第佰捌拾話:血みどろの乱戦
村上義清は千曲川の向こうからやってきた軍勢、そして背後で繰り広げられている乱戦の気配を感じ、何とも言えぬ表情をしていた。
全てを読み切った上杉政虎への畏敬の念はある。だが、同時にここまで読み切っていたならば、もっと血を流さぬ手段もあったのではないか、とも思うのだ。遭遇戦は敵味方共に損耗を強いる戦いであるし、今千曲川に布陣するしんがり部隊は千人ほどで、対する武田軍は五千以上いるように見える。
「父上、何故こちらの指揮官が甘粕殿なのでしょうか? 格や実績から言っても、越後にとっては余所者とは言え父上こそが指揮を執るべきでは?」
「……適材適所だ。守戦であれば、俺でも彼に任せる」
村上国清、色々あって現在の名を山浦国清と名乗る義清の息子はこれまた何とも言えぬ表情をする。甘粕景持はもう知らぬ仲ではない。父と行動を共にしている間、己とも交流があり年も近く良好な関係である。
だが、明らかに尊敬する父から自分よりも認められている景持に対し、思う所がないと言えば嘘になる。まあ、今はそんな状況ではないが。
「集中せよ、敵は武田の精鋭だ」
「はい」
そう言う義清であったが、むしろ集中出来ていないのは己であり、自らを戒める色合いの方が強い。それだけ理解に苦しむ采配であったのだ。しんがり部隊を景持が任されたのは数日前、その部隊員である彼らにもその日伝えられたが、動き出す日取りは伝えられなかった。時が来たら命ずる、とだけ。
そして昨夜突然、政虎は皆を招集し動くと命じたのだ。
突然の命令、皆戸惑った。事前に話を通されていたこちら側ですら急な話だったのだ。本隊の皆の動揺は計り知れない。
しかも、結局何故、どうして、こうなるのか、武田が動くことがわかったのか、政虎は誰にも言わなかったのだ。
皆の想いを問うた柿崎に一言、
『黙って従え。外したなら存分に詰れ』
ただそれだけを返して。
最近の上杉政虎はもう、誰にもわからぬ領域にいた。誰にも読めなかった武田の動きを、霧に閉ざされた世界でも当てて見せた。
傑物なのは疑いようがない。信濃最強の男をしてまるで構造が見えぬのだ。誰もわからぬ、誰にも見えぬ景色があの男には見えている。
それを共有する気があれば、と思う。
だが、そうせぬことで神がかり的な演出が出来ているのも事実。複雑な表情の将とは異なり、末端に行けば行くほど、政虎の信者の割合は爆増している。
神に仕える者として、死をも厭わぬ兵と成る。
そして、上杉政虎もまた将兵の損耗を意に介さず、ただ戦いにのめり込む。健全ではない。異常な状況である。だが、上杉政虎と言うブランドが、関東管領にまで上り詰めた力が、その異常をまかり通らせてしまう。
果たしてこの先に光はあるのだろうか。
まあ、今は目先の脅威と対峙する時であるが――
(己が力、示して見せよ、持之介)
甘粕景持率いるしんがり部隊が、
「弓隊、撃てェ!」
「構うな、進めェ!」
武田軍の精鋭と衝突する。戦術目的は遅延、本隊への合流を極力遅らせること、と政虎から命じられていた。極力、その裁量は景持の手にある。
目的を達するも達せぬも、部隊を生かすも殺すも、景持次第である。
○
武田信玄は震える腕を抑え付けながら、敵味方が入り乱れる乱戦を見つめていた。異様な光景である。普通の戦はこうなる前に片が付くのだ。どちらかの敗走と言う形で。しかし今、両軍ともに逃げ場すらわからず眼前の敵と戦い続けるしか選択肢を持っていない状況であった。だから、戦いが終わらない。
人が死ぬ。凄まじい早さで命が消耗されていく。
甲斐の宝が、自らが作り上げた精強なる軍勢が、ぐちゃぐちゃになっていく。心が砕けそうになる。板垣、甘利を失ったあの時以上に、
(俺は掌の上だったのか?)
揺らぐ心を抑えられない。心がひび割れる。状況を見れば見るほどに、訳が分からなくなってしまう。完全に読まれた。最初はそう思ったが、敵軍の動きを見て、将兵の、特に将から漂う戸惑いを感じ、その考えすら揺らぐ。
完全に読み切った男が、こんな戦場を選ぶか、と。
不意の偶然、その可能性は捨てきれない。何故なら、自分ならこんな無駄に被害の広がる戦場をわざわざ選びはしないから。
敵軍だけではなく、自軍にも大きな傷を残す戦場など――
(違う。やはり偶然だった。俺は負けていない。俺は、正しい)
武田信玄は思う。自分は正しいのだと。人は城、人は石垣、人は堀、優秀な人材を集めた、育てた、そんな彼らと共に戦うことの何が悪い。
彼らの意見に耳を傾け、新たな風を取り入れることの何が間違っている。
ただ一人君臨することに何の意味がある。
それではただの暴君でしかない。
正しいのは己。
それは結果で示して見せる。
「勝てば、俺が、正しいィ!」
軍配がへし折れるほどの力で握り締める。血が零れるほどの強さで、歯を食いしばる。そうせねば、自分が壊れそうだったから。
「見えた! 我が名は荒川伊豆守なり! いざ尋常に――」
「うるせえ、小童ァ!」
越後方の荒川伊豆守(受領名)長実は槍を突き出すも、それを信玄は半身になってかわし、そのまま接近。鉄製の軍配を相手の頭蓋に叩き込む。
「ひぶッ!?」
鎧袖一触、接近してきた不届き者を排除し、信玄は自らを奮い立たせる。
勝つのは武田。甲斐であるのだと。
正しいのは己である。世の中は勝った者が正しいから。
○
上杉政虎は子どものような笑顔を浮かべ、ただ前進を続けていた。煮詰まった戦場だけが自分を解放してくれる。斬られたら死ぬ。刺されたら死ぬ。その平等さが心地よい。誰しも平等に機会がある。この乱戦はそういうもの。
だから良いのだ、と政虎は笑う。
「ははは! 関東管領の首がここにあるぞ! 臆すな、戦え! 立身栄達のため、我が首を欲する野心家はおらぬかァ?」
太刀を振り回す政虎はさながら鬼神の如し。幼少期とは異なり、今の彼は大柄な方である。力もついた。ただ振り回すだけで、その太刀が必殺と成るほどに。
武田軍の士気も高い。信玄に対する忠誠の高さがそのまま士気となっているのだろう。刃を交え、血を前にせねばわからぬことがある。
見えぬものがある。
「良いぞ、もっと来い! もっとだ、もっとォ!」
ちょっと脅しただけで、ちょっと叩いただけで、すぐさまへし折れるような軍ではない。続々と政虎を討ち取らんと襲い来る武田軍。素晴らしい気迫である。誰一人臆していない。本気で首を取りに来ている。
全ては武田信玄、御屋形様のために。
「御屋形様の下へは通さんぞ、政虎ァ!」
「死角を突いたが惜しい」
乱戦の中、死角より伸びる槍を政虎は抱えるように受け止め、槍ごと相手の動きを止める。名も知れぬ雑兵、されど随分頭が回るようであった。
「名は?」
「山本菅助と申す」
「天晴れな忠義であった、菅助とやら」
「ッ!?」
政虎は腰を入れて槍ごと菅助を持ち上げる。末端ゆえ高価なものをまとっているわけではないが、それでも具足を着込んだ身体である。
それを持ち上げ、
「ぬんッ!」
全力で地面に叩きつけた。肉がひしゃげ、骨が砕ける音と共に武田軍が末席、山本菅助がここ八幡原にて散る。
「ぶはは! さあ、もっと俺を楽しませろォ!」
乱戦、機会は平等である。すでに陣形もクソも無い戦場と化した。中央も、両翼も、崩れ、乱れ、統制を失ってしまった今、将と兵に違いなどない。
だからこそ際立つ。
「どォしたァ?」
「……化生がァ」
暴力の化身と化した上杉政虎の荒れ狂う姿が。誰も止められない。嵐のように周囲を飲み込みながら、全てを引き倒し前進し続ける。
その姿を見て奮い立つ上杉軍。追従する者たちも勢いに乗る。
それがさらに政虎の歩みを軽くするのだ。
もはやこの男、誰にも止められない。
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