第佰漆拾参話:青天の霹靂

 長尾景虎が蓮池で北条氏康と対峙してから十日余り、これまで籠城側と攻囲側でにらみ合いが続く中、事態が急変する。

 それは誰もが予想だにしていないことであった。

「父上!」

「力攻めで来たか。孫九郎と共に私も――」

「攻囲が、解かれました!」

「……?」

 氏政の言葉を飲み込み切れず、氏康は呆けた顔つきで首を傾げる。言葉はわかる。難しいことではない。だが、あり得ない話過ぎて飲み込み切れないのだ。

 攻囲を解いた。誰が、何故、どう言う理屈で――

「長尾の本隊は鎌倉方面へ。軍勢は続々と解散し、ここ小田原を去っている模様」

「……ありえぬ!」

 氏康は立ち上がり、すぐさま物見櫓へ向かう。自らの眼で見なければ信じられるはずがない。彼らはほぼ勝利を決めていた。ここから北条がどれだけ足掻くことが出来るか、関東諸侯の芯に頼るしかなかった状況。

 自分たちが音を上げるのであれば理解できるが、相手方を持って勝負を投げる意図がわからない。氏康が攻め手なら、絶対にしない。

 櫓の近くで、綱成らが呆然と立ち尽くしていた。

「……新九郎」

「っ」

 あまりにも想定を超えた状況であったのだろう。代替わりした今、普段ならばもう使わない、使ってはならない呼び名で彼が語りかけてきた。

 それは答え合わせのようなもので、

「道を開けよ!」

 それでも氏康は櫓を登り、我が目で見る。

「そんな……馬鹿な」

 敵の包囲が夢幻の如く消えた、門の外を。

 滾る怒り。長尾景虎への怒りを、憎しみを、充満させていたはずの心が空ぶる。そこにいるはずの敵がいない。昨日まで蟻一匹通さぬと包囲していた絶望の光景が消えていた。戦自体は在ったのだろう。門の外は荒れている。

 だが、荒らした者たちが、いない。

 まだ多少残っているが、彼らもじきに消え失せよう。

「何の策だ? 考えろ。何がどうなれば、こうなる?」

 氏康は全力で頭を回転させる。想定を超えた状況、読み間違えたなら致命傷と成ることもある。しかし、いくら考えても答えは出てこない。

 勝利がほぼ確定した攻め手が、それを捨てる状況など――

「……わからん。何を、何を考えているのだ! 景虎はァ!」

 理解を超えた撤退。氏康はどれだけ考えても、ついぞその答えに辿り着くことはなかった。いや、誰も答えに辿り着ける者など、いるはずがない。

 何故ならば――


     ○


「何故だ!?」

 混乱は味方陣営にも広がっていた。特に勝利を確信し、長年の労苦が報われたと思っていた長野業正の混乱ぶりには目を見張るものがある。

 主従を超えた友情を結ぶ上泉秀綱が身を挺して止めねば、自らが太刀を担ぎ景虎の下へ馳せ参じて問い質していただろう。

 まあ、抑え付ける上泉にとっても理外の撤退であったが。

「勝てた戦だ! 退く理由がない! ここで退けば必ず奴らは盛り返す! 今までの苦労が水の泡だ! 今すぐ包囲を、戻さねばならぬゥ!」

「長野殿。落ち着かれよ」

「これが落ち着いていられるかァ!」

 半狂乱。常に冷静で、大局を見据え上手く立ち回ってきた男が見せる、本気の狼狽は友の顔を曇らせるには十二分であった。

「お、御屋形様に、問い質さねば。此度の戦、真の旗印は長尾にあらず。山内上杉である。そうだ。殿ならばきっと、愚か者をいさめて――」

「長尾殿はその足で鎌倉へ向かいました。御屋形様と共に」

「……はえ?」

「上杉の名跡を継承するのでしょう。武士の地、鎌倉で」

「……それは、今すべきことか?」

「……わかりませぬ」

「わからんで済むかァ! ぐぅ、ふぐぅ」

 男も泣く。戦の散り際ですら泣かぬであろう者たちも、覚悟の外側からぶん殴られたなら、涙を流すしかなくなるだろう。

 まさに青天の霹靂。

 人生を捧げた博打に勝利したと思ったら、その先に道はなかった。

 行く先は、奈落か、それとも――


     ○


 関東諸侯の混乱も凄まじいものがあった。

 そんな中で、

「何かしましたかな、佐竹殿」

「まさか」

 関東にて北条と敵対し続けた両巨頭、佐竹義昭と里見義堯の二人が並び、語らう。

「であれば何故、突然撤退されたのでしょうなぁ」

「むしろ私の方が聞きたいですな。里見殿も得意でしょう? 搦め手は」

「……そちらほどでは」

 勢い盛んな北条相手に一歩も引かぬ百戦錬磨の武将二人は、互いの眼を見てそこに嘘が混じっていないことを確認する。

 互いに嘘はない。ならば何故、

(あまり山内上杉に勢いづかれても困る。多少裏で手を回しはしたが、さりとてあそこまで軍勢が膨れ上がってしまえばさしたる効果も無い。てっきり佐竹辺りと噛み合ったのか、と思ったが……そう言う感じではなさそうよのぉ)

(力のない諸侯と違い、我々は北条の滅亡まで望んでいない。彼らの勢いを止め、勢力を抑え込めたなら、それで秩序は保たれる。むしろ、格しかなかった上杉に実力を付与される方が厄介。撤退は進言した。春日山のこともある。だが――)

(武田の動きに呼応した? 自らの土地に固執するのは武士の性質ではある。いや、あの男にそのような気配はなかった。そも、それは小田原到達前にわかり切っていたこと。今更手を引く理由など、やはり皆無)

(里見ではなく、我々でもない。当然、上杉本人や長野もありえん)

(はてさて、どういう理屈があるのやら)

 無数の思考が二人の中で渦巻く中、それを尻目に――

「帰ったら連歌会が出来るのぉ!」

「殿、お静かに!」

「そういう雰囲気じゃありません。察してください!」

「と言うか我々は鎌倉入りを上杉家から依頼されております。連歌会を開くより前に先陣を切り、威風堂々たる名門小田家の格を示さねばなりませんぞ!」

「……むう」

 後の世に不死鳥と謳われる男、小田氏治は何にも考えずに拗ねていた。


     ○


 関東の実力者、小山秀綱、宇都宮広綱、小田氏治が先陣をつとめ、越後の長尾景虎が武士の地、鎌倉へ足を踏み入れる。

 向かう先は――鎌倉の地に根差す武士の聖地、鶴岡八幡宮。

 太刀持ちは越後の猛将、斎藤朝信がつとめる。

 そう、この地にてとうとう、

「委細、任せたぞ」

「身命を賭し、責務に殉じまする」

 長尾景虎が、山内上杉の名跡を受け継ぎ、上杉を冠することと成った。


 名を、『上杉政虎』、と。


 政はかつて先代となる上杉憲当が憲政と名乗っていた頃の字を貰い、自らの名である虎を重ねた。この日、越後守護代の系譜、三条長尾氏は断絶する。

 長尾ではないから、通字である景も捨てることとなった。

 名を改め、関東管領の立場を得た上杉政虎は鎌倉の地に君臨する。

 これで彼は、東国を治める大義名分を得た。

 あとは現在の古河公方を挿げ替え、北条の傀儡から上杉の傀儡へと移し替えるだけで、名分としては完全無欠と成るだろう。

 だが、

(何故だ?)

 太刀持ちをつとめる斎藤朝信は顔を伏せながら、困惑を浮かべていた。彼だけではない。この場全員がそう思っているはず。

 今、これをすべき状況か、と。

 北条に勝利してから、悠々と鎌倉入り、上杉の継承を済ませてしまえばよかった話。武田の動きや越中の動向も気になるが、そのために猛将柿崎を残したのだと斎藤は理解していた。最初こそ盟友柿崎の留守居任命に怒りすら浮かべたが、それに思い至りさすがの深謀遠慮、と勝手に褒め称えていたのが昨日のことのよう。

 今はもう、何が何だかわからない。

 柿崎景家や長尾政景、直江実綱などを残したのは信濃の、そして越中への対策を講じるためではなかったのか。

 ここで戻ったなら、彼らは何のために残されたと言うのか。

 特に柿崎は現場でこそ輝く将だと言うのに――

(……まさか、今回の戦を、邪魔させぬために?)

 斎藤は邪推してしまう。一本気で正攻法を好む柿崎にとって今回の戦、現場にいれば反対意見の一つや二つ述べていただろう。それに賛同する者は少なくないはず。少なくとも、こんな早期の撤退は断固反対し、それに連なる者もいた。

 自分なら正論を語る柿崎につく。

 だが、この地には彼がいない。いや、もっと言えば景虎、政虎に意見できる立場や、気質の者は全員、今回の戦から外されているではないか。

 気づくのが遅かった。

 彼は初めから、まともに戦う気など無かったのだ。

(……御実城様)

 初めから、


(天が俺に戦をせよと言うのなら、そうしよう。天が俺に勝てと言うのなら、そうしよう。だが、勝ち方は俺が決める。生殺与奪も俺が握る。北条滅亡の流れであった。それは出来た。しかし、やらぬ。そう、俺が決めた)


 北条を滅亡させる気など無かったのだ。小田原を攻め切る気も、関東管領の職務を遂行する気も、この東国へ静謐をもたらす気も、皆無。

 天に従い、天に逆らう。

 気まぐれに。

 長尾景虎改め、上杉政虎は嗤う。


(止められるものなら、止めてみよ)


 天よ人よ、龍が征くぞ。


 これより先、関東において『上杉』の名は忌み名と成る。支配する気もなく、ただただ暴れ、奪い、去っていくだけの災害となるのだ。


 後世の歴史家は皆、この男の行動に疑問符を浮かべ、理解出来ぬと嘆く。残された資料の少なさ、ちぐはぐな行動、全てがとにかく噛み合わないから。

 ゆえに人々は幻想を貼りつけた。

 義の武将、信心深く正義を愛し、旧き世の武士として君臨した、と。

 されど、それは彼の行動と合致しない。理由はともかく彼は戦いに明け暮れ、多くの血を流し、酒を飲み、他の武将同様に乱取りを認めていた。

 女を寄せ付けた形跡はないが、逆に言えばそれだけ。仏教の五戒で守ったと言えるのはただ一つだけでしかない。

 彼の戦歴から、残された僅かな記録から、信心は読み取れない。他の者と同じように仏教を利用して、統治に活かそうとする姿勢は見えるが。

 なれば彼は、本当の長尾景虎とはどんな人物であったのか。

 それは誰も知らない。知り得ないことである。

 彼の真実は彼自身のみが、龍のみぞが知ること。

 全てはただ、歴史の影に――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る