第佰漆拾肆話:理解不能

 北条にとっての錦の御旗は氏康より以前から古河公方であった。元々、鎌倉公方として派遣された足利一門が、色々あって鎌倉を追いやられ分裂し、その結果色んな公方が各地でぴょこぴょこ生まれ、消滅していった。

 古河公方とは、古河の地に根差す足利を指す。数多のご当地公方が消え、残された有力な一門筋は古河ぐらいとなった。そこと血縁を結び、関東における北条の地位を確立するため、氏綱は娘を先代の晴氏に嫁がせていた。

 河越夜戦はその血縁を結んでいたはずの晴氏が裏切ったことで、錦の御旗が揺らぎあれだけの大軍勢が集まることと成ったのだ。

 当然、氏康の怒りは大きかった。晴氏を無理やり代替わりさせ、自らの血縁である晴氏の息子の足利義氏を擁立していた。

 そこを長尾景虎改め、上杉政虎は引っ繰り返した。

 古河から義氏を放逐し、本来の後継者であった嫡男藤氏を擁立したのだ。この藤氏、少し前に古河奪還を企てものの見事に敗れ、一時は安房の里見氏を頼る形で敗走した哀しい過去を持つ男である。

 関東管領家を匿う長尾家にも度々救援要請が届いており、その度に政虎は一読だけして文を火付け用の紙として再利用していた。

 そんな感じで希薄な関係ではあるが、足利の血は有効活用するに限る。藤氏を古河に置いておくだけで北条の御旗に泥を塗りたくることが出来るのだ。

 まあ、今のご時世でそれが如何ほどの価値か、と言う話ではあるが。

 とにかく政虎は古河公方を挿げ替え、

「帰るぞォ」

「は、はっ!」

 関東から越後へ戻る。

 荒らすだけ荒らし、北条へ止めを刺すことなく帰路につく。外側から見れば小田原城の堅固さや、北信濃や越中での武田の暗躍など、いくらでも理由は見つけられるが、当事者にとっては謎が謎を呼ぶ一幕であったのは間違いない。

 それはもちろん――


     ○


「御実城様は何を考えておられるのだ!?」

 ここ、春日山でも同じであった。留守居に任じられた者たちが車座となって顔を突き合わせている。関東から目まぐるしく舞い込む信じ難い情報の数々。最初は誤報だと思っていた。北条や武田辺りが流した悪質なデマだと。

 しかし、報告の数が増えるにつれ、皆の顔つきが険しくなっていく。

 仕舞いには、

「柿崎殿、腹を立てても仕方ありませぬぞ」

「腹も立とうが!」

 柿崎景家のように激怒する者も出て来る始末。なだめるは検見を任じられた直江実綱であったが、これでは逆に火に油を注ぐ様なもの。

 何せ実綱、皆が不機嫌となればなるほどに愉悦を深めていたのだから。

 周りがそう感じられるほど明け透けに。

「散々虐殺の限りを尽くし押し込んだのもそうだが、勝ち切れる状況で小田原の包囲を解き、越後へ帰還される意味が分からぬ」

「春日山を想ってのこと。文句があるのなら武田へ申すべきでは?」

「それを捌くための留守居であろうが!」

「武田相手では我々は力不足と判断されたのでしょう」

「煽られるな、直江殿」

 火勢を煽らんとする実綱を上田長尾当主長尾政景が止めようとする。このまま煽れば、お互いタダでは済まぬほど場が煮詰まっていたから。

「柿崎殿もここまでにしておきましょう。我々が何を言おうと、御実城様は軍勢を解き越後へ帰還される。我々が今すべきは――」

「武田への備えであろう。わかっておる!」

「ならば良いのです」

 政景もまた内心、政虎と諱を変え長尾を捨てた男の真意が読めていなかった。莫大な時間をかけてあれだけの段取りを組み、いざ勝負はわかる。そこで少し戦が荒くなるのも仕方がない。進軍速度から鑑みても、政虎の動きが一番強い動きであったから。まあ、現地にいれば苦言の一つでも呈したとは思うが。

 問題はその先。多くの血を以て小田原まで押し込み包囲を敷いた。さすがは常勝不敗の男、今頃周囲では『軍神』とでも呼ばれている頃合いであろう。

 今、彼は手が付けられないほどに強い。あのやり方を取った以上、在地勢力の士気が芳しくないのは想像に難くないが、それを差し引いたとしても半年、いや一年は政虎が植え付けた恐怖が勝るはず、そう思えた。

 永禄の飢饉があり、関東諸侯全体が食糧難であった。長期間の参陣が難しかったという理由もある。ただ、これは北条も同じ。

 しかも報告によればかなりの民を押し込み、城内へ送り込むことに成功したとも聞き及んでいる。多く貯えられぬ情勢でそれは苦しかったはず。

 考えれば考えるほどに退く理由がないのだ。

 武田の動きとて、

(北信濃の件で先んじられているのは御実城様とて百も承知のはず。そもそもまともにやり合う気すら……そのために戻ってくるとは考え難い)

 様々なしがらみから出兵を余儀なくされたが、様々な勢力や人物に頼られ、特に信濃守護小笠原家や有力者である村上家などの旧領復帰のため、となれば越後にとってあまり旨味のない戦いであろう。

 宗派の違いなど色々あるが、本気で北信濃を争う気なら武田になびいた善光寺別当栗田を野放しにしているわけがない。

 悠長に指し回していたのは、優先順位が低いからであったはず。

 それなのに今更、優先すべきでない土地のために勝ち確の戦を捨て、しかもこの状況で越後へ戻ってくると言うのは――

(悪手としか思えぬ)

 あまりにも理解からは遠い。

 そこに何か、深謀遠慮があるのなら文句はないのだが。

「武田への備えもそうだが、北条は間違いなく攻勢に出て来るぞ」

 留守居である桃井が意見を述べる。

「彼らをどれだけ防ぎ、広く長尾家の、失敬、上杉家の領地を確保出来るかが焦点と成りましょう。上野国まで失うは、あってはならぬこと」

 同じく留守居の黒河も声をあげた。

 だが、

「何故ですか?」

 ここでも実綱は口を挟む。

「折角侵攻したのだ。それを無為にせぬためにも、得たものを守ることも必要であろう。そこに疑問など存在しない」

 その何故に対し、政景は『何故』自体が無意味だと言い切った。

 武士ならば当然のこと。所領を広げ、それを奪われぬように守る。それが当たり前の形であるのだ。確かにそこへ疑問は必要ないだろう。

「支配、ですか。好きですねえ。ですが、私はそんなものさほど重要ではないと思っておりますよ。きっと、御実城様も同じ気持ちであるかと」

「武士の理に反している」

 柿崎がそれに対し切り捨てるも、

「それが何か? あの御方は武士の枠に収まらなかった。ただそれだけのことでしょうに。支配など我々俗人が考えればいい。支配せずともただそこに在るだけで良いのです。神が支配などしますか? 天が統治をしますか?」

「御実城様とて人だ。其の方の言う、俗人であろうに」

「実に不敬」

 今度は政景と実綱の間で火花が飛び散る。ふざけたことを抜かすな、と叫びかけた柿崎が我に返るほど、二人の間で濃密な殺気が飛び交う。

「まあ、今にわかりますよ。御実城様は理解してくださった。ご自身の在り方を。これから先、俗人は嫌と言うほど理解することでしょう」

 実綱は歪んだ笑みを浮かべる。

「天を解そうとする、その無意味さを」

 この場の誰もが上杉政虎の行動、その真意を理解出来ていない。理解していないと言う一点は実綱とて同じこと。ただ彼は理解しているのだ。

 今の彼を理解しようと言うのが愚かなことであると。

 天に、龍に武士の理を押し付けることが間違っている。

 飢饉、嵐、日照り、洪水、天災に理由などない。天災を理解しようとする者はいない。そこに上杉政虎が加わるだけなのだ、と実綱は思う。

 それがわからぬ方が悪いとばかりに、嗤う。


     ○


 長尾景虎改め、上杉政虎が越後へ入ったと言う報せはすぐさま武田信玄の耳に入った。何せこの信玄、すでにそれを見越して北信濃入りしていたのだ。甲斐に居座るよりも、少しでも近づいている方が情報の鮮度は上がる。

 今はほんの少しの誤差すら許さぬ状況。

「今度はこちらの番ですね」

「千載一遇の好機を逃した奴だ。俺が負けるかよ」

「過信せずに行きましょう」

「わかってるさ。あの男の怖さは、俺が一番理解している」

「ですね」

 武田信玄の眼は遠くを見据える。それこそこの北信濃の地、全てが盤上となっているかのような俯瞰した視点を、気づけば得ていた。

 盤の奥で向かい合うは、

(武者震いって奴かな。俺の鼻が言っている。ここが、勝負どころだと)

 仇敵、上杉政虎。

 肌感覚が告げる。これより起きる戦が、自分たちの分水嶺となることを。勝つか、負けるか、今までの全てが試される。

 多くの勝利を積み上げた。多くの敗北も積み上げた。

 仲間を得た。仲間を失った。

 その分、武田信玄は昨日より常に向上し続けた。

(……見える)

 百通り、千通りの勝ち筋がある。見える。海津城が完成した以上、置き石ありで戦うようなもの。二子、いや、三子はある。

 この優位を生かせば勝てるのだ。

「さあ、かかってこいや。関東管領様よォ。返り討ちにしてやるぜ!」

「その意気です、兄上」

 久方ぶりに武田の双翼が戦場に出そろう。出し惜しみはない。全てを賭して、この戦場を勝ち切って見せる。

 そして得るのだ。春日山を、湊を、海を。

 甲斐武田氏の悲願を果たす。


     ○


 北条は怒りのままに反転攻勢を始めた頃。上杉政虎は越後入りを果たす。不完全燃焼な決着、まともに戦うことすらなかった関東遠征が終わる。

 そして、すぐさま始まるのだ。

 上杉政虎と武田信玄、二人の武士が雌雄を決する舞台が。

 ここ川中島にて都合三度まみえ、戦績の上ではほぼ互角、勝ち負けつかずとなっていた。果たして今回はどうなるか。

 四度目の衝突が、始まろうとしていた。

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