第佰捌拾弐話:龍虎、決着

 武田信虎、無人斎道有は遠く京より東の空を見つめる。

 現在、彼は拠点を京に移し、足利義輝に仕える形となっていたのだ。駿府の家自体は追放後の息子信友にくれてやり、前守護の立場を利用し自由気ままの在京生活、と思っていたのだが、盤石と思われた義元の死没と共に雲行きが怪しくなる。

 その上、京にも舞い込んできている混迷の関東情勢。長尾景虎が北条を瀕死に追い込み上杉を継承し、その足で北信濃にて武田と決戦、と来た。

 道有は追放された身、心配する義理はないのだがそれでも気がかりでないとすれば嘘になる。目をかけた息子二人が、かつて龍の卵であった者に挑むのだ。素質は桁違い、全盛期を過ぎたとはいえまだ現役を辞したばかりの頃、羽化する前の小僧に己が敗れ去ったのだ。その事実は重い。すでに太郎(信玄)は自分を超えている。

 それはわかる。多くの敗北が彼を本物の虎とした。

 普通の者なら心配などしない。北条でも、今川でも、存分に楽しめ、と笑える。

 だが、あの少年だけは――

「……龍の土俵には乗るなよ、太郎」

 険しい表情の道有。無事であってくれ、と切に願う。

「道有ちゃーん。何ボーっとしてんのー?」

「ん、別にボーっとしてないでちゅよー」

「早く行かないと終わっちゃうよー、相撲」

「行く行くー」

 自分の娘どころか孫ほどの年齢の女の子相手に、鼻の下を伸ばし険しい顔が解ける道有。すでに齢六十を超え、むしろ七十に近づかんとする年頃である。それでもなお色々とお盛んなのは武田の血か。この男の性質か。

 助平な顔つきで若い女の尻を追う。

(……まあ、己の人生だ。存分にな、太郎よ)

 今更真面目なことを考えてももう遅い。


     ○


「御屋形様!」

 自らの主君を守らんと割って入ろうとする男を、上杉政虎は視線すら向けずに撫で切る。その眼は武田信玄、ただ一点に注がれていた。

 今の政虎にはもう戦う理由がない。生きる理由もない。だが、困ったことに死に征く理由もないのだ。だから遊ぶ。死んだらそこまでの遊戯。

 彼は人生をうたかたの夢と位置付けた。

 どう生きようともどこかの誰かの、例えば神の望むがままなのだとすれば、人の歩みに意味はなく、己が人生にも意味などない。

 何と無意味なことか。

 なればもう、この夢を楽しむしかない。幸い、戦場には遊び相手が沢山いる。北条もそう。武田もそう。今川もそうだった。

 だから織田は嫌い。いつか殺す。子どものような、童のような理屈である。

 齢三十を超え、男は童心に還った。

 ゆえに、

「征くぞ、晴信ゥ!」

 今が長尾虎千代の、長尾景虎の、上杉政虎の、全盛期である。

 太刀を携え、戦国の戦では掟破りの一騎打ちを仕掛ける政虎。怒れる虎、信玄もまた武士なれば、やらいでか、と軍配を振り被る。

「あーそーぼーッ!」

「死ねェ!」

 太刀と軍配の衝突。鉄製とは言え相手は太刀、深く切れ込む。が、

「おっ」

「ぬんッ!」

 中ほどで刃が止まる。と同時に信玄は力ずくで軍配を曲げ、太刀に軍配を絡ませることで使えなくした。そして自身は、腰に差した刀を引き抜く。

「ぶは、何事も工夫よな、晴信よ」

「信玄様だ、年長者を敬えクソガキが!」

 政虎は潔く太刀を手放し、信玄の刀をかわしながら首切り用の小刀を抜く。

「形勢逆転だなァ」

「そうでもないが?」

「強がるなよ」

 信玄も武芸は得意である。将として必要とは思わぬから普段の戦では用いないが、甲斐に戻った時はお気に入りの人材であり、越後から引き抜いた大熊朝秀に稽古をつけてもらうほどには熱量を傾けている。

 得物のリーチは見ての通り。リーチがもたらすのは見た目以上の優位である。勝てる、勝って見せる、と信玄は意気込む。

 この状況を予見したとは思えない。こんな状況に陥る者が全てを読み切ったなどありえない。信繁の言う通りだった。

 全ては偶然。この男の適当なやり方がもたらした、たまたまの産物。

「俺が勝つ!」

 されど政虎もさるもの。小さな刀でも巧みに操り、信玄の剣をいなす。袈裟懸け、横薙ぎ、下段から上段へ、上段から下段へ、流れるような剣捌き。

 剛であり柔でもある。

 其処にある男の気配を感じ、政虎は微笑む。

「何を笑う!?」

「……」

 どうやら今の虎は、龍の一挙手一投足が気に食わぬらしい。笑った理由は別にあるが、そこを突くのも面白い、と政虎はほくそ笑む。

「もしかしてぬしは今、必死に俺がこの局面を偶然引き当てた、と思おうとしておるのか? だとすれば、くく、随分と滑稽なことだ」

「……実際に、偶然、だろうが」

「山へ向こうたはずの援軍、少々遅いとは思わぬか?」

「……何故、それを? いや、ただの当てずっぽうだ!」

「阿呆が。千曲川に置いた石に、ぶは、引っ掛かっておるのだよ!」

「俺を揺さぶろうとして!」

 両雄、鍔迫る。ここで押し切る。龍の言葉になど揺さぶられてなるものか。こうなった今ならば何でも言える。読んでいたと、言ったもの勝ち。

 馬場らも突然の状況に戸惑い、足が遅れているだけ。

 決して、決して――

「飯炊きの煙だ」

「……え?」

「それで今日動くとわかった。霧を使えば安全に移動できる。茶臼山よりも直接我らを絞り上げる位置、横田城を攻めると読んだ。ゆえの、布陣だ」

「飯炊き? 何を、言って、そんな、馬鹿な――」

 皆の士気を高めるために、確かにあの日は普段よりも多くの糧食を家臣らに振舞った。当然、量が増えたなら調理の煙も多くはなる。

 しかし、それだけで、たったそれだけで、全てを読み切るなど――

 だが、皮肉にも進化した武田信玄の読みが見えていなかったものを見せ、一気に繋がっていく。たった一つの綻び、其処から彼は全てを読み取ったのだ。

 彼の直目は確かに常軌を逸している。

 だが、直接敗因を創ったのは――

「信濃勢はこちらにもおる。霧は我らにとっても味方であった。嗚呼、ぬしにとっては大敵と成ったがな、ぶはは! いやしかし、くく、茶臼山に陣取った時のぬしなら、こんな綻びを見せることもなかっただろうに……緩んだのォ」

 緩み、それが信玄の胸を刺す。心当たりは、あった。あの日、厠で信繁に諫められた時、張り詰めていた何かが緩んだのだ。

 心が楽になった。

 皆の顔を見て、落ち着くことが出来た。

 広く、視野が広がった。良いことだと、思っていた。

 だが、同時に――

「俺は今日、ぬしに選択の機会を与えた。霧が晴れ、遭遇した時に、ぬしは退くべきであったな。その道を征くと決めたのなら。北条ならば躊躇うことなく退いた。血の涙を流してでも……歯を食いしばって逃げ、人を生かし、大局を握った」

 あの時から、たった二人だけの盤面は、二人ぼっちの世界は見えていない。

「違う。……俺は、違うッ!」

「どっちつかずは多くを失う。今日の痛みを忘れるな。この俺が、上杉政虎がもたらした痛みを、忘れるな。どちら側に立つとしても、な」

「俺はァ!」

「また遊ぼう」

 どん、と信玄の腹を政虎は蹴り飛ばす。尻もちをつき、信玄は政虎を見上げる。陽光が射し、嗤う政虎の姿が、龍の姿が、戦の結果を示しているようで――

「違う」

「高みで待つ」

「違うゥ」

 そのまま殺さずに大笑いしながら、上杉政虎は武田信玄に背を向けた。倒れた己に組み付けば殺せた。それなのに彼は背を向け、捨てたのだ。

 大将首を。

「ぶはははははは!」

 そんなものどうでもいいと言わんばかりに。遊び、本当にそのつもりだったのだろう。関東遠征も同じ道理。だから、北条を殺さなかった。

 武田も同じ。

 遊びなのだ、勝ち負けを競うことはあっても殺すことはない。ただし、その道理は己と同じ立場、北条であれば氏康、武田であれば信玄にしか向けられていない、と言うだけ。戦でどれだけ食糧を消耗し、戦費を投じ、越後に負荷をかけることとなっても知ったことではない。兵が死に、生産に甚大な被害を与えてもどうでもいい。

 そんなふざけた話を、いったい誰が想像出来ると言うのか。

 飢饉、台風や地震、ただ生きることすら苦しい時代である。戦国の世は食うための、食わせるための戦いでもあるのだ。

 そんな中でただ一人、その気がないものが混じっているなど――

「負け惜しみ、だ。ありえない。違う。俺は、間違ってなど――」

 顔をぐしゃぐしゃにしながら、信玄は考えることをやめるようとする。だが、自らの思考は止まってくれない。次々と、この戦の解像度を上げていく。

 その結果露と成る、己の過ち。

 それは、他者を信じたこと。自らよりも劣るものの言を取り入れ、自らの純度を下げたこと。曲がりなりにも拮抗していた何かが、誰かを頼ることで、誰かの支えを得ることで、崩れた。それが信玄の心を砕く。

 人は城、人は石垣、人は堀――駆け上がった先で知る。

 その考えの到達点を。

 目の前には二つの道がある。選べと言わんばかりのそれ。

「俺、はァ」

 正しき王の道か。あの男と同じ修羅の――


     ○


 上杉政虎は乱戦の中を歩む。人々の怒号が、怨嗟が、耳朶を打つ。同時に嬉々としたものも混じっている。戦いとはそう言うもの。

 悲しみも苦しみもある。同時に楽しさもあるのだ。

 時に命を差し出しても、惜しくないと思うほどの。だから彼は兵に同情などしない。そも、今の世が皆生きられるようにはなっていないのだ。

 足りぬものばかり。

 戦争は奪いながら、減らすことも役割の内である。

 人を間引く必要があるのだ。それほどに厳しい時代。足りぬものを補うための戦争が、全体で見ればさらに傷口を広げているのだから笑えない。

 それでも人は、奪うことをやめられない。

 誰かを踏みつけ、自らが富めることを目指す。

「おお。やはり優秀だなぁ。人だけならば北条にも勝ろうに」

 越後も甲斐も貧しい。まあ甲斐に比べたならマシだが、自国だけで生産が賄えぬと言う意味では同じこと。奪うしかないのだ。削るしかないのだ。

 ただ、政虎はそこに心を砕くことをやめただけ。

 もう、その程度のことで心は揺れてくれないから。涙も流れぬ。

 所詮は他人、愛する者に比べたなら、あまりに安く、軽い。

「さて、退くかのォ」

 今回は充分楽しんだ。ただそれだけの感想を抱き、政虎は笑った。


     ○


 上杉政虎と武田信玄の一騎打ちが終わり、程なくして馬場信房率いる別動隊が上杉軍の側面を突いた。戦場は一気に武田軍へ傾き、すぐに上杉軍は撤退を開始する。この場の勝敗だけで語るのなら、前半は上杉の勝利、後半は武田の勝利。

 両者痛み分け、引き分けとなるだろう。

 馬場らの足を緩めた甘粕らも役目を果たしすでに撤退。本隊もまた横田城を放棄し、そのまま北へと去っていく。

 上杉を北へ追いやり、この後信濃の支配を確立する武田は大局的に見れば勝った、とも言える。実際にこの戦に勝ち負けを付けるのならば、そうなる。

 しかしその結果――

「申し訳ございません、御屋形様」

「……何が、だ?」

「典厩様、柿崎景家の手により、討ち果たされ申した!」

「……次郎、が?」

「さらに室住殿も討ち死され、死者は数え切れぬほどに」

「……」

 首を失った実弟、武田信繁の身体を信玄は虚ろな目で抱きしめる。とうに温かさを失ったそれは、もう言葉を発することはなく、苛烈な自分を諫めてくれることはない。支えだった、どれだけこの優秀な弟に頼ってきたことか。

 武田信玄の中で、何かがもがれた気がした。何かが、決定的に崩れた気がした。

「御屋形様、申し訳――」

「勝鬨をあげよ」

「え? 勝鬨、ですか?」

「そうだ。我らは勝った。勝ったのだ。黙してはならぬ。勝ったと示せ。我らは勝った。上杉政虎を破ったのだ!」

「し、しかし、そのような空気では――」

「やれと言っておる? 俺の命が、聞けぬのか?」

 上から抑えつけるような言葉。信繁の死に涙する重臣たちは一斉に何かが変貌した信玄に視線を向けた。立ち上がった信玄は、何処か幽鬼のようで――

「叫べ。我らの勝利を。えいえい」

「ぉぉ!」

「えいえい」

「ぉお!」

「えいえい」

「おお!」

「もっと叫べ。奴らの背に、浴びせかけるようにィ!」

「おおッ!」

 武田軍は血だまりの中、躯の上で勝鬨を叫ぶ。勝ったのだと、己へ言い聞かせるように。我らの勝利だと、世に知らしめるように。

 地鳴りのような声を背に、上杉軍は撤退をしていた。

「御実城様」

「おお、よう働いたの、柿崎よ」

 信繁を討ち取った柿崎が政虎へ声をかける。ちなみにこの柿崎、乱戦の中でのことゆえ、と信繁を討った功を固辞するのだが、それは先の話。

「この戦、御実城様は勝者をどちらと考えますか?」

「愚問。俺たちだ」

「理由は?」

「いずれわかる」

「……」

 自らの勝利を叫ぶ信玄に対し、政虎もまた己が勝利したという立場を崩さなかった。それは武田が信濃支配を確立した後でも、彼は勝ったと言い続けた。

 双方勝ちを譲らぬ勝敗の結果。ゆえに引き分けとされるのだが――少し先の未来、上杉と武田の明暗を、この戦が分けたと考えるのは飛躍し過ぎであろうか。

 上杉は繋がり、武田は絶えた。

 所詮は結果論であるが。

 この戦での死者は上杉三千、武田四千とされる。互いに一万と少々の戦力(別動隊除く)で、この被害と考えるとやはりこの戦は特別であったのだ。

 規模と被害が釣り合わぬ、あまりにも死に過ぎた一戦。

 八幡原は血に沈む。


 こうして川中島の戦いは幕を閉じることとなる。厳密にはもう一度睨み合いが発生するのだが、こちらは完全に睨み合いで終わり、五度目の決戦はなかった。

 つまり、龍と虎が戦場で再会することは――無い。

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