第佰捌拾陸話:不死鳥舞い、虎跋扈し、龍帰る

 少し時は遡り永禄七年一月、年明け早々上杉輝虎は北条方についた常陸の武将、小田氏治の討伐に訪れていた。その進軍速度はあまりにも早く、敵味方共に追いつけぬほどの速さで山王堂と言う丘陵地帯へ陣を張る。

 兵力八千、ほぼ越後と上野国、上杉の軍勢である。他の諸侯の参陣は間に合わなかった。その分、小田氏治側も同じ。

「むにゃむにゃ」

「殿! 急報でございます!」

「連歌ぇ……へ?」

 こんなに早く上杉が押し寄せてくるとは思わず、すっかりと油断していた氏治は呆気にとられたまま――

「打ち倒せ!」

「越後揚北衆の力を見せよ!」

「う、うわぁぁあああああ!」

 柿崎、北条(キタジョウ)、そして中条を筆頭とした揚北衆らの猛攻にさらされ山王堂で大敗。この時、上杉の早さから兵が全然集まらずただでさえ地力で勝る上杉軍八千に対し、小田軍は三千しかいなかったという。

 これでも頑張って集めたのだ。

「と、殿ぉ」

「て、撤退! 撤退!」

 続きましては小田城。常陸の雄、関東八屋形の一つとしてここ小田にて君臨していた小田家であったが、哀しいほどにあっさりと上杉軍を前に踏み潰されてしまった。と言うのもこの小田城、山城ではなく平城であり言っては何だが防衛には難がある。のちの世に築かれた無数の平城はあくまで乱世が終わり、政庁としての機能を重視したからそうなったのであって、乱世においてそれは明確な欠点であった。

「……終わりか?」

「そ、そのようで」

 ここ関東ですでに大暴れする上杉軍の急先鋒である柿崎やキタジョウ、滅多なことでは小動もしない彼らが呆気にとられるほどに小田軍は弱かった。

 それ以上に小田城が脆かった。

 勢い勇んで増援に訪れていた佐竹や宇都宮ら関東諸侯も、

「「……」」

 ポカンと終わった戦を眺めるだけ。何しに来たんだろ、と内心では思う。

「すまぬ、すまぬなぁ、信太、菅谷」

「殿、お気を確かに」

「ふぐぅ」

 名将と名高い父、小田政治の危惧通り、息子小田氏治は底抜けに弱かった。のちの世で戦国最弱と揶揄される実力は、伝説はまだ序章に過ぎない。

「うう、このままでは民との約束も守れぬ」

「約束ですか?」

「来年、また連歌会しようねって」

「……そっかぁ」

 ただし、

「ぶは、く、くく、面白いのォ」

 上杉輝虎はそれを追撃することなく、佐竹に小田城を預け兵を引いた。普段の彼ならば自らに弓を引いた相手、追撃して捕らえ、首の一つでも撥ねるかもしれないが、少なくとも彼はこの時撤退する背を突こうと思わなかった。

「追撃しないので?」

 自らの補佐につけた河田長親が問う。

「せんよ。これは難儀な相手だ。ある意味北条よりも、な」

「……この弱さで、ですか?」

「戦はな、その場の勝ち負けが全てではない。周りを見よ、小田城周りの民の目を。我らを見る眼を。この城は、ぶは、容易く落ちるが、落ちんのだ」

「……?」

 長親の目にはいつものように侵略者である自分たちを刺すような眼にしか見えない。それ自体はいつものことである。だが、輝虎はその奥にもう一つの感情を見た。あれを折るのは相当難儀、ゆえに小田氏治を本当の意味で負かすのも、難儀。

 最弱の戦国大名小田氏治、その真骨頂は幾たび負けても家臣や民を支えに立ち上がる『人望』であった。これは父政治をしても見抜けなかった彼が持つ最強の能力。ただ一度の敗戦で全てを失う者もいれば、幾たび負けても失わぬ者もいる。

 それが不死鳥、小田氏治。

 彼の最弱伝説はまだ始まったばかりである。

 なお、すでにここに至るまで彼が何度も負けているのは内緒である。


     ○


 守りに定評のある佐野昌綱率いる唐沢山城を攻め落とし降伏させた後、輝虎の耳に信濃の武田、そして懲りない蘆名が協調して動いているとの情報が入った。上野国入りを視野に入れている武田が上杉に釘を刺した感じであろう。

 あまり自由気ままに暴れるのなら、こちらにも考えがあるぞ、と。

「全軍撤退。越後へ戻るぞ」

「はっ!」

 輝虎の判断は速かった。即座に関東から撤収し、越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍をその足で撃破。相変わらずの強さを見せる。

「……別に我らも阿呆ではない。武田が腹に一物抱えておるのは理解している。だがな、遠国の武田よりもこれ以上、隣国が大きくなられては困るのだ」

 悔しげに自国へ撤退する蘆名軍。彼らの軍は弱くない。蘆名盛氏自体は優秀な男である。ただ、上杉輝虎と言う男が強過ぎるだけ。

 野戦では勝負にもならない。彼自身が率いた軍勢に敵う者は、東国にはおらず西国にも、この日本にはいないのではないかと思うほどに――

 だが、またしてもその隙を突き、

「お見事です、御屋形様」

「……」

 武田信玄が野尻城を攻略、信濃における武田の版図を広げる。

 喜ぶ諸将を尻目に、虎の眼は冷たく、遠くの龍を見据える。

「ぶは。懲りぬ男よな、晴信よ」

 偶然か、それとも必然か、龍もまたそちらの空へ目を向けていた。

「御実城様?」

「春日山へ戻る。準備が整い次第、信濃へ赴くぞ」

「ははっ!」

 今一度対峙する。あの虎が、どう成ったのかを見るために。


     ○


 春日山へ戻った輝虎はすぐさま皆に準備をさせた。武田がどういう意図でこちらを突いたのかを見定めるために。今一度勝負を、と言うのなら決着を付ける。

 それ以外の、大局のためならば――

「ぶは」

 見えざる碁盤の前で輝虎は笑う。打ち手は現れるのか、それとも氏康と同じく正しき道を選び、こことは別の方向へと進むのか。

 あの川中島から三年、見ものである。

「失礼いたす」

「お、政景か」

「新五郎と、と言うやり取りも飽きましたな」

「ぶはは、ようやく折れたか」

「御実城様のしつこさには敵いません」

 一人考え事をしているとそこに越後上田荘を治める長尾政景が姿を見せた。本来、上杉輝虎が三条長尾であった頃ならば同格である男。三条、上田、そして古志、守護代家として並び立つはずだった血脈を持つ男で、

「して、何用だ?」

 かつてはそれに相応しい野心も備えていたはずだが、

「留守居中、幾度か琵琶島城の宇佐美殿から『要望』がありました」

「……定満が、か」

「はい」

 今は輝虎の腹心としての立場に異を唱えることなく、むしろそこを望むかのような振る舞いを見せていた。実力自体はかつての晴景同様、かなりのものを持っている。それは輝虎不在の中、留守居としてつつがなく国家運営を捌いていることからも窺えよう。内政面だけで言えば、実綱とも張る男である。

 加えて姉の嫁ぎ先、義理の兄でもあるわけで。

「また戦に出せ、と?」

「ですな」

「……すでに七十を過ぎておると言うのにのぉ」

「どうされますか?」

「俺から隠居を促さねばなるまいか。それとも萎えた足を引きずらせ、戦場で死なせてやるべきか……どう思う?」

「後者は感心しませんな。御実城様の軍学の師と聞きましたが?」

「おう。義旧もジジイも俺からそういうものを遠ざけておったが、定満は理論立てて教えてくれてな。今でもあやつの教えは俺の中にある。本当に、優秀な男であったのだ。あの父を追い詰めるほどに」

 輝虎にしては珍しく困ったような顔。それを見て政景は苦笑する。宇佐美定満に対して普段の冷徹さがなく、歯切れが悪い理由の一端が覗けたから。

 大熊朝秀が剣の師であるならば、宇佐美定満は戦の師であるのだろう。

 なら、輝虎に切らせるのは酷だ、と政景は考えた。

「私がそれとなく隠居を促しましょう」

「……反発するぞ。あの男は俺の生まれる前より戦働きをしていた。生半可な執着ではない。相当、拗れる覚悟がいる」

「構いませんよ。元々嫌われ者の上田衆ですから」

「……古い話だ。ぬしや俺の世代には関係がない」

「ですな」

 かつて政景の父は上田長尾存続のため、山内についたり為景にすり寄ったりと、陣営をコロコロと変えていた。全ては御家のためであったのだが、それが周囲からは見苦しく映り、しばらく上田衆は臆病者の名となった。

 政景がかつて、輝虎を破り上に立とうとした野心の源泉は、幼少期に浴びせられたそう言う視線なのだろう、と輝虎は考えていた。

「……頼めるか?」

「何なりと。国主の命なれば」

「……角が取れたのぉ。俺はあの角が好きであったのだが」

「申し訳ない。ただ、今はそれなりに幸せですので。牙を剥く理由がありません」

「……そうか」

 輝虎の少し影を帯びた笑みを見て、

「これは失礼を。些か配慮が欠け申した」

 政景は察する。今、自分が感じている幸せに近づき、あと一歩にまで迫った『彼女』の存在を。上田荘の手前で散った、美しき姫君を。

「阿呆。要らん気を回すな。老けるぞ」

「……それは困りますなぁ」

 そう言って政景は立ち上がる。

「姉上は健勝か?」

「長男が病に倒れた時は少しやつれましたが、今は元気にやっておりますよ」

「そうか。ならば良い」

「では、失礼いたします」

 身を翻し、去っていく政景の背中を見て、

「俺の次はぬしが越後を治めよ」

 輝虎は言葉を投げかけた。

「御冗談を。私の方が年上ですよ。後継者は下の世代で探してください」

 それをひらりとかわし、政景は歩き去っていく。留守居などを務め上げた実績。姉と共に暮らす内に野心が薄れ、何処となく兄晴景に似てきた。

 だから、ポロリとこぼしてしまったのだ。

「政略であっても、存外幸せもあるもの、か。ぬしもそうであったか?」

 輝虎は誰もいない虚空へ言葉を投げかける。

 何も返ってこないことを理解しながらも――

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