第佰陸拾玖話:関東遠征前夜
春日山出立前日、湊に僧とめしいの童がいた。
それを見送るため、
「よう晴れておるな。旅立つには良い日だ」
「あっ」
女装をした長尾景虎が現れた。声のした方へ顔を向ける童の名は、さる者の名跡を受け継ぎ小島弥太郎。疱瘡により視力を失った童である。
「来て下さったのですね」
「うむ。梅の奴の代わりに、の」
「梅様は?」
「以前伝えたように上野国の家人に連れ去られたままだ。まあ、故郷の水の方が病にはよかろう、と言うことでな。便りこそないが、健勝でやっておろう」
景虎は嘘をつらつらと語る。嘘を嘘と思わせぬ流れるような理由付け。この童は聡い。めしいゆえか言葉の端々から色々と読み取ってしまう。
だから、全力で嘘をつくのだ。
顔に微笑みを貼りつけたまま。
「……」
それでも、少しばかり引っ掛かりはあるようだが――
「あれは野を駆け山を走り回る女だ。心配せずとも病なぞ吹き飛ばしておる。それよりもあれから少しは腕を上げたか? ん?」
景虎は話を彼女から、彼自身のことへとすり替える。
「……が、頑張っております」
弥太郎は自らが背負う琵琶を撫で、少し自信なさげな表情を浮かべる。
「ぶはは。これからはそれが飯のタネだ。必死に修練せよ。世の中、如何なる者であろうと楽には生きておらん。わかるな?」
「……はい!」
「なら良い」
景虎は彼女の代わりに、彼の頭を撫でてやる。
「すまぬな。本当ならば俺が手元で育ててやりたいが、これから少し立て込んでおってのぉ。俺は春日山を不在にすることが多くなる。梅もおらぬし、林泉寺のつまらぬ坊主どもと一緒におるより、京の僧の方が良いと思ってな」
「……」
京の当道座へ案内を買って出た僧は顔をしかめる。つい昔の癖で「こら!」と声を出しそうになったが、一応女装しているとはいえ『御実城様』である。
何とか押し留める。
「連中は俗物ばかり。遊びを教えてもらえ、ぶははは!」
「「……」」
弥太郎は笑うべきかどうか迷い、僧はため息を重ねる。
「御実、とら様。そろそろ」
「おお。そうだな。船に乗り遅れては意味がない」
彼らはこれから海路で越前へ、琵琶湖沿いを下り朽木を通って京へ赴く。かつて景虎が辿った上洛ルートである。景虎と、あの時は小島梅太郎もいたか。
もう、随分と前のように感じる。
「とら様。何のゆかりもないわたしを助けていただきありがとうございました。本当に感謝しております。この御恩はいずれ、必ずや――」
「いらぬ。俺もあやつも、お返しが欲しかったわけではない。いや、もう貰っておるな。子を失ったあやつにはぬしとの日々、救いであっただろう。俺も子がおらぬ身、新鮮であったよ。楽しかったとも。ゆえ、恩など感じずとも良い」
「そ、それでは――」
「ただ、そうさな。もし恩と感ずるのなら、長く生きよ。楽しく生きよ。それが俺の、梅の、一番の望みだ。叶えてくれるか?」
「……かな、らずや」
涙ぐむ弥太郎を、優しく、父のように抱く景虎。
「小島の名跡はの、あやつが越後へ来た時に名乗ったものだ。日が浅く、何の価値もない。あやつが実家に戻った今、名乗る者は絶える。ぬしも出家すれば名を変えねばならぬしの。だからまあ、旅の間だけは背負ってやってくれ」
ただ、上洛へくっついていくためだけに名乗った嘘の名前。それでもそれは、彼らを、梅と弥太郎を、そして景虎をも繋ぐ名であった。
「名を、捨てたく、ありません」
「その気持ちだけで充分。達者での、小島弥太郎」
「……はい」
「俺の名は長尾平三景虎。これもまた消える名だが覚えておいてくれ。あやつの、小島梅と共に、な」
「なが、お」
「ただの名だ。ぶはははは!」
最後に思い切り弥太郎の頭を撫でまわし、景虎は彼の背を押す。そして旧知の僧へ目配せし「頼む」と意思を伝える。彼もまた「承った」と視線で応えた。
ほんの僅かな時間を共に過ごしただけ。まどろみの中で見た夢のようなもの。
それを景虎は見送る。
幾度も振り返り、頭を下げ感謝を伝える弥太郎の姿を――見送る。
これで、夢の時間は終わった。
「ままごとは終わりましたか?」
「ああ。今、終わった」
背後に、影のように現れる直江実綱。
「皆様、お待ちです」
「山内殿は?」
「今、他の者が呼びに行っております」
「そうか」
出港した船へ背中を向け、実綱へ向ける眼は――
「行くぞ」
「はっ」
全てを見下ろすような冷たいものであった。
○
「はいはい、今行きますよ」
釣り具を片付け、何とも言えぬ表情を浮かべる山内上杉家当主、上杉憲当。越後での日々は実に楽しいものであった。周囲では争いが絶えなかったのは理解しているが、それはそれとして春日山には静謐があり、平穏な生活があった。
板鼻では傀儡として幼少期から自由はなく、家臣らの言うがまま、成されるがまま、の空虚な生活を送っていた彼にとって、景虎によって与えられた自由は、染みるように彼の価値観を大きく変えた。
もう、関東へ戻りたいとは思わない。
正直に言えば、重荷でしかなかった関東管領山内上杉の名跡も、目の前の海へ放り投げて趣味と実益を兼ねた釣りに勤しみたい。
だが、それは許されないのだ。
「……名を授けてなお、私はこの血から逃れることは出来ぬのであろうなぁ」
今回の戦、総大将は長尾景虎ではない。
この上杉憲当である。
関東管領と言う建前を掲げ、室町から認められた英傑たる長尾景虎が辣腕を振るう。ある意味また傀儡に逆戻り、と言うわけであった。
まあ、それも今回で最後となるだろうが。
算段は全て整っている。彼がこの地へ訪れた時から、こうなることは決まっていたのだ。別に惜しいものでもない。
むしろ、捨てられるのならすぐにでも捨ててしまいたい。
捨てたところで、血は残るのだが――
○
「――直江与兵衛尉を検見に任ずる」
「謹んでお役目承りまする」
直江与兵衛尉実綱の検見(監視役)任命。それに関して周囲が驚くことはなかった。ここまで名が出ていなかった以上、こうなるのは予想出来ていたから。
ちなみに検見とは国主景虎の留守を預かる留守居の監視役である。留守居が妙なことをしないか、反乱の芽はないか、それらを見極め時に留守居を裁く必要もある。つまるところ、留守を預かる者の最上位である留守居より、さらに上。
彼の他に検見は二名選ばれたが、いずれも直江よりも下であり、彼が検見を取りまとめる筆頭であることは疑いがない。
景虎からの信頼が窺える差配である。
(妥当であろうなぁ)
(それよりも)
(ああ。これは、御実城様は何を考えておられるのか)
(彼は現場に出てこそだろうに)
問題は、留守居の選定にあった。
越後が誇る猛将、柿崎景家が五名の内の一人に選ばれていたのだ。今回の関東遠征から外された形。皆が、本人すらも驚愕の人事であった。
盟友、斎藤朝信もまた未だに信じられないと言った表情を浮かべている。
同じく留守居に選ばれた長尾政景もその差配については疑問がある様子。それだけ越後の武士ならば誰でも知っているのだ。
柿崎景家の真っ直ぐな強さを。
(それに――)
と言っても留守居は大役、ある意味で信頼の証とも言える。そう言う意味では柿崎が選ばれて、序列を飛ばされて選ばれなかった者の方が、
(――宇佐美殿、か)
問題である、のかもしれない。
顔を伏せる老人の表情は誰にも窺い知ることはない。が、今回の人事でわかったことは一つ。宇佐美定満を戦列から、そして内政からも外す、と言うことだけ。
景虎擁立の立役者が一角、大熊、直江と共に厚い信頼があると目されてきたが、今回の件で明確に一線から外された、と見受けられた。
老齢故、仕方がない面はある。
関東遠征、越山する以上それなりに体力が求められるのは必定。ある意味景虎なりの恩情、とも取れるのだが――
「皆の衆、此度は大戦である。関東の諸侯も多くが協力する、と文を返してきた。山内殿に置かれては随分とお待たせしてしまったが、いよいよ時が来た。今こそ『義』を掲げ、越山の時。越後が武士の威、存分に示せィ!」
「応ッ!」
景虎の一喝で全ての迷いが吹き飛び、士気が跳ね上がる。戦が始まるのだ。越後の者が経験したことがないほどの、巨大な戦が。
関東遠征の布陣が固まる。多少ならざる、しこりを残して。
○
出陣前の宴。皆が景気づけで騒ぐ中、
「……」
景虎は一人梅干しを味わい、その塩味で酒を流し込む。健康に大層悪い飲酒方法であるが、文が去り、梅が去り、止める者は誰もいなくなってしまった。
止めようとする者はいるにはいるのだが――
「御実城様、少々よろしいでしょうか?」
「これはこれは姫様。どうされましたかな?」
柱の影から見守る者を尻目に、五摂家が筆頭近衛家の姫、近衛絶が景虎の前に座る。その姿勢は、公家の姫君のそれとは思えぬほど芯が通っていた。
「梅様の事、伺いました」
「……如何に姫様であっても、触れてはならぬこともありましょう。ここは京ではなく、越後なのですぞ」
景虎は諭すように、苦言を呈する。踏み込むな、と。
「お二人が深い関係にあったことは承知致しました。その絆に、敵うべくもありませぬ。ゆえにもう、婚姻は諦めます。所詮はただの幼き日の憧れ。それも一方的な想いでしかありませぬ。どうして私如きに踏み込めましょうか」
「……姫様は近衛だ。それを振りかざせば、俺は否と言えませぬがな」
「それは愛ではないでしょう?」
「……さあ。俺にはよくわかりませぬな」
兄妹揃って真っ直ぐな眼。今の景虎には眩しく、刺すように映る。
「で、何用でございますか?」
「梅様の件を持ち出したのは、一度目の上洛の折、彼女を男装させていた前例を、どうか私にも適用して頂きたい、と願い出るためです」
「……どういう、ことですか?」
「私を男児として、戦場に連れて行っていただきたい」
「……何を、馬鹿なことを」
「本気です」
さすがの景虎も驚き、目を見張る。彼女は五摂家が筆頭、近衛家の姫君なのだ。公家の良血、日の本における帝に次ぐ権威が彼女の身体に血として流れている。
そんな彼女を戦場に連れて行くなど、出来るはずがない。
「腕前を示す必要があれば、今一度我が剣ご覧頂きたく存じます」
「戦の腕と剣の腕は異なります」
「弓、槍、いずれも剣に劣らぬほど仕上げておりまする」
半端な覚悟ではないのだろう。そもそもそれは剣を見た時に理解している。あれは明らかに女人の嗜みの域を超えていた。
そうでなければ大の大人である男を蹴散らすことなど出来ない。
「……近衛殿は何と?」
「兄上には文を送り、了承頂きました。静謐がため、存分に腕を振るえ、と」
「……」
この妹にしてあの兄あり、と言うべきか。もっとも格式張っているはずの、形式に囚われた公家からどうしてここまでぶっ飛んだ兄妹が生まれ出でたのか、父親を見るにそれほど規格外とは思えなかったものだが、とにかく常識に収まらない。
「死ぬかもしれませぬぞ?」
「覚悟の上です」
「覚悟の上、か。ぶは、ようほざいたな、小娘ェ」
獰猛な獣が、彼女の眼を見据える。鋭い、殺気のようなもの。得も言われぬ圧力に、絶は背中に汗をかきながら、それでも目をそらさずに目を合わせ続けた。
時間にして数秒。彼女にとっては半刻、一刻にも感じられたが――
「……持之介」
「は、はい!」
柱の影より現れる甘粕景持に、
「この者、ぬしが世話をせよ。使えぬのであれば野に捨て置け」
「は、え、ちょ、それは――」
「やったー!」
「名は二人で適当に考えておけ。俺は末端のことなど知らん」
「感謝いたします、御実城様」
「感謝される謂れはない」
絶は一礼し、甘粕を引きずってこの場を去っていった。その力強い後ろ姿をちらりと横目に、景虎は酒を呷る。
かつて姉が望み、夢破れた、まさに夢物語。女が戦場に立つ。それはこの時代において、また現代においてすら、ありえない、あってはならない組み合わせ。
階級分けとは意味が違う。性別による身体能力の差異は絶対的。身体を用い、競う以上、その絶対的な差は数字に表れている。
そこに一人の愚か者が挑もうと言うのだ。
「ふっ。馬鹿のせいで……少し酔うたか」
最近、どれだけ飲んでも味すらしなかった酒が、急に頭に回った気がした。それが良いことなのか、悪いことなのか、それは景虎にはわからないが。
「……ぬしのせいで近衛の血を逃したわ。阿呆が」
酒を捨て、立ち上がった景虎は自室へ向かう。彼女のせいで誰かを思い出してしまったから。男装だろうが何でも似合う、美しい大馬鹿を、想う。
酒の味を思い出した。
だから、捨てた。飲んで、染みて、傷が痛むのが、耐えられないから。
○
永禄三年八月末、長尾景虎は春日山を発つ。『海道一の弓取り』今川義元が崩れた報せが越後に届き、まだふた月ほど。
その短い時間で軍勢を整え、出陣してのけたのだ。
この衝撃が冷めやらぬ前に――関東に食い込む。
九月上旬、長尾景虎は越山し、
「沼田の守りは?」
「北条孫次郎なる者、と」
「北条か。さすが新参。誰にでも名を与えるようだな」
「そのようで。如何致しますか?」
「決まっておる」
沼田を含む国境線の三城攻略に取り掛かる。
関東遠征の始まり。
「蹂躙だァ!」
越後より、災い来る。
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