第佰漆拾伍話:龍虎まみえる
上杉政虎の関東遠征。これに対する周辺諸国の反応は様々であった。と言うよりも様々となった、が正しい。
小田原包囲まではやり方に問題はあれど、これ以上ない戦果であり越後、越中、信濃の狭い範囲でしか戦っていなかった長尾景虎(当時)の名を世に知らしめることとなる。だが、問題はその後。そこまで攻め上がっているにもかかわらず包囲を解き、鎌倉入りした後に越後へ戻っていった。
ここは大いに疑問点であろう。
「何を考えているのだ?」
「わからぬ」
「理解出来ぬよ」
理解出来ぬと首を振る者もいれば、
「自らの領地を守るは国主が務め。当然のことであろう」
「なれば何故、関東管領を継いだのだ?」
「所詮一国が器か」
国主の務め、春日山を最優先したのだろうと見る者もいて、
「北条にはいつでも勝てる。次は武田と言うことなのだろう。さすがは毘沙門天の化身、まさに軍神と呼ぶにふさわしい御方だ!」
稀に、極稀に何故か感動でむせび泣くほどの者もいた。
ちなみにこの男、昨年奇跡の大金星をあげた織田信長である。常日頃から信心深いとされる長尾景虎に同調し、勝手に彼を尊敬していたのだ。
関東管領山内上杉を匿い、信濃守護の小笠原や村上のため信濃へ赴くなどの『義』を感じる部分も信長ポイントの高いところである。
そんな彼からすると、様々な疑問点も吹き飛んでしまうのだろう。
信者一歩手前、半歩手前と言う所か。
「そうだ、文を送ろう!」
信長は天啓を得た、とばかりに満面の笑みを浮かべた。気分は憧れの人に出す恋文のようなもの。今までは自分如きじゃ釣り合わぬよな、と尻込みしていたが、ここ最近の快進撃のおかげでちょっぴり自信もついた。
今ならばへりくだればやり取りしても大丈夫じゃないか。あの今川義元を倒したのだから一目は置いてくれている気がする、たぶん。
そんな気分であった。
ちなみに信長と政虎の文のやり取りはそれなりに残されている。基本は政虎を目上とした形であり、のちに敵対するまでは尊敬する相手ではあったのだろう。
「のお、又左よ。この文面失礼じゃないかの?」
「大丈夫ですよ、殿」
「ううむ。やはり失礼な気が……書き直しじゃ!」
「……」
イケイケどんどん、尾張の王として君臨する織田信長とは思えぬ態度であるが、これまた様々な資料で彼が旧来の伝統や格式を重んずる人間であることは散見されており、むしろ革新的なパブリックイメージとの齟齬が近年取り上げられている。
どちらかと言えば柔軟な思考を持つ保守派、のような感じである。
そんな感じの織田信長であったが、つい先日目の上のタンコブであり養父の斎藤道三から美濃国主の座を奪い取った斎藤義龍が病死するなど、風が吹きやむことはなかった。まるでこの男に天へ駆け上がれと、何者かが導いているかのような状況。
東の今川は間に松平が入ることで介入できなくなり、北を抑えていた美濃は若くして当主が亡くなり混乱の最中、国内の諸問題を潰す余裕も出てきた。
風が吹いている。男を天下へと押し上げようとする何かが――
○
上杉政虎と名を改めた男は越後春日山へ帰還する。すでに備えるよう伝えていたため、返す刀ですぐさま信濃へ向かう予定であるが――
「よくぞ戻られたな、長尾殿、いや、上杉殿!」
「ご無沙汰しております、近衛殿」
少し前に越後へ下向していた近衛前嗣が彼を出迎えた。現職の関白でありながら京から出て畿内どころか辺境扱いの越後にまで来るとは、やはり公家としては型破りな男である。常識が通じない、とも言えるが。
「私も名を変えたぞ!」
「……はい?」
「近衛前久と名を改めた。花押もほれ、この通り武家式のものだ!」
「……何故ですか?」
「小田原の件、無念であっただろう。国主として、関東管領として、板挟みになったのは想像に難くない」
「……」
政虎としては端から攻め切る気がなく、遊びに行って帰ってきたぐらいの気持ちであるのだが、前久はどうやら全く別の心情を想像しているようである。まあ、今の政虎の感情を読み取れと言う方が難しいだろうが。
「ゆえに私が関東を見るぞ。古河城へ入り、古河殿を補佐する。さすれば上杉殿の負担も減ろう。武田を下し、堂々舞い戻ればよい」
「……は、はは」
「何を笑う? 私は本気だぞ」
「いえ、失敬。さすがは近衛殿、と思いましてな」
今回の関東遠征、備えが万全であったこともあり何一つ、政虎にとって不測の事態は起きなかった。どうしようもない局面であったとはいえ、氏康には拍子抜けした部分もある。今回のことで多少は発奮してくれたら楽しめるのだが。
ただ、この兄妹は本当に、何一つ想像に収まってくれない。
それが本当に面白くて、笑みが零れてしまったのだ。
「では、お任せいたします」
「うむ。任せよ。そなたなら甲斐の虎とて余裕であろう」
「……さて、どうでしょうか」
政虎はその部分を明言しなかった。今回の戦は今までとは異なる。王手をかけた関東から手を引いて事に当たるのだ。それなりの規模になる。武田も海津城に手をかけ、こちらを挑発してきた以上、備えは万全であるのだろう。
おそらく、激戦となる。久方ぶりの。
政虎は願う。想像を超えてくれ、と。勝ち負けなどどうでもいい。むしろ思いっ切り負けてみたいとすら思う。今川義元亡き後、楽しみはもう二人しか残っていないのだ。北条氏康はこれから楽しむ。
武田信玄は――
(やろうか。存分に)
今、この時。
これ以上ない舞台が整ったのだ。雌雄を決するは、まさに今。
○
永禄四年八月半ば、上杉政虎は春日山を発つ。
率いるは越後や信濃から押し出された者たち、合わせて一万三千(補給部隊を除く)。先の十万からは随分スケールダウンして見えるが、あれはほぼ関東の兵士であり、ほぼ越後の兵で構築されている軍勢としては最大規模である。
総大将は上杉政虎。柿崎景家や斎藤朝信、揚北衆ら兵を出せるところからは全て搾り取った。補給部隊(小荷駄隊)を率いる兵糧奉行として直江実綱もまた出陣し、留守居は上田長尾の長尾政景に一任している。本拠の守りはほぼ上田衆。
まさに越後の総戦力である。
彼らは蝙蝠のように陣営を変える善光寺を通過し(現在は上杉方)、そのまま南下し、あの上杉政虎率いる大戦力を前に即座に戦意を喪失した横田城が開城、これまた通過していく。柿崎らはその間常に渋い顔を続けていた。
柿崎だけではなく、他の将兵も。それどころか直江実綱すら評定の場で政虎に真意を問うたほど、今回の策は常軌を逸していたのだ。
彼らの雰囲気は、足軽こそいつもの様子であったが、上の立場となればなるほどに表情は暗く、大丈夫か、と言った感じであった。
政虎はいつもの如く超然と笑みを浮かべている。
絶対の自信と共に。
そして軍勢は一路、妻女山と呼ばれる場所に到達し、其処へ陣を敷くこととなった。そう、山の頂上へ。地の利は得た。海津城は目の前。近辺の複合城塞群へ楔を打ち込んだ形となる。だが、諸侯の顔に喜色はない。
それも当然であろう。海津城攻略に関しては最高の立地であるが、険しい山の頂上に布陣したため逃げ場がない。兵を登らせるのも一苦労だった程、下らせるのも当然苦労する。敵がそれを見逃してくれるわけがない。
何しろ敵中深くまで切り込んだ形。楔となると言うことは、裏を返せば包囲されているとも取れる。
ひとたび劣勢となれば、その瞬間絶体絶命の窮地となるのだ。加えて政虎信者の実綱が苦言を呈しただけあって、補給線の問題もある。深く踏み込んだ以上、本国からの補給線は伸びに伸び、陣が山頂にあるため持っていくのも一苦労。
この状況で一万三千の兵を食わせ続けるのは容易いことではない。
狙うは短期決戦。誰もがそう思った。
しかし――
「御実城様。海津城に詰めているはずの軍勢が見えません」
「ほう」
政虎はその報せを聞き、北西へ視線を向けながら笑みを深めた。海津城にいるはずの軍勢、されどあの男なら、そう動く。
その確信が政虎の眼をぎらつかせた。
「来たな、晴信」
様々な意味を含め、その言葉を甲斐の虎へと捧げる。
○
戦が噛み合った。その感触に武田信玄もまた笑みを浮かべていた。
「……本当に、妻女山へ布陣した」
「信じられん」
「どう考えても悪手であろうに」
「補給もままならんぞ」
家臣らが口々にそう語る中、信玄だけは彼の意図を感じ取る。ようやく、得体のしれぬ怪物の尻尾を掴んだ気がする。
同じ地平に至った。
「来たぜ、景虎ァ」
武田信玄の耳にも当然、彼が上杉『政虎』となったことは耳に入っている。それでも彼はあえて政虎のことを以前の名で呼んだ。
名など意味はない。お互い、すでに統治のために名を捨てた身。
戦場が広く、遠く見える。俯瞰した状況、今までよりも広く、深く、そうしてようやくわかった。彼はずっと、そこで誰かを待ち続けていたのだ。
戦場と言う名の遊び場、遊戯、盤を挟み二人は対峙する。
「その手は、咎めさせてもらうぜ」
自身が築き上げた地へ、大きく踏み込んだ政虎の後背に、信玄は黒石を打ち込む。彼の進撃を、遠間で殺すための一手。彼ならば踏み込むだろう、と読んだ手であった。それは政虎の踏み込みに対し、痛烈な一手となる。
武田信玄は今、海津城ではなく妻女山からかなり離れた茶臼山に陣を敷いていた。そこは補給地点である横田城と、妻女山のどちらも見られる位置にあった。
補給線と言う命綱を断つ一手。
まだ互いに陣を敷いただけだが、すでに戦は始まっていた。
これが世に言う第四次川中島の戦いであり、武田信玄と上杉謙信、二人の英雄を騙る物語に欠かせぬターニングポイントである。
ここでの結果が、両家の運命を分かつこととなるのだから――
龍虎、並び立つ。
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