで甘粕や柿崎が暗躍しているとは知らなかった。あれも妻帯者であるし変な気があるわけでもないだろうが、妙に湿度が高いのはなぜなのだろうか。そしてなぜ、こうも不愉快な気持ちになるのだろうか。
「俺に愛想をつかし出て行った。それだけだ」
「そ。それは残念でした」
文春はそれ以上深堀することなく、話を切り上げる。建前の方だけを多少なりとも聞いているのなら、もう少し踏み込んできてもよさそうなものなのに、あえて浅く踏み込み話を済ませたところを見るに――
(本当に、聡い女よなァ)
おそらく甘粕辺りから本当の話を聞いているのだろう。もしかすると己が知らされていない部分まで。本来は触れたくない。かと言って聞かぬのも不自然。
まあ、こんな塩梅になるわけである。
「で、ご結婚はされないのですか? 関東管領様」
「相手がおらんのでな」
「より取り見取りでしょうに」
「ふん」
「あらあら、困ったことに関東管領山内上杉の当主ともあろう者が、後継者の一人も残す気がないなんて世も末ですねえ」
「……元々作る気など無かった」
歯切れの悪い言葉に文春は少し首をかしげる。
「無かった、と言うことは?」
「……政景に借りが出来た。俺にはあやつの血を守る責務がある。卯松、これを俺が引き取る。政景の跡を継ぐには幼過ぎ、内外と敵の多い上田の舵取りは不可能だ。俺がまとめて面倒を見て、上田と言わずに越後全てをくれてやる」
「それが新五郎殿の望み?」
「いや、あれに野心はなかった。だがな、そう思わぬ者も少なくはない。ただでさえ上田衆は嫌われておるからな。あれの望みは御家、いや、家族を守ることだ。名前にはきっと、こだわらぬよ。だから、最も安全な方法を取る」
「そっか。随分様変わりしたのね」
「ああ。人は変わる。変えたのは姉上なのだろう。だからこそ、俺の愚行は重いのだ。必然、借りも大きくなる。全く、何一つ残す気など無かったのだがなぁ」
上杉輝虎はすべてを破壊し尽くし、自らもまた戦場で果てようと考えていた。別に世直しなど考えていたわけではないが、どうにも好きになれない世の中をぶっ壊すのは痛快であるし、その後は残った傑物が世を創るならそれもまた一興。
だから北条も残したし、武田も生かした。
あとは勝手に選べ、と言った具合に。北条はその道を選び、武田はどうにも雲行きは怪しい。まあ、あそこで退けなかったのが全て、か。
「……その道、幸せ?」
「ぶは、俺には似合わぬよ。神がな、どうにも俺がそうなるのを嫌っておるらしい。ほんの少しだけ、そういう生き方をしても良いか、とは思ったのだが、な」
文春はその惑いから『彼女』をくみ取り、少しばかり苦い笑みを浮かべる。彼にそう生きて欲しかった、そういう道もあったことは嬉しいのだが、同時にそれが自分ではなく『彼女』がもたらしたことを知り、複雑な感情が渦巻いていたのだ。
仏道の修行を繰り返してなお、醜い心は消えてくれない。
「神仏を信じるなんて、とららしくないよ」
「これだけ偏りも続けば、俺とて信心深くもなる。ただし、クソ野郎だと思っておるし、いつか噛みついてやろう、とも考えておるがなぁ」
「……」
世の出来事とは全て連動している。今川義元が健在であれば長尾景虎が関東へ出向くことは今よりもずっと困難であったろうし、上杉の名跡も継承出来ていなかった。里見佐竹も抑え込まれ、関東は静謐を得ていたかもしれない。
だが、彼が散り、龍が『上杉』を抱え関東入りする理由が、隙が出来てしまった。結果、彼はあらゆる敵と入り乱れ、戦に明け暮れている。
これを神の思し召しと考えるのも無理からぬこと。
今の時点よりも少し先だが、『蛟竜』三好長慶の死去もその考えを補強してしまう。これで京は荒れる。その上、神に見初められた男のための席も空いたのだ。
天下人の席が。まるで座りなさいとでも言わんばかりに。
「まあ、戦は嫌いではない。むしろ好きだ。得意だからな。せいぜい暴れて史に名を刻むとするさ。戦を振りまいた蝗野郎として」
「……あんたはさ、本当は優しいのにね」
「ぶはは、これだけ血濡れた優しい男がいるかよ。何万の血に染まっておると思っている? この手はもう、誰かを抱くには命を吸い過ぎた」
「……そっか」
「……そうだ」
彼女は知っている。この男の弱さを。
彼女は知っている。この男の優しさを。
そして、彼女は知っている。この男の強さを、誰よりも。
だから、何も言えない。
「因果応報。まともな死に方はせんだろうが、その日までは暴れるまでよ」
彼女と会話し、自らの立つべき場所を再確認できた。充分揺らいだ。充分惑った。充分頼った。心がかすかに癒された。だから、立てる。
「とら」
「何だ?」
「……私も――」
文春は喉元まで出かかった言葉を、ぐっと飲みこむ。今の彼をこれ以上傷つけるわけにはいかない。例え、それが両方不幸になる道だとしても。
「私も?」
だからせめて――
「私が、とらの最期を看取ってあげる。だから、せいぜい無様に散りなさいな」
「……ぶは、そう言えば持の字が言っておったな。俺よりも長生きすると息巻いていた馬鹿女がおったと。まさかぬしだったとは知らなかったぞ」
「それが私とあんたの、最後の勝負」
「俺は戦場で死ぬぞ?」
「なら、戦場に赴くわ。僧として」
「……くく、面白い。よかろう、受けて立つ」
彼が奮い立てるような言葉を。
「何を賭ける?」
「とらが勝ったら何でもしてあげる。私が勝ったら、そうね――」
冷たい場所で生きる拠り所を。
「西の彼方で死んでやる。遠過ぎて参ったと言わせてやろ――」
「私が千葉梅に勝てる可能性はあったのか……教えて」
「……釣り合わんな」
「私にとっては釣り合うの。何? 自信ないの? まさかこれだけ御大層にのたまって女の足が届く範囲で死ぬつもり? 軍神様が聞いて呆れるわね」
「……よかろう。全く、ふざけた女だなぁ、ぬしは」
二人だけの『勝負』に込める。そもそもが死後の世界がある前提での話。勝とうが負けようが、それがなければどうしようもない。
だから、ただの慰めでしかない。
「死んでからも暇があると思うなよ。栃尾の時以上にこき使ってやる」
「はいはい。今度は逃げないでよ」
「俺がいつ逃げた?」
「人間関係はいつも。選ばないことには定評があるものね」
「……口の減らぬ女だな」
「ご存じでしょ?」
「……ああ」
輝虎の目に光が宿る。力の充足を感じる。最後の『勝負』、こんなふざけたモノに寄りかからねばならぬほど、己は弱かったのだ。
全てを見通し、最善手を打ってくれた。
「では、またな」
「ええ。また」
一度も顔を見ることなく、ただ背中越しにお互いを感じて上杉輝虎は歩き出す。この先に『勝負』が待っている。俄然、やる気がわいてきた。
さて、何処で死んでやろうか。一見後ろ向きな再会の約束。そんなものでも救いとなる時があるのだ。今まさに彼は救われた。
「ありがとう、文」
輝虎は小さく溢す。そして、力強く前へと足を踏み出した。
残された彼女はうずくまりながら、
「聞こえてんのよ、馬鹿。明日槍が降ったらどうしてくれるの」
憎まれ口を叩き、涙を流す。
二人だけの『死』の約束を交わし、二人の幼馴染は別たれた。互いに本当のことを言わぬまま、墓場の先でまた会う日を夢見て――
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