第佰捌拾漆話:他愛ない約束

 上杉輝虎はすぐに気づく。

「覚明も朝秀もおらぬ。せめて文でもおれば暇も潰せるのだがのぉ」

 これが夢の世界であることを。

 最近この時代の夢ばかり見るのだ。恵まれた環境に身を置きながら、大勢から守られながら、それを自覚せずに安寧を貪っていた幼少期。阿呆のような面をして、林泉寺という箱庭で暮らす愚か者の姿は、見つめるだけで胸が軋む。

「おや、暇そうですな」

「おお、定満か」

「せめて四郎、もしくは宇駿と……と言うのは響きませぬな」

「おう」

 宇佐美定満が現れ、表情を輝かせる虎千代。それを輝虎は俯瞰するように見下ろす。何故今、このような夢を見るのか。少々の引っ掛かりを覚えながら。

 場面は飛び、今は春日山の隅で埃を被っている城郭模型で二人は遊んでいた。よくあれを用い城攻めの、籠城の談義をしたものである。

 まあ、談義と言うよりも宇佐美の講義であったのだが――

「のお。何故城の道というのはこうぐねぐねしておるのだ?」

「道を折り返すたびに、人の足は鈍ります。足が鈍ればその分攻めが遅延し、守り手に余裕が生まれます。反撃するもよし、態勢を立て直すもよし、時間は万人にとって平等、だからこそそこをいかに引き延ばすか、縮めるかが肝要なのです」

「俺なら曲がっても減速せんぞ」

「ふはは。いやはや、これは失敬。さすがは若様ですな。ですが、戦をするのは兵です。その辺の百姓が主力なれば、兵法の基準は彼らとすべきでしょうな」

「ううむ。なるほどのぉ」

 自分が出来るから及ばなかったことを、宇佐美は丁寧に教えてくれた。一人ではこんな容易いことすらも抜け落ちてしまうのだ。それほどに凡人の当たり前というのは、天才からは遠いものであった。

 普遍的な兵法はすべて、宇佐美から学んだ。あの日々がなければ自分は相手と戦が噛み合わずに存外早く戦に敗れ、世を去っていたかもしれない。

「城は兵法の塊です。野山が基礎ゆえ自然の形状に左右されることもありますが、それでも本質は如何に敵を阻むか、その一点にあります。すべての構造に意味があり、意図がある。合理的で無駄がない在り様こそが城の美しさ、ですな」

 幼少の頃、今もだが父為景は輝虎にとって絶対的な存在であった。その絶対的な相手を追い詰め、隠居にまで追い込んだ宇佐美定満と大熊朝秀、この二人は当時輝いて見えたものである。実際にきわめて有能であった。

 智と武、共にかつての己よりも遥か高みにいた。

 だから――

「定満は物知りよなぁ」

「大したことはありませぬ」

 あの頃はそれが一番いいと思っていたのだ。

「のお、一つ聞いてよいか?」

「改まってどうしましたか?」

「父上はどれほどに強いのだ? 俺には見当もつかぬのだ」

 宇佐美は少し考え込んだ後、

「あの御方の強さは逆境にあります。追い詰めた、となってからが強いのです。山内上杉もそれで敗れました。儂らもまた、詰め切れなかった」

 険しい表情で語る。幼き頃の自分が見たことのなかった、宇佐美定満の勝負師としての貌。少しばかり怖気が走ったものである。

「質問は信濃守殿がどれほどに強いか、でしたな。それは申し訳ない、わかりませぬ。儂もまた道半ば、世の中すべてと比べられるほどの経験は積んでおりませぬ。ただまあ、越後の中では最も強い武将でしょうな」

「宇佐美定満よりもか?」

「……今は、そうなるのでしょう」

 今は、その貌に浮かぶモノに当時の自分は惹かれた。

 だから、

「俺はぬしを従わせると言ったな。覚えておるか?」

「もちろん」

「俺はきっと兄上の右腕として、越後中を駆け回ることとなるだろう。時には越後の外で戦をすることになるやもしれん。その時は……俺に力を貸してくれ」

 弱さを見せた。見せてしまった。

「……そのつもりですとも」

「本当か?」

「嘘は申しませぬ。この定満、微力ながら若様のお力となります」

「そうか。うむ、百人力だな」

「若様と共に戦場を駆け回る日を、心待ちにしておりますぞ」

「おう。存分にこき使ってやる。約束だ!」

「ええ。約束です」

 虚勢ばかりの無知な少年。本当に自分が通ずるのか、自分の器がどれほどなのかわかっていなかった時代であった。不安だった。

 ゆえに交わした、他愛のない約束。

 今の今まで忘れていた――


 夢から覚めた輝虎は背中に滝のような汗をかいていた。季節柄、気温が高いのは間違いないが、それにしても汗の量が多い。

 つい先ほどまで見ていた夢。

「……杞憂だ。ただの夢でしかない」

 妙な生暖かさがあった。子どもの頃の他愛ない約束。今更思い出す必要などないというのに。それなのに何故、今なのだ。

 胸騒ぎがする。己は何か、決定的な過ちを犯していたかのような。

 そんな気がした。


     ○


「……して、何用ですかな?」

「そう警戒されるな、宇佐美殿。ただの舟遊びです。ささ、一献」

「……頂きましょう」

 上田荘、坂戸城近くの野尻池にて長尾政景は舟を浮かべ、客人である宇佐美定満を歓待していた。酒を注ぎながら政景は思う。

 かつて、あの長尾為景をも追い詰めた男も随分と老け込んだ。足は萎え、馬に乗っている間はともかくちょっとした距離を歩くのも一苦労といった様子。どう考えても今の宇佐美に戦場は厳しかろう。やはり間違いはない。

 今日、引導を渡してやるべきなのだ。

「上田殿、なぜ人払いをされた?」

「それはもう、今宵は宇佐美殿と腹を割って話そうと思ったからです」

「……」

 政景は本来乗船予定であった護衛をあえて遠ざけ、宇佐美と二人きりで舟の上にいた。乱波すら及ばぬ池の上の密談。警戒するなという方が難しいだろう。

「用向きは?」

「宇佐美殿はおいくつになられましたか?」

「上田殿、儂は用向きを聞いている」

「用向きにかかわることですよ」

「……七十五だ」

「実に素晴らしい。歴戦のもののふが七十生きたのです。まさに武士の鑑でしょう。我々は宇佐美殿を見習い、模範とすべきです」

「……それで?」

「……宇佐美殿は充分に戦われた。御実城様をはじめ、多くの後進も育てられた」

 御実城様、その言葉に宇佐美の耳がピクリと動く。

「もう充分ではありませぬか?」

「充分、とは?」

 政景はまっすぐと宇佐美を見つめ、

「隠居なされよ」

 現役にしがみつく功労者である彼を言葉で撫で切った。

「儂が、隠居、だと?」

「はい」

「誰が、そのようなことを!」

「……察してください」

 上田衆を率いる長尾政景は上杉家において有力な家であるが、他家に介入するのは越権行為である。それぐらいは政景もわきまえている。彼だけの判断であればこうして隠居を勧めることすらあり得ないのだ。

 ならば、誰の差し金か――答えは明白であった。

 わかりきっていた。

 それでも――

「う、嘘だ。ありえない。御実城様が、儂を、ありえん!」

「……宇佐美殿」

 宇佐美定満は、この世の終わりとでも言わんばかりに狼狽する。

「約束、したのだ」

 そして彼は――小さく溢す。

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