第佰漆拾話:龍の戦

 北条孫次郎は北条の血統ではなく、北条綱成、つまり福島氏の血統である。同族である北条綱成が北条姓を賜った際、彼らもまたそれを名乗ることとした。伊勢の名を捨て北条と成った主君と、福島の名を捨て北条と成った家臣。

 血縁よりも強き絆で繋がった一門衆である。

 その中で孫次郎は越後と上野の国境線における要所沼田を任された男であり、その事実だけでも彼の北条家臣における優秀さは透けて見えるだろう。

 実際にこれまでつつがなく沼田やその周辺を治め、越後勢が越山の際には充分な警戒と備えをしてきた。どれだけ巨大な軍勢が押し寄せようとも、堅固なる城は容易く落ちることはない。そして、耐え抜いた先の後詰も信頼できる。

 何しろ、あの河越夜戦を乗り越えた北条家である。

 たかがせいぜい一万程度の軍勢、何するものぞ。

「――と、思っておるのだろうなぁ」

 長尾景虎は敵の威風堂々とした布陣を見て嗤う。基本に忠実な備え、一見するだけで攻めるに難きことがわかる。良い城である。隙も見えない。

 だが、景虎にとってここは通過点でしかなかった。

 何も搦め手は、あの男だけのお家芸ではない。


     ○


「……いつから、だ」

 北条孫次郎は顔を歪め、その男たちを睨みつけていた。

「初めからです、殿」

 沼田領主沼田顕泰を越後へ追いやった後、銭をかけ手間をかけ徐々に構築していた地場の武士たちとの関係性。彼らを置いて行った領主の不備を説き、懐柔するためにあらゆる手を尽くした。そして、それは成ったはずであった。

 だが、今その沼田衆は孫次郎へ槍を突き付けている。

 初めから、そうするつもりだったと言って。

「なるほど。恥も外聞もなく逃げたと思ったら、全てはこの時のためか。見事也、沼田顕泰。坂東武士の意地、侮っておった、な」

「御免!」

 北条孫次郎は全てを飲み込み、

(すまぬ、孫九郎。あとを、頼んだぞ)

 無数の槍を前に、倒れた。


     ○


「忠臣だな、沼田衆は」

「あと五年遅ければ、愛想をつかされておったかもしれませんが」

「くく、かもなァ」

 長尾景虎と旧沼田領主、沼田顕泰は談笑しながら、勝手に開いた門に雪崩れ込む越後勢を見つめていた。基本的に籠城の兵力など大半は現地の者。北条の手勢など多くとも三百程度であっただろう。

 対して沼田の兵は倍以上、彼らを統率とするために三百は散らばり、外への守りが厳重であればあるほどに、内側への警戒が疎かとなる。

 無論、事前の仕込みがあってこそ、だが。

「北条の兵は?」

「皆殺しだ」

「……人質にするという手もありますが」

「要らん。殺せ」

「……承知」

 沼田顕泰は越後へ逃げ延び、景虎の庇護下へ入った時点で上下の関係が生まれていた。この後の予定も知るがゆえ、尚更逆らうことは出来ない。

 正直言って、皆殺しなど非効率的である。相手を削ぎ落としたいのであれば、殺すよりも人質とする、人買いに売る、こちらの方がよっぽど上手い。

 どの手段を取っても恨みは買うが、皆殺しの恨みは深い傷と成る。

 長尾を掲げると決めた以上、北条へ与する気はないが、もし長尾が倒れた時に今回の件、響く可能性は十分ある。

 出来れば穏便に、と言うのが沼田顕泰の考えであった。

 だが、

「まだまだァ」

 長尾景虎の侵略は、ここからである。


     ○


「御本城様!」

「……其の方も御本城であろうに。抜けぬな、氏政」

「も、申し訳ございませぬ!」

 御両殿、北条氏康とその息子、北条氏政が対面する。これだけ慌てた様子、とうとう越後が、長尾が来たのだろうと氏康は腹を括る。

「長尾か?」

 不敗の噂はこの小田原にも届いている。いつかまみえる日が来る、何となくだがそんな気はしていた。それに氏康とて遊んでいたわけではない。

 備えはしていた。地盤も――

「はい。長尾が越山したことで、上野国の国衆が一斉に反旗を翻しました!」

「……は?」

 氏康は呆けた声を出してしまう。国衆が、一斉に、聞き間違いかと思うが、息子の顔色を見てそれが真であると知る。

「長野は!?」

「誰よりも、早くに」

「あの、男。端からこのつもりで、寝返っておった、だと。まずい、早々にこちらへ寝返ってきたゆえに、信頼はしておらなかったが、まさか、山内への忠義だけで十年近くも我らを、北条を欺いてきたと言うのか」

「……」

 氏政は父の狼狽を久方ぶりに見た。河越の時以来、実際にそれ以来の窮地であろう。着実に固めていたと思っていた地盤が、実は土台から組み間違えていたのだ。長野業正筆頭に、山内上杉勢の歴史を、結束を、侮り過ぎていた。

 そして何よりも、

「景、虎ァ」

 この絵図を十年前から描いていたであろう、長尾景虎への畏怖が生まれる。山内上杉を、信濃守護小笠原を、村上を、かくまう懐の深い男だと思っていた。

 義に厚い男なのだと。

 度重なる武田の調略、受け身を続けた景虎はあまり搦め手が得手ではない、と氏康も含む周辺諸国は判断してきたが――

(それすら、撒き餌か!)

 信濃侵攻に彼は全く、本気を出していなかったのだろう。そもそも取る気がなかった、そう考えるしかない。そしてその場合、義に厚い男であるどころかとんでもなく打算的な男であることが見えて来る。

 高梨や村上、小笠原の手前領地としにくい信濃は端から捨て、山内上杉を掲げて領地を手に入れることが出来る関東一本に絞っていたのだ。

 全てはこの時のために。

 準備が万端であったのは、全てを嵌めた長尾景虎の方であった。


     ○


 箕輪城にて、

「久しいな、長野」

「御久しゅうございます、我が殿」

 長野業正と上杉憲当が対面する。あれから随分と時間が経った。業正は老い、憲当もまた落ち着きを見せている。若く、細かった憲当はもういない。

「見事な根回しであったぞ」

「いえいえ。非才の身ながら出来ることをしたまでです」

「ほんに大した男よな、ぬしは」

「滅相も無い」

 上野国では比較的早く北条に寝返った男は、表向きで従いつつも裏では方々に手を回し、来るべき時に備えていたのだ。

 山内上杉復権のため、ではなく、

「案ずるな。今更この地、板鼻への未練はない。そのつもりで舞い戻って来たのだ。この、『上杉』を長尾殿に譲り渡すため」

「山内上杉の血統が絶えるのは残念でなりません」

「はは。もう演じずとも良い。私もそれなりの年を取った。自分が求められているかどうか、武士が何を求めるか、心得ておるつもりだ」

「……変わられましたな」

「ならば、海のおかげであろうな」

「左様ですか」

 長野家発展のため。武家は皆、自らの家名をより大きくし、残すことに人生を賭す。業正も己が家をより発展させるため、長尾景虎と言う可能性に賭けることとした。彼が期待している者が自分でないことは、憲当も成長し理解していたのだ。

 加えて心のゆとりが、少しばかり視野を広くしたこともあるだろうが。

「強さは申し分ない。おそらく北条にも勝ろう」

「ほう。それは僥倖」

「だが、気を付けよ」

「何をですか?」

「長尾殿は強過ぎる。そしてもう、止める者がおらぬのだ」

「……?」

「まあ、もはや我らは運命を共にするより、選択肢などないのだが」

 近く、春日山にいたからこそ知り得る景虎の変化。詳しい事情は知らない。興味もない。巻き込まれたくない。それでも多少は耳に入って来る。

 何よりも、眼を見れば嫌でもわかってしまう。

 かつて揺蕩っていた光が、失われていることに――


     ○


 長野と上杉の邂逅と時同じくして、軍を率いた景虎は城攻めを行っていた。長野の根回しで多くが寝返るも、上野国全ての国衆がなびいたわけではない。北条の治世は良好で、山内上杉時代よりも良いと感じる国衆も少なくなかった。

 ゆえに、

「北条につく」

「よろしいのですか?」

「北条を騙る新参者の伊勢氏は好かん。だが、飢饉の折、彼らのおかげでしのげた恩がある。加えて、此度の戦は見た目こそ山内上杉中心であるが、その実態は越後長尾家が主導であろう。名跡を奪い、成り代わると言う話も聞く」

「……」

「どちらも余所者。ならば、上手く付き合える方を選ぶ」

 このように北条側へつく国衆もいる。さすがに山内上杉が関東を離れて時間が経ち過ぎた。長野とて万能ではない。むしろ、山内上杉が崩れ始めてからの成り上がりと見られることも少なくない。そんな中、彼は最善を尽くした。

 山内上杉になびく者を見極め、なびかぬ者へ情報を漏らさなかったのだ。

 十二分な戦果である。これ以上、望むべくもない。

「我ら坂東武士の誇りを示せ!」

「応!」

 ここからが戦争の始まり、である。


     ○


 そう、

「山ごと焼け。男は殺し、女子どもは人買いへ売れ!」

 ここからが長尾景虎の戦の始まり。

「奪い尽くした後、田畑を引っ繰り返し再起出来ぬようにせよ!」

 景虎が踏みつけるは、北条へついた誇り高き坂東武士の、首。

「見せしめだ。全て、滅ぼせェ!」

 首級を足蹴に高らかと笑う景虎。

 燃ゆる世界。略奪に駆け回り、凌辱の限りを尽くし、全てを破壊し尽くす。もはやこれは、戦と呼べるような代物ではなかった。

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