第佰捌拾壱話:全ては我が歩みのため

 近衛絶にとって甘粕景持と言う男の印象は普通に優秀そう、であった。五摂家筆頭である近衛の家に生まれ、畿内を巣くう怪物を目の当たりにしてきた彼女からすると、河田長親や甘粕景持のような存在は見飽きた有能さであったのだ。

 主将へ気遣いが出来て、彼らの隙間を埋め――その程度の輩は腐るほどいた。ゆえに彼女は甘粕に対し、自分の上役である以上の印象はなかったのだ。

 だが、こうして甘粕景持が率いた戦を見て思う。自分は彼の何を見ていたのだ、と。如何に千曲川と言う障害が目の前に広がろうとも、所詮は多勢に無勢である。しかも相手は歴戦の武田四天王二名が率いる精鋭。そんな彼らが敬愛する御屋形様の窮地に目の色を変えて押し寄せてきている。飲まれる、彼女はそう直感した。

 彼らにはそれだけの勢いがあったから。

「前線、慌てずに受け止めよ! 相手は水に浸かり動きが遅いぞ!」

「応!」

 しかし、甘粕景持に慌てる様子はない。落ち着いた声色で、いつも通りとばかりに檄を飛ばし、兵士たちから固さを取り除いている。

 関東遠征の時と明確に違うのは、この戦が守戦であると言うこと。本隊同士の衝突、その時間を稼ぐための要石。ここを守れと命じられている。

「村上義清!」

「おお。春日の小僧か」

「やはり、ぬしが……越後の走狗と成り果てるとはな!」

「それは否定せぬが……勘違いするな」

 何とか川を渡り切った香坂(春日)虎綱とその道を阻まんとする村上義清が衝突する。老いてなお、武田を追い詰めた実力は本物。

 信濃最強は迫撃に置いても健在であった。

「何がだ!」

「この軍の指揮は、前線に立つ俺ではない」

「ならば、柿崎か、斎藤か! それとも上田(長尾)か!」

「いずれも違う」

 年齢的にも今が最も脂の乗る虎綱を、見事に捌き切る義清は見事である。彼の側近も虎綱の兵をきっちり防ぎ切っている。

「我らが将の名は甘粕持之介」

「甘粕?」

 誰だ、と虎綱は表情を曇らせる。今まで戦働きこそすれ、あくまで脇役であった男の名など他国にまで届いていない。だからこそ、戦の最中に義清はあえて名を出したのだ。武田の猛攻を寡兵でありながら工夫で受け止める男の名を。

 轟け、とばかりに。

「俺の知る中で……守戦なれば越後最強の男だ!」

「……村上義清に、そこまで言わせるか」

 攻めの戦と守りの戦、同じ戦でも必要とされるものは違う。攻めは知識もそうだが、何よりも急所を穿つ嗅覚こそが重要とされる。守りも押し引きのバランス感覚は重要だが、それ以上に知識と経験がものを言う。

 景持の戦歴自体はそれなりである。今は戦国、若くして彼以上の修羅場を潜り抜けている武士などいくらでもいる。だが、何故か彼には知識と経験が、初めから備わっていたのだ。本人も知らぬ所で仕込まれたそれが今、花開く。

 武田四天王が筆頭馬場信房もまた川を渡り切った後、敵軍の粘り腰に驚嘆していた。この軍の指揮を上杉政虎本人が執っているのでは、と思わせるほどに。

 指示が的確。短く簡潔、だから農兵もぐいぐいと機能する。

 陣容も、見た目以上に懐が深い。寡兵の癖に、武田軍の焦りを読み切って渡河ポイントを絞り、厚く陣を敷いていたのだ。

 村上義清の名乗りを聞いていない馬場からすると、歴戦の武将が立ちはだかっているようにしか思えなかった。人物に心当たりはない。

 だが、間違いなく相手は傑物である、と。

「だが、こんなところで足止めを喰らうわけにはいかぬのだ!」

 ゆえに馬場は歯を食いしばり、自らが先陣を切る勢いで突貫する。普段ならば避けるリスクの大きい戦い方であるが、今は到着を優先する。

 我が身など構っている暇はない。

「通さぬ!」

「っ」

 其処へ突き出された槍。しかしそこは馬場もさるもの、慌てることなく槍の一突きを抱え込みながら止める。

 が、

「ふシュ!」

「むっ」

 眼前の敵は即座に槍を捨て、腰の打刀に手を伸ばす。潔く、鋭く、懐へ飛び込んでくるは練達の猛者と馬場は見る。

 武将と言うよりも、どちらかと言えば大熊朝秀のような武人、のようであるが。

「んッ!」

 刀での勝負は分が悪い。ここが何処ぞの御前であれば馬場では構わぬかもしれない。されどここは戦場、形になどこだわる必要はない。

「ぐっ」

 刀の腹に具足をまとった腕を叩きつける。刀を打ち落とし、そのまま体重をぶつけるように体当たりを敢行。剣での勝負に集中していた相手を吹き飛ばす。

「軽いな、小僧」

「……卑怯な」

「そして青い」

 吹き飛ばされた近衛絶は唇を噛み締める。技前は己が勝る。それなのに何故かこの場では馬場信房の首、凄まじく遠く感じた。

 それは、目の前にあるはずなのに――

「隙ありィ!」

「なんの!」

 絶に視線が向いていることを利用して、死角より太刀を振るうは村上義清が息子、山浦国清。突出した敵軍を押し留めるため、彼自身の判断で動いていた。

 父譲りの武勇はある。されど、隙を突いても武田四天王筆頭、信虎の代から仕える馬場信房を相手にはどうにも足らぬ、と打ち合う前から理解する。

 父と同じような圧を彼からも感じるのだ。

 噂ではこの男、未だ戦で傷を負ったことがないとか――国清の横薙ぎを倒れながら避け、そのまま流れるように立ち上がる様を見ても場数が違う。

 違い過ぎる。

「これまた若いな」

「……」

 国清はあえて名乗らず、絶の前に立ち構えるだけに留める。

「……悪いがじっくりやり合えるほど余裕はない。薄い所から抜けさせてもらう」

 明らかに時間を稼ごうと言う魂胆の国清を相手にせず、馬場は国清らとは別の方向から抜けんと進路を変える。

 もし、名乗っていれば、あの村上義清の息子だと言っていれば、馬場信房とて国清を無視出来なかったはず。武田にとっては二度も敗北を刻んだ男の息子。

 是が非でも殺したいはずだから。

 その場合は己の命と引き換えに、時間を稼ぐことが――

「だが、私の道を阻んだことは忘れぬぞ。村上の血族よ」

「……参った。格が違う」

 出来た、と思っていたのは国清だけ。馬場はそれを見抜いてなお、時間を優先した。確固たる優先順位、その辺りのバランス感覚は歴戦の猛者ゆえか。

「助かりました。山浦殿」

「近衛殿。そろそろ離脱の準備を」

「私はまだやれます」

「いえ。この人数差です。一度抜けられたが最後、穴をふさぐことは不可能でしょう。それは甘粕殿も重々承知されています。御実城様も、です」

「……」

「我々の仕事はもう終わっています。彼らの足を止める、ではなく緩める。路傍の小石ほどの働きで充分。むしろ甘粕殿は働き過ぎたぐらいでしょう」

「……承知しました」

 不承不承と言った様子の絶に苦い笑みを浮かべながら、

「……名を刻みましたな、甘粕殿」

 国清は政虎の期待に応え、見事に仕事を果たした男へ視線を向ける。いったいどこで守戦を学んだのかはわからないが、父の見立て通り越後随一の名人であるのは今回の戦が証明した。武田はきっと、彼の名を刻んだことだろう。

 新たな敵として。政虎より下の世代を担う人材である、と。


     ○


 獅子奮迅の働きを見せる武田軍両翼。斎藤や揚北衆も決して弱くない。いや、むしろ日本全体で見ても上澄みであろう。だが、飯富、工藤、武田四天王が二人はさらに上だっただけ。と言うよりも状況が、彼らを修羅とした、が正しいか。

 御屋形様、武田信玄を守るために彼らは命を捧げることが出来る。自分たちを取り立て、ここまで引き上げてくれた恩は一生かかっても返せない。

 まさに死ぬ気。死んでも押し切るという強い覚悟がある。

 むしろ、ここまで堪えている越後勢が強いのだ。並の軍勢なら、とうの昔に押し込まれている。それだけの勢いがあった。

 しかし、問題は中央。

「オオオオッ!」

 先鋒を任された柿崎景家の猛進。凄まじい形相で、とにかく押し込むように彼が進み、彼の家臣が切り拓かれた穴を広げるよう立ち回る。

 傷が増え、犠牲も出る。それでも柿崎は歩みを止めない。

 関東遠征に出られなかった鬱憤を晴らすかのような進撃。武田信玄の喉元にまで届くのは時間の問題かと思われた。

 だから――

「これ以上は好きにさせぬぞ!」

 武田軍副将、武田信繁が側近を率い出向く。この怪物を止めるために。

「典厩信繁か。はは、敵にとって不足なし!」

「あと少し、あと少しで戦況は変わる!」

「だから押し込むのだ!」

「させんと言っている!」

 信繁が吼える。景家が獰猛な笑みを浮かべる。

 中央にて火花が散る。


     ○


 上杉政虎は戦場の流れを見て、笑みを深めた。ここまで武田の中央軍は良く持ちこたえていた。城攻め用の包囲陣形とは言え、基本通り中央は厚く布陣されており、加えて信繁がそこら中に顔を出して全体のバランスを保っていたのだ。

 だが、とうとう柿崎景家の突出に耐えられなくなり、彼がそちらへ寄った。如何に彼が優れた人材でも、一度に二つの場所に存在することは出来ない。

 悠々と別の地点から、抜き去ればいい。

 だからこそ、中央突破の場合はいつも政虎自身が先陣を切っていたのに、今回は柿崎へ任せていたのだ。最上級の釣餌として。

 そして、これまた最上級の獲物(信繁)が釣れた。両翼に関しても同じこと。端から彼らに期待していたのは、勝利ではなく自らの歩みを確保するためだけ。

 勝っても負けても、どちらでもいい。どうでもいい。

 もう、政虎の道を阻む者はいないのだから。

 ゆえに――

「……っ」

「久しいのォ。晴信、いや、今は徳栄軒信玄だったか。まあ、どうでもよいか」

「……上杉、政虎ァ」

「ぶは、景虎でよいぞ。どうせまた名は変わる。名に意味はない。あるのは己だけだ。わかるだろう、晴信。この戦場は、俺とぬしのものだからなぁ」

 必然、彼らは出会う。引き寄せられるかのように。

 上杉政虎と武田信玄。

 龍虎が、

「もう勝った気か? この俺を無礼るなよ!」

「ぶはは、ただの世間話だ。大将たる俺たちだけに許された、な。たかが戦、肩肘張る必要など何処にもない。もっと遊べよ、晴信」

「景虎ァ!」

 とうとう戦場にてまみえる。天から見下ろす龍。天を憎々しげに睨む虎。特殊な戦場だからこそ、このような局面が訪れた。

 肥大化する戦場。かつての武士同士が相争う時代とは異なり、一騎打ちはもちろんのこと、個人の武すらも意義を失って久しい。

 大将同士が刃を交える。講談の世界にしか存在しない浪漫溢れる一幕。されどその内側は、どろりとしたものが流れていた。

 血みどろの戦は、一気に終結へと向かう。

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