第佰漆拾弐話:流行
河田長親は近衛家に仕える家に生まれた。親も、兄弟も、皆近衛家やそれに連なる家に仕え藤原氏の流れを汲むそれなりの名門である。
自身も幼少の頃より近衛家の姫君の一人である絶に仕え、彼女が嫁へ行けばまた別の近衛や近しい公家に奉公する、そう言う人生であったはず。
それなのに今、
「……お酒を控えた方がよろしいのでは?」
「長親ぁ。ぬしは良いのお。気遣うふりをして、微塵も俺の健康など気にしておらぬ所が良い。傍に置き甲斐のある男だ」
「……」
自分は戦場で、自らを京から、畿内から、あまつさえお慕いする絶姫から引き離したこの男に仕えている。辺境の地、関東の騒乱など本来鎌倉公方、関東管領の領分であり、京の由緒正しき家柄である近衛や河田が関わるのはお門違い。
近衛の当主が阿呆であるばかりに、東の地へ連れてこられ、野蛮極まる戦に参加させられている。京とて荒れているが、今この瞬間目の前に広がる光景と比べれば悪名高き天文法華の乱、あの大火すらも尻尾を撒いて逃げるのではないか、と長親は思う。まあ、当時長親は生まれていなかったので比較のしようはないが。
「この戦、ぬしはどう見る?」
「……見事な手際であったかと。さすがは御屋形様、不敗の名将でございます」
「くっく、持ち上げるのが下手だのぉ。長親よ」
「……お気に触られたなら申し訳ございませぬ」
そもそもこの男の呼び方が気に食わない。越後の国主、力も格も備わっている。だが、そうは言ってもここは東国であり、畿内ではない。この世は畿内かそれ以外、天下とは畿内を指す。その外側での実力者風情が、礼を知らずに諱を呼び捨てにしてくるのだ。それも、己が嫌がるとわかっていながら。
「だから傍に置いておる、と言うたぞ。そして、だからぬしと娘を引き離したのだ。間違っても、くく、俺を好くことがないように、な。存分に憎め。俺が存命である限り、ぬしはあの娘の傍には、戻れぬ」
「……」
長親は震える手を押さえる。仕方がない。近衛の馬鹿クソ当主のせいでこうなった以上、自分が近衛ではなく河田でしかない以上、彼に逆らうことなど出来ない。それでも溢れ出る想いは、抑え切れずに貌に浮かぶ。
それを見て景虎は満面の笑みを浮かべた。
そう言うところが本当に、大嫌いだと長親は思う。
「で、本当のところは? ここだけの話じゃ。言うてみい。ほれほれ」
「……見事と言ったのは嘘ではありません。十年近く寝かせた根回し、上野国での暴力、それ以前から重ねる不敗神話、全てが重なってのこの局面でしょう。ならば、やはり見事としか言いようがありません。これは本心です。ただ――」
「ただ?」
「最低最悪のクソだな、とは思います」
「ぶはは! そうだな。俺も、そう思う」
「ご自身の差配でしょう?」
「ああ。そうだ。俺が描いた。俺が命じた。この地に広がる悲鳴は全て、俺が巻き起こしたものだ。最悪であろうな、最低であろうな。許せぬさ、俺ならばな」
「……?」
景虎の表情、其処に浮かぶ虚ろを長親は理解出来なかった。ただ彼は薄く笑い、其処には少しばかりの自嘲が滲む。
「だが、仕方がない。天が俺に戦えと、勝てと言っておるのだ。氏康ならばもしや、と思ったが……風まで俺を押さば、獅子とて手も足も出まいよ」
そう。
「鉄壁の三国同盟が俺に時間を与え、結果としてこの局面を生んだ。この風は俺のものか、信長とかいう小僧のものかは知らぬが……全てが噛み合った以上、この結果は必定であった。何も、悲観する必要など、無かろうになぁ」
この戦はもう、
「さて、どうしたものか」
勝っているのだ。
長尾景虎と言う化け物の手によって。
○
上野国を平定した越後勢の動き出しに、多くの国衆が戦う前から頭を垂れた。先年の大暴れ、あれが脅しとして機能したのだ。自らの領土であんな暴挙をされては今後に差し障る。内心はどうであれ、今は従うしかないと皆が頭を下げた。
それは一つの大きな流れと成る。一つ一つの出来事は小さくとも、重なれば大きくなり、ある時凄まじい強制力と成って人の行動を縛り付ける。
流行。流れが人を呼び、さらなる流れと化す。
右向け右、左向け左、これもまた人の本質である。誰かがそうしたから、それが大きくなれば大きくなるほど、抗うことは難しくなる。
人は孤立を忌避し、あぶれた者を敵とし、流れに乗る自分たちを正当化する生き物でもある。哀しいかな、人とは、群れとは、そう言う性質を以て成り立っているのだ。そして今回、あぶれたのは北条。
「……す、素晴らしい!」
箕輪城城主、長野業正はあまりの光景に震えていた。眼前に広がるは、上野国はもちろん、関東全体から集まった大兵力である。
その数、およそ十万。
かつて、関東を統べていた上杉にとっては悪夢のような河越夜戦を上回る巨大戦力である。しかも今回は、建前上山内上杉が御旗を振るうが、真の旗手は長尾景虎ただ一人。指揮系統が混在することも、足並みが揃わぬことも少ないだろう。
やり方に言いたいことは山ほどある。憲当を箕輪城に、自らに押し付けて殊勝に戦っていると思えば、まさかの大虐殺、大凌辱、大略奪が行われていたのだ。
これから先のことを考えたなら、頭が痛くなる。
ただ、それでも――
「今度こそ勝ったぞ、上泉の」
「……ですな」
苦杯を嘗め、面従腹背の日々を過ごした業正にとって、まさに夢のような光景であったのだ。とうとう、勝利の時が来た。
北条が滅び、新たなる山内上杉が関東を治める。
山内、扇谷、古河公方、三つの名で集めた兵数よりも多いことが、それを後押しする。多くの勝利が、上洛で得た権威が、彼を錦の御旗に押し上げたのだ。
如何に三代目が優秀であろうとも、今度は手も足も出ないだろう。
「長かった」
「……素直には、喜べませぬがな」
「言うな。今は、ただ、浸らせてくれ」
「……承知」
長野家はこれで、確固たる地位を築くこととなるだろう。本来、水と油ほどに交わらぬはずの長尾家と山内上杉を繋げた功績は、他の誰よりも評価されるはず。北条に与し、新参者として彼らの靴を舐めるのは簡単だった。だが、業正はあえてそれをせず、危険な橋を渡る決意をしたのだ。全ては長野家繁栄のため。
その決意が今、結実の時を迎えた。
「終わりだ、北条」
圧巻、圧倒、手も足も出させずに完封する。
これぞ軍神の戦だ、と業正は感動していた。
○
三国同盟の一角、今川の下にもその報せが届いた。
十万の戦力。そして、北条が本拠地小田原城に長尾景虎が迫ると言う。相模と駿河、隣り合うとはいえ国を跨いだ情報である以上、これが届いた頃には喉元まで迫っているかもしれない。なれば、北条は籠城するしかないだろう。
十万の兵を相手に正面から戦うことなど不可能であるから。
「……御屋形様、どういたしましょうか」
「北条は同盟相手だ。今、手を引くわけにはいかぬ」
「しかし、十万の矛先がこちらへ向けば我らに勝ち目はありませぬ」
「……わかっておる」
今川家当主、今川氏真は難しい判断に直面していた。先年、上野国で景虎が暴れ回っていた時に同盟相手の北条からの要請で河越城に兵を送った。あの時はまさか、ここまで巨大な流れになるとは思っていなかったのだ。
と言うよりも、そうならぬように今川の姿勢を示し、抑止力とするのが氏真の狙いであった。だが、景虎はそれを気にすることもなく深く相模へ食い込んだ。
それは明確な、今川への侮りであった。
(父上ならば、海道一の弓取りであったなら、同じように景虎とやらは無視出来ただろうか? 無法者の景虎はともかく、関東諸侍の反応は、違ったはず)
今川義元が健在であるならば、景虎がここまで食い込んでくることはなかった。今川の動き一つで、この流れをせき止めることも出来たはず。
されど今はもう、三国の王たる海道の覇者はいない。
氏真は元康の提案を呑み、岡崎城を彼に預けることを認めた。織田と関係を結び、盾として機能するとの策は、大黒柱を失いぐらつく今川にはありがたい提案であった。だが、それによって今川の周辺諸国への影響力は激減する。
何しろ、内情はどうであれ周りからは弱体化した今川を見限り、松平が独立を果たしたように見える。実際にそれは間違いない。
織田とも組み、見た目の上で今川を敵対する。
ここまでして初めて『盾』の意味があるのだ。
されど今、
(……本当に、元康は、竹千代は、今川を見限っておらぬのか?)
彼が自分を嫌っていることを、氏真は知っている。当たり前であろう。己もまた彼を嫌っていたのだから。父への愛は、互いの本物であったと思う。だからこそ相反していたのだ。ただ、今はもうその父がいない。
義元への愛が、そのまま今川へ向けられるのか、と思えば懸念もあろう。
正直に言えば、北条への義理立てで河越城へ兵を送ったが、これ以上首を突っ込む余裕など今の今川には存在しなかった。
松平が織田と上手く手を繋ぎ、表向き今川と反目しながら生き永らえる。これが成るかどうか、元康の手腕にかかっている。
今川の命運は、東ではなく西にあるのだ。
「それにしても……噂以上の化け物だな、長尾景虎とやらは」
「はい。正直、侮っておりました」
「あの北条を、一年経たずに平らげるか」
「まだ平らげておりませぬが?」
「この様子では小田原城への攻囲は成る。もう、成っておるかもしれぬ。今回は本拠地、河越城の時とはわけが違う。後詰がおらぬからな」
「……確かに」
今川はこれ以上兵を割く気がない。武田は動く可能性はあるが、果たしてあの難物が義理だけで十万相手に戦いを仕掛けるかは疑問なところ。
むしろ氏真ならば、この機に北信濃の制圧に乗り出す。
それがまあ、多少の援護にはなるだろうが。
「噂が本当であれば、今の内に我らも尻尾を振っておくか? 新管領殿に」
「……」
「冗談だ」
北信濃で武田が動き、本拠地である春日山への危険を嫌い、景虎が手を引く。これが唯一の希望かもしれない。だが、それも噂が事実であれば、何の意味もない脅しとなるだろう。彼があの名跡を継げば、越後に戻る理由がなくなる。
同時に北信濃での攻勢は、脅しとならなくなる。
本拠地を移すだけで済むのだ。
とにかく長尾景虎の強さは尋常ではない。特に、今までの戦歴から不得手と見られていた搦め手も使えることを知らしめ隙がなくなった。
軍神、巷ではそう呼ぶ声も出始めているそうな。
まあ、あれだけ関東で盤石な体制を築きつつあった北条を、半年かそこらで追い込んだのだから、そう呼ばれるのも仕方がないだろうが。
混迷の関東。一寸先は闇、である。
○
武田は出来ることをした。北信濃で和睦破りの戦略的城砦を建設し、さらに越中での一向宗を再度扇動、出来る限り越後へ、春日山へ圧をかけた。
これが武田に出来る限界である。
ただ、
「次郎なら退くか?」
「……退きませぬ。一つ片づけ、その後片づければ済む話ですので」
「……そうだな。俺でもそうする」
そんなことで景虎が止まらないことは、誰の目にも明らかであった。自分たちとの戦いでは見せなかった搦め手と言う牙。果たしてあれを向けられて、武田はこの地へ立っていられただろうか。
ずっと手を抜かれていた。そんな不快な考えが過ぎる。
実はまだ、誰も彼の本領を知らぬのではないかと。
「次は、俺たちか」
「勝てますか?」
「勝つしかねえだろ。ここは、そのための場所だ」
「そうですね。勝ちましょう。あれに関東の覇権を握らせるわけにもいきません」
「……珍しく感情が揺れているな」
「人を人と思わぬやり口が好かぬだけです」
「俺もやるぞ。やる時は」
「何事にも限度がありましょう」
「……まぁな」
限度を弁えぬやり方は、武田次郎信繁にとっても許し難いことであった。統治者の苦悩を知るがゆえ、線引きへのバランス感覚を馬鹿にしたような今回の戦に、強い憤りを覚えていたのだ。勝っても不毛では、意味がないだろう、と。
貧しい土地で生まれたからこそ、貧しさを足蹴にするやり口は許せない。
それだけである。
○
永禄四年、三月。
上杉憲当を掲げる長尾景虎率いる十万の軍勢はあっさりと小田原城を囲む。北条はここまで手も足も、牙も出すことなく追い込まれてしまった。
本気の龍に、獅子の牙は戦う前からへし折られてしまう。
「お助け下さい。御本城様ぁ」
「……長尾、景虎ッ!」
すでに小田原城には多くの民が詰め込まれ、収容人数を大幅に超過する事態と成っていた。氏綱の代よりも拡大、拡張した小田原城であるが、それでも全然足りない。外で連日響く呪詛のような民の声。押し寄せる景虎の軍勢。
策などあろうはずがない。すでに打ち尽くした。諸侯へ呼びかけ、景虎の非道を詰り、こちらへ与するよう声掛けをしたのだ。
だが、結果は誰もこちらへなびかなかった。
いや、なびけなかった、か。
ああ成った時点で、敵対は死を意味する。
「父上」
「門を、閉ざせ。今は耐え忍ぶ。士気が落ちれば、あの非道なやり口が問題と成ろう。上野国の諸侯は直で見たはずだ。それに――」
今殺されている民の中には、諸侍の身内がいてもおかしくはない。同じ上野国の民、武蔵の民、相模の民、引け目は絶対にある、出て来る。
ここからは我慢の勝負。後詰はある。
今、目の前で敵対している彼らが、後詰と成る。
「皆、揃っているな?」
「「「「「はっ!」」」」」
北条氏康と北条綱成を始めとする五色備が勢ぞろいする。
河越夜戦以来の窮地。追い込まれてからが――獅子の戦である。
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