第佰捌拾捌話:野尻池の『謎』

「儂はまだやれる」

「無理です。宇佐美殿」

「儂が御実城様に戦を教えたのだ。先々代でも、金津でもなく、儂が!」

 確かに宇佐美定満は越後きっての軍略家であった。あの揚北衆ですら一目置くほどの実力を持ち、百戦錬磨の長尾為景をも追い詰めたのは評価に値する。

 だが、

「戦の形態が変わったのです」

「何を申すか――」

 時代は移ろう。

「村上殿や甘粕殿が考案した備えによる機動戦術、これが今の上杉軍の根幹です。どの軍よりも迅速に、足で時を稼ぎ優位を築かねば成り立たない」

「う、馬があろう」

「戦場は平地のみにあらず。場合によっては馬が通れぬ山地も越え、奇襲するぐらいの柔軟さが必要です。実際に揚北の本庄ら若手はそれで武功を立てております」

「……」

「宇佐美殿に柔軟な判断が出来ぬとは言いません。しかし、思いついたとてその足では実行できぬでしょう。だから、御実城様は関東にも、川中島にも、宇佐美殿を呼ばなかったのです。もう、新しい戦術には適応できないから」

「……そんな、ことは」

 宇佐美の声は震えていた。彼とて体が萎えても、頭まで萎えているわけではない。常に戦場に出られるよう情報を集め、薄々気づいてはいたのだ。

 信じたくなかっただけで。

「加えて防衛側には鉄砲も普及しつつあります。あれを備えた陣に、正面からぶつかるのは愚行。射線を切るような機動力、戦の柔軟さが求められる時代です」

 儀礼的な戦の形態は変わる。弓合わせ、槍合わせ、そこから乱戦へ、という予定調和は鉄砲の普及により少しずつ姿を変えていた。まだ主流は弓、鉄砲は籠城の際に防衛側によって使われることが大半である。

 しかし、その先を見通した場合、火砲の無慈悲な攻撃は予定調和を成り立たせなくなる。正面での撃ち合いは嫌でも消耗戦となり、犠牲が増えることにもつながろう。その結果百姓主体の軍編成では国内の働き手を削ることになり、回り回って勝っても損しかない戦いが横行することにつながりかねない。

 時代が変わる。戦いが変わる。

 今はその過渡期なのだ。変化の激しい時代、変化に適応出来ぬ者は置いて行かれるしかない。頭では追い付けども、加齢による身体能力の劣化は宇佐美自身にはどうすることも出来ないだろう。ゆえに政景は勧めるのだ。

「宇佐美殿は充分に貢献されました。ここで退いたとて、その功績が消えるわけではございません。どうか、賢者に見合う決断を」

 退く道を。

 宇佐美は俯き、震える。戦に身を捧げた人生、衰えを自覚しても手放すのは容易ではない。戦は彼の人生そのものであるのだ。

 その重みは余人が想像して良いものではないだろう。

 ゆえに政景はただ、待つ。

 宇佐美が正しき決断をしてくれることを。あの上杉輝虎を鍛えた男なのだ。若く傲慢であった彼に基礎を叩き込み、今の躍進につなげた功労者。

 その恩を、彼への敬意を、信頼があったからこそ、輝虎は宇佐美に最後通牒を告げることが出来なかったのだ。師に嫌われる勇気がなかった。

 大熊朝秀、覚明、それらを失った今、尚更であろう。

 つまり――

「……わかった」

「それでこそです、宇佐美ど、の」

「ぬしは、嘘吐きだァ」

 この事態は、輝虎の弱さが招いたもの、とも言える。

「……ぐっ」

 宇佐美定満は面を上げると同時に、懐に忍ばせていた小刀で政景の腹を突き刺していた。想定外の事態に、政景は反応が遅れてしまったのだ。

 彼ならばわかってくれる。その思いは今、砕かれた。

「御実城様は儂に仕えよと言った。こき使うとも言った。約束である。其処に土足で踏み込み、荒さんとするとは……さては上田殿よ、叛意を持っておるのではあるまいな? いや、そうに違いない。儂と御屋形様の繋がりを断ち、国家を陥れるための」

「馬鹿な、ことを」

 どろりとした血が垂れる。普通の出血ではない。黒々とした血が、臓腑の損傷を告げていた。其処が傷ついてしまえばもう――

「儂は騙されんぞ! 儂は――」

 さらに小刀を振り上げる宇佐美を、政景は力ずくで押し返す。そのあまりにも軽い手応えに政景は表情を曇らせた。

 あっけなく吹き飛ぶ宇佐美。転がり、倒れ、起き上がろうとするも、

「……?」

 転倒の衝撃だけで足が折れ、立ち上がることが出来なくなっていた。これほどまでに萎え、細く、弱くなっていたのだ。

 本人の自覚すら超えて――これもまた老人の常である。

「さ、酒に毒を盛ったな。よくも、卑怯な真似を!」

「……麒麟も老いては駑馬に劣る、か。老いを、侮っていたなぁ」

 血を吐き、政景は天を仰ぐ。あの明晰な宇佐美定満なら間違えまい。そんな信頼が彼にもあったのだ。彼の世代からすれば若き頃、軍略家としての彼は雲の上の存在であった。しかも上田衆からすれば憎き長尾為景を追い詰めた男である。

 直接の面識は薄くとも、勝手に尊敬していた。

「儂は、約束したのだ。若様と、虎千代様と! いつか、必ず、共に戦場を駆けると。まだ、駆けておらぬ。まだ、全然、儂は――」

「……」

 宇佐美定満の全盛期は間違いなく長尾為景を隠居に追いやったあの時期であろう。そして、哀しいかな長尾虎千代の、上杉輝虎の全盛期はおそらく、今なのだ。下手をするとまだ先かもしれない。どうやっても二人の全盛期は重ならなかった。

 つまり端から約束は果たされなかったのだ。

「……すまぬな、綾、卯松、華――」

 政景は家族を思う。心配をかけてしまう。場合によっては、輝虎の受け取り方次第では苦労もかけることとなるだろう。それでも今の政景にとって、取るべき道は一つしかなかった。越後の、ここ上田荘の静謐のために――

「愛している」

 何よりも自分に責任と、愛を教えてくれた家族のために、彼は選択する。

 正しき道を。

「かつて叛意を抱き、牙を剥いたのは事実。今宵はそう、その揺り戻しが来ただけ。共に参りましょう、宇佐美殿」

「……儂は」

「御家のために」

 御家、武家の柱を守るため、彼は水底へ逝く。


     ○


 上杉輝虎は報せを聞いた瞬間、すぐさま馬を駆り上田荘へ向かった。信じられない。信じたくない。起きてはならぬことが起きた。

 珍しく輝虎は狼狽し、出立の際これまた珍しいことに直江実綱からの憎まれ口もなかった。実綱は理解していたのだ。宇佐美定満が、長尾政景が、輝虎にとってどれぐらい重要な人物で、それを失うことがどれほどの痛みを生むかを。

 そして、それ以上に――

「……老い、ですか」

 自身もまた、還暦が近づくにつれ老いを自覚するに至り、ままならぬことへの苦しみを理解していた。為景と張り合った男でも老いには勝てない。

 認め難き、現実である。


 そして、上杉輝虎はその日の内に上田荘へと至る。野尻池のほとり、慟哭する姉の姿を見て、彼の子どもたちを見て、そこに横たわる二つの遺体を見て、報せが事実であることを知った。心が軋む。痛くて、たまらない。

「何があった?」

「その、二人で内密な話をするため舟に乗られていたのですが、突然舟が水底へ沈みまして、泳げる者で引き揚げたのですが、時すでに遅く」

 この時代、現代よりもずっと泳ぎとは特殊な技能であった。海が近い越後の民とて半分以上は泳げないだろう。いわんや関東よりの内陸に位置する上田の者で、泳げる者などそう多くはない。人の確保にも相当時間がかかったはず。

 まあ、遺体を見る限り時間は関係なさそうであったが。

「……そうか」

 上田衆の説明を聞き、輝虎は彼らの死体を眺める。記憶よりもずっと細く、萎えた師の身体を見つめ輝虎はわずかに揺らぐ。そして、もう一人、いずれ己が破滅した後、その後を任せるに足ると思っていた男の死にざまを見て、天を仰ぐ。

 其処には――

「御実城様。お願いします」

「姉上」

「どうか、宇佐美家を滅ぼしてください。かつて、黒田一門を滅ぼした時のように、徹底的に、愚行の罰を、どうか!」

 泣きながら憎しみに瞳を燃やす姉。輝虎へ縋り付き、罰を与えよとのたまう。辛かろう、苦しかろう、憎かろう。

 それでも――

「出来ぬ」

「……は?」

「政景は溺死したのだ。定満も同様に……これは、舟遊びの際に起きた事故だ」

 上杉輝虎はすべき判断を、する。

「ぷ、あはは、もう、冗談はやめてよ。見なさい、ほら、ここ、刀傷があるじゃない? ねえ、溺れたら傷がつくの? この人は寸鉄も帯びていないのに?」

「水底で腹を切ったのやもしれぬ」

「ねえ、お願い。これ以上私を、怒らせないでよ」

「事故で処理をしておけ。上田は一旦別の者に治めさせる。それで――」

「虎千代ォ!」

 姉の、長尾綾の拳が輝虎の頬に炸裂する。輝虎は揺らがず、怒りを示すこともなく、ただ立ち尽くすばかり。

「この狼藉者を許すというのなら、私は其の方を一生許しません! 誰がどう見てもこのジジイの、とち狂った愚行でしょうが! 死者を罰することが出来ぬ以上、一門が咎を受けるのは必然。それが武家の当たり前です!」

「……決定事項だ」

「どう、してよォ!」

 しがみつきながらも崩れ落ち慟哭する姉を見つめ、輝虎は揺らがずに怒りを受け止める。すべては己の過ちが原因なのだ。

 下らぬ想いを引きずり、政景の厚意に甘えた。自分が突きつけるべきだったのだ。もう、宇佐美定満は上杉輝虎には必要ないと。

 自分はもう、戦場において誰の助けも必要としない。意見を求めることはなく、本当の意味で自由意志を持ってもらっても困る。

 必要なのは駒、己の戦を描くための道具だけでいい。

「姉上。ここ上田は越後と関東の継ぎ目、要衝だ。まだ幼い卯松に治めさせるわけにもいかない。この地は別の者に任せ、姉上たちは春日山へ――」

「虎千代は、私たちから、土地まで奪おうと言うのね」

「仕方がない」

「仕方がない? ぷ、あは、そう、そういうこと。さすがはあの父の息子だけはあるわ。老い先短いジジイを使って、くく、あの人から上田を奪う気だったのね。さすがは関東管領様、お父様よりもずっと卓越した政治手腕だこと」

「違う」

「嘘吐き。あんなに可愛がってあげたのに。恩を仇で返して……私は一生あの人を奪った、『上杉』を許さない。絶対に、絶対に!」

「……そうだな。恨むなら俺を恨め」

 姉を突き放し、輝虎は身を翻す。目を見るまでもない。今日この日、虎千代と綾の姉弟の絆は完全に断ち切れたのだ。数え切れぬほど恩がある。やんちゃで男勝りだが大好きだった姉。彼女が豹変するほどに、良き家族であったのだろう。

 それを破壊した咎を背負うなら己しかいない。

 誰かに向けねば、こらえられぬ感情と言うものはあるのだ。

「虎千代、お願い。あの人のために、宇佐美を、一門を滅ぼしてよ。そうしないとあの人はずっと、この先も、汚名を着せられ続けるじゃない」

 背中で、姉が崩れ落ちる音を聞く。歯を噛みしめ、輝虎は歩き出した。

「……」

 立場上、山内上杉につくしかなかったことで政景の父は裏切り者呼ばわりされた。政景は幼少の頃から裏切り者の上田衆と蔑まれ、その捻じれが反乱を呼んだ。あれから真っ当に、正しくあった彼であったが今回の件で憶測を呼ぶかもしれない。

 謎の溺死。叛意があり、それを誅するために宇佐美が暗殺したのではないか、と。実は御家騒動なのでは、と見られることもあるだろう。

 真偽は重要ではない。

 だけど――

「舟はなぜ沈んだ?」

「舟底の栓を何者かが抜いたために」

「……そうか」

 それでもそうすべきなのだ。あの足の宇佐美定満に舟の栓が抜けるわけがない。政景が抜くしかないだろう。何故抜いたか、それが刀傷沙汰ではなく舟遊び中の事故とするために。では何故そうしたか。

 それは御家のため。ひいては越後のため。

 もっと言えば――今悲しみに暮れる家族の静謐がため。

 そのために彼は泥を被ったのだ。信濃、関東、越中、陸奥、火種はそこかしこにある状況で、要らぬ騒動を起こして敵を刺激させぬために。

「傷も含め、全て他言無用。よいな?」

「……はっ」

 上田衆に念を押し、輝虎はこの場を後にする。忠臣、長尾政景の意図はくみ取った。己の手が届く限り、彼女らを破壊から遠ざけよう。

 それがせめてもの――


     ○


 その日、上杉輝虎は春日山へ戻らなかった。信濃遠征の準備も大詰め、やるべきことは一杯ある。だけど、戻る気にはならなかった。供を無理やり春日山へ帰らせ、自分は春日山近辺を馬で駆け回った。

 自分でも何がしたいのかわからない。兄の墓へ行った。父の墓、覚明の墓にも行った。ただ、言葉は何もこぼれずに立ち尽くすことしか出来ない。

 酒を飲んだ。言葉が出ぬ代わりに、飲み込んだ。

 金津の墓にも来た。ここには今、二人の恩人が、金津の家族が入っている。養子を取り、自らの名跡を譲った後、金津義旧は静かに息を引き取っていたのだ。墓の中には夫婦と、その息子が仲良く入っている。

 其処に己の入る余地など無い。

 何よりも己は今、生きている。死者の声など聞こえない。

「……」

 酒が切れた。最後の一滴は恩人の墓に手向けとして溢し、よろよろと何処かへ向かう。何処にも行き場など無い。誰にも頼れない。

 腹を割って話せる相手などいない。全部、いなくなった。

 親しい人も、尊敬していた人も、愛する人も、全部。

 もう、何処にも――

「……」

 ジジイの墓でも拝みに国を跨ぎ、長慶寺にでも向かおうか、そんな馬鹿げたことすら考え、首を振る。結局墓を参ったところで、何の意味もないから。

 声が聞きたい。話がしたい。

「……」

 もう、限界であった。

 気づけば輝虎はとある寺の山門に辿り着いていた。その門前に腰掛け、何も言わずに下を向く。その姿はどこか、誰かを待っているようであった。

 其処は世俗の世界と仏道の世界を隔てる場所。

 かつての己は其処を好き放題出入りしていた。特に何を感じることもなく。何の隔たりも、幼き頃にはなかった。

 だけど今は、その一歩が遠い。

「……助けてくれ」

 誰にも届かぬ言葉。そのつもりでつぶやいた。門をくぐる勇気もなく、門から連れ出す甲斐性もない、己には。

 だから――

「話を聞くだけなら。これでも僧だから」

「……文、か?」

「違いますぅ。文春ですぅ」

 門を隔てた、たった一枚の板を隔てた場所に彼女は現れたのだ。何を聞いたわけでもない。ただ、何となく下界が気になった。

 単なる偶然である。必然にも似た――

「ぶは、阿呆が。俺は、何も――」

「女々しい」

「ずけずけと……俺がどれほど苦悩しているかも知らぬくせに」

「だから聞いてあげるって言ってんの。代わりに今度寄進よろしく、関東管領様」

「……くく、ぬしは、あはは、変わらぬのぉ」

「老けたけどね」

「どれ、顔を見せろ」

「絶対嫌」

「ぶは」

 背中越しに彼女を感じる。冷たい板切れの先にぬくもりがある。それが、どうしてもたまらなくて、情けなくも輝虎は涙を浮かべ、拭う。

「まあもし、お母様が良いというなら特別に呼んできてあげるけど?」

「ぬしがいい」

「……なるほど。こりゃ重症だわ。なら、気の済むまでどうぞ」

「修業は?」

「誰かさんのお母様のおかげでサボり方だけは上手くなったの」

「……そうか。なら、そうだな。何処から話そうかなぁ」

「お好きにどうぞ。聞くだけですがね」

「……ありがとう」

「明日は雹でも降るわね。初めてじゃない? 感謝の言葉」

「そんなわけあるか。ことあるごとに言っておるわい」

「それは嘘」

 屈託なく笑いあう二人。お互いに歳を重ねたが、今この瞬間だけは何処かあの頃を、林泉寺での日々を思い浮かべてしまう。

 今とは違う山門だが――

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