第佰漆拾壱話:最凶の武士
「これが、戦なのですか?」
「……これ『も』戦です」
近衛絶は幾度も吐き、寝付けぬのであろう目の下に隈を浮かべるほどに此度の戦への忌避感を覚えていた。甘粕景持はそれに対し戦だと言うが、歯切れは悪い。今までの景虎の戦は良くも悪くも真っ直ぐに、正面からぶつかることが多かった。
景虎が先頭に立ち、後ろの軍勢を振り回しながら猛進する。
その破壊力こそが、越後長尾家当主、長尾景虎の強みであったはずなのだ。
だが、今回は事前に仕込んだ策と、現在進行形で行われる殺戮、略奪、放火、ありとあらゆる方法で悪徳を撒き散らし、その恐怖で勝利を重ねていた。
「姫様が望まれた戦場です」
「わかって、おります」
景持の言葉はむしろ、己に言い聞かせるようであった。心の中では違う、これではない。長尾景虎の戦はもっと、美しいものであったはず。
そう言いたかった。喉元まで、それが出かかっている。
無論、今までそう言う手段を取らなかったわけではない。有効な局面では使っていたし、それが敵へ大きな負荷を与えていたのも事実。
ただ、今までのそれはあくまで主ではなく次善の策。正面からぶつからぬ相手をこじ開けるために、搦め手を用いていたに過ぎない。
されど今、それが戦の主と成っている。
その証拠に、ここまでの戦で長尾景虎は一度として先頭に立って指揮を取っていない。後方で命じ、他の武将と同じようにどんと構えている。
彼らしくない。
だが、強い。今までの比ではない勢いで、城が落ちていく。もはや戦闘に成ることの方が稀。景虎の苛烈なやり方を聞き、多くの諸侯が戦う前から白旗を挙げた。
その理由は――
(負けても、勝ってすら、割に合わない)
徹底的に敵対者の領地を荒らすやり口は、小氷河期によって万年食糧不足のこの時代、人を直接殺すよりもよほど、多くの人間を間接的に殺すことが出来る方法であった。今生き延びても、田畑を使い物に出来なくされたなら、来年の収穫は絶望的である。まともに生産できるようになるまでの備蓄も当然ない。
全て越後勢が奪い去っているから。
だから、どれだけ誇り高い者であっても、そのやり口を見せつけられたなら腹を出して降参するしかないのだ。
領民を食わせてこその領主。それが崩れるぐらいなら誇りを捨てる。多くの領主が『恐怖』を前に寝返った。
そうしなかった者たちは皆、目の前のようにあらゆる手を以て蹂躙される。たった三か月足らず、上野国一国がほぼ景虎によって平定された。
戦に乱取り(略奪)はつきもの。放火とてよくある話。田畑を荒らすことも常道ではある。されど、この規模と徹底ぶりは、上野国の諸侯へ絶大な恐怖を植え付けた。
その結果が、今。
○
長尾景虎の陣中、其処には武士には見えぬ者たちが跪いていた。
「俺の耳にちと、風の噂が入った。何でも、人が供給過多で買えぬ、と一部の人買いが申しておるらしい、となァ。何か知っておるか、ん?」
「……」
そう、彼らは皆、戦場などで捕虜となった人を買い付け、方々で売りさばく人買いであった。景虎が彼らを呼び出し、直々に詰問している構図である。
上野国一国を最短でほぼ平定した。多くが景虎に下ったとはいえ、北条に従い逆らった者も少なくはない。そんな彼らから根こそぎ奪ってきたのだ。
当然、人の需要は供給過多と成って失われる。
だが、
「ぬしらはまさか、俺と商売出来ぬとは言わぬよな?」
「……む、無論でございます。し、しかし――」
「しかし……何だ?」
景虎はその状況でも彼らに人を買い付けさせようと、押し売ろうとしていた。人買いにとって人は商品。どの業界でもそうだが、在庫と言うのはそれを持ち続けること自体が彼らの負担となるのだ。人を抱える以上、最低限の衣食を与えねば死んでしまう。死ねば人買いは損をする。当たり前である。
だから彼らは売れると確信が持てる在庫しか持ちたくはない。現在、供給過多により売るのが困難な状況。商品は入荷せず、潮目が変わるのを待ちたいと言うのが本音であろう。そんなことは景虎とてわかっている。
それでも、
「ひ、人の相場が下がっております。今は、その、売らずに保持し、相場の値上がりを待って売られるのが得策かと。御実城様に損をさせるわけには――」
「構わぬ。二束三文でよい。買え。そして、売ってこい」
「ッ!?」
景虎は彼らに買えと命ずる。
「北条は民を重んじておると聞く。あ奴らならば、くく、買ってくれるのではないかのぉ? どうじゃ? 名案であろう? ん?」
「……」
「返事が、聞こえんのォ?」
彼らにとっても死活問題。容易く返事など出来ない。それでも――
「そうか。それなら――」
彼らの一人に、首元へひやりとした何かがつきつけられた。頭を上げる必要もない。これは、刀の冷たさである。
「死ぬか?」
「か、買わせて、頂きますゥ!」
「ぶは、元気があって良いのぉ。他の者は、どうだ?」
「私どもも、買わせて頂く、所存でございまする」
「うむ。感謝するぞ。値付けは好きにせよ。ただし、タダでは売れぬ。一文で構わぬゆえ、あとは好きなだけ買え。虜囚は腐るほどおるからのォ」
「ははっ!」
買わずに今死ぬか。売れずに溺れ死ぬか。最悪の二択を前に彼らは後者を選択した。あまりにも苛烈な交渉である。そもそも、こんなことに大名が出張るのは稀である。かつて武田晴信は自らに逆らった者への意趣返しで捕虜を高く売り、買い戻そうとする敵対者へ大きな負荷をかけたが、景虎は逆に安く押し売る。
対照的な方法であるが、その効果はどちらも同じ。適正価格をぶち抜けば、必ず誰かが割を食うのは、如何なる業種でも同じこと。
晴信は高く、景虎は安く、どちらも敵を殺す一手。
ただ、景虎のそれは晴信に比べ、ずっと広範囲に被害を撒き散らす。無慈悲なる策略は、関東を恐怖のどん底へ叩き込んだ。
武士、百姓、果ては人買いまで、長尾景虎を畏れることと成る。
○
長尾景虎の躍進、それは東国を混沌へと叩き込む。
武田晴信改め、武田信玄は景虎のやり口を知り、顔を歪めた。今までとは違う徹底的に合理な、人の心が欠片も介在していない最短距離を征く景虎。果たして、それをされて信玄はあの怪物に勝てるか、と自問自答してしまう。
景虎は義を貴び、力押しで来る。この大前提が崩れた今、今までの景虎と同じように見ていては必ず手痛い傷を負わされるだろう。
「次郎」
「はい」
「複合城塞の件、すぐに取り掛かるよう伝えよ」
「直接援軍を送らぬのですか?」
「それで止まる流れじゃねえよ。んなもん、氏康も理解している。必要なのは奴らの本丸に圧をかけること。それで、退くことを願うしかねえ」
「……ここに来て、一気呵成、ですね」
「やり過ぎだぜ。俺でもこれは無理だ。いくら最短でも、この後のことを考えたら、どう考えたって悪手でしかねえだろうが」
「……ええ。だから、私には彼が理解出来ない」
「誰も理解出来ねえよ。武士としては、明らかに間違ってるんだからな」
信玄は顔をしかめる。北信濃での攻防で、長尾景虎が凡人でないことは嫌と言うほど味わっている。彼が愚かな手を打つはずがない。
それだけの信頼はある。
だが、今回の一件に関して、信玄は彼の行いに正しさを見出せなかった。
それは彼だけではなく――
「大殿!」
「……今度は、何だ?」
「上野国が、完全に落ちました。最後まで奮闘していた那波氏も」
「そう、か」
北条氏康は唇を噛む。暴力を振るい、恐怖で縛り上げる最も原始的で、最も愚かな手段に景虎は訴えかけてきた。
「何を考えておるのだ、長尾景虎は。英傑の器と聞いていたが、これでは後々の統治に必ず響く。まず、十年、いや二十年は、まともに統治など出来ぬぞ」
このような局面、考えもしなかった。確かに、今この瞬間だけを切り取れば越後勢の躍進、これが最短最善手であろう。だが、荒い手段は必ず反感を生む。今この瞬間、服属した者たちも、景虎が隙を見せたら寝首をかこうとするだろう。
氏康ならしない。特に北条はこの関東平野に根差すため、領民に好かれる政策などを取って来た。彼らを立て、時に諭し、正しく向き合う。
伊勢宗瑞、北条氏綱、北条氏康、三代をかけて彼らは丁寧に積み上げてきたのだ。それこそが統治の王道である。
性急なやり方では必ず綻びが出る。今回のそれは、あまりにも急ぎ過ぎたものであった。まるで、統治などするものか、と言わんばかりのやり口である。
ただ、それは武士の理屈としてありえないものであった。
版図を拡大し、家名を高め、盤石な体制を築く。ほとんどの武家がそれを志し、そのために戦に明け暮れているのがこの時代である。
そんな中で、
「……理解、出来ぬ」
その考えから外れた者の存在など、考えろと言うのが酷な話。版図拡大のために戦うのが武士であり、それを捨てたなら、何故戦うのかがわからないから。
戦うこと自体が目的の武士など、この世に存在しない。
それが彼らの、この時代の、常識である。
○
長尾景虎はこの年、春日山に戻ることなく関東で年を越した。上野国を平定し、下野国を視野に入れた状態での居座りは北条へ大きな圧をかける。
永禄四年、とうとう越後の龍と相模の獅子が衝突する。
時が来た。
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