第佰陸拾肆話:天災

「……」

 今川義元が立ち上がる。たかが雨、陣地防衛のために用意した鉄砲が使えぬのは少々勿体ないが、さりとてこんなもので勝敗が揺らぐわけでもなし。

 ただ、彼が気になったのは――

「大殿?」

「風向きが、変わった」

 自らの顔に吹き始めた風。まだ東の空には晴れ間も見えると言うのに、天には分厚い曇天が空を塞ぐ。奇妙な天気である。このような空模様、見たことがない。

「……向かい風」

 一陣の風が、義元の正面に吹き荒ぶ。

 雨脚が、風が、異常なほど強まって来た。

「全軍、警か――」

 稲光が、今川軍の後背に落ち、義元の声をかき消す。それと同時に滝のような雨が、今川軍の方へ押し寄せてきた。

 突然の豪雨、風向きの変化、義元をして天変地異を前には後手を踏む。

 風が、押し寄せる。

 『海道一の弓取り』今川義元の方へ、逆風が来た。


     ○


「お、大嵐ぞ!」

「こりゃあたまらん!」

 織田の陣中も突然の嵐に混乱していた。荒れ狂う天、ただ彼らは呆気にとられ、身を縮めるしかない。先ほどまで晴れていたのに、突如として到来した大嵐。神罰もかくや、末端の兵も、陣中も、ただただ天の力を前に慄くしかなかった。

 誰かが、

「神風じゃァ!」

 そう叫ぶまでは。

「何だ、よう聞こえんぞ」

「今、神風と」

 呆けていた織田信長は目を見開く。いつの間にか風向きが変わり、嵐は今川へ押し寄せ、自分たちの背を押すものとなっていた。

 さらに声が、雨音を割き陣中にまで届く。

「蒙古合戦の折、日の本を救った風が吹いたぞ!」

 良く通る声であった。

 信長は震える。出陣の際、死の覚悟と共に熱田神宮で敦盛を舞った。戦勝祈願、藁にも縋る思いであった。それが、天に届いたのだと信長は解釈する。

 神に選ばれたのだと、『理解』する。

「神風、そうじゃ、これは神風じゃ!」

「お、大殿!?」

「八百万の神が、織田に勝てと言っておるのだ!」

 その信長の言葉と同時に、

「神が今川を討てと言っておるぞ!」

 何者かの声が、突然の嵐に意味を与えた。混乱するばかりであった軍。特に不測の事態において一番制御が難しい末端の足軽ら。

 そこに謎の声が理屈を与えた。

「全軍、出陣じゃ!」

「御意!」

 迷うことなどあるものか。織田信長は自らも槍を手に、全速力で走り出す。信長の側近たちは、こうなった信長が止まらぬことを知っている。

 ゆえに、彼らも迷いなく各々槍を、太刀を握り締め駆け出した。

「時は来た! 神風と共に、いざ進めェ!」

 織田軍が、嵐を、信仰を背にして動き出す。


     ○


 尋常ならざる暴風雨であった。石水(雹)まで混じる始末。それが正面から吹き荒ぶのだから、もはやまともに目を開けることすら出来ない。

 視界は雨風に遮られ、一寸先すら見通せぬ。

 このような状況ではとても戦いになどならない。誰もが目を細めていた。目を瞑る者、石水の痛みから背を向ける者もいた。

 指揮系統などあってないようなもの。早く嵐よ過ぎ去ってくれ。

 そう皆が願う中、

「掛かれ!」

 今川の陣地に織田軍が飛び込んできた。その勢いは嵐の如く、吹き荒ぶ風を背に、勢いそのままに、ほんの少し前までは隙一つなかった、堅牢なる今川の陣に織田軍が雪崩れ込む。本来であれば近接すら許さぬはずの陣形。戦の序盤を支える弓手が前線に並ぶも、視界不良の嵐の中で弓手は機能しなかった。

 緻密な軍、役割分担が明確であり、弓手に迫られたなら槍手が前に出て応戦する。今川軍の強さの秘訣である練兵による細やかな戦術、それが仇となった。弓手は近接戦の備えを欠き、入れ替わる役割を担った槍手が気づいた頃には――

「進め!」

「織田ァ!」

 時すでに遅し。

 地の利も、緻密な兵法も、天の前では無力。

 天を味方につけた織田軍は、起死回生の突撃に全てを注ぐ。

「大殿!織田が来ました!」

「見えていますよ」

「おお、との」

 長年轡を共にした家臣すら見たことがない表情。今川義元は見えていると言いながら、下で繰り広げられる攻防ではなく天に目を向けていた。

 まるでそこに、仇敵がいるかのような怒りの眼を。

「この地を放棄します」

「し、しかし!」

「急ぎなさい」

「は、はい!」

 珍しく有無を言わせぬ口調で、義元は命令を飛ばした。自分が天に嫌われているのか、それとも織田が天に愛されているのか、はたまた両方か。

 どちらにせよ、これほど不愉快なことはない。

(普段、気配すら見せずに、人の世を睥睨するだけの天が、ふふ、時折こうして牙を剥く。その気まぐれさが……私は嫌いです)

 絶対に負けてやるものか、と義元は強い想いを抱く。退いて、立て直し、迎え撃つ。いくらでもやり直せる。勝ち筋もある。

 奇跡は二度も起こらない。

 今日、ここで勝つ。義元はそう決めた。


     ○


 快勝であった。地の利を得た鉄壁の陣を喰い破り、織田軍は今川軍を打ち破った。まさにジャイアントキリング。鬨の声にも力が入る。

 しかも織田軍が攻め終わってすぐ、嘘のように嵐が過ぎ去ったのだ。これはもう騒ぐしかないだろう。まさに神の思し召し、である。

 そんな中、木下藤吉郎秀吉らの部隊も大賑わいであった。勝った、勝った、と周りと一緒に浮かれ倒す。

 そこへ、

「おお、この声だな」

「と、殿!」

 織田信長が現れる。藤吉郎らは一瞬で口を閉じ、すぐさま平伏する。足軽組頭と主君ではそれこそ天地の差がある。気まぐれ一つで命が消える。

「探したぞ。其の方、名は何と言う」

「き、木下藤吉郎秀吉と申します!」

「木下、ふむ、聞かぬ名だな。しかしよくぞあの嵐の中、声を張り上げてくれた。あれが無ければ今頃、昨日までと変わらぬ絶望が眼前に聳えていたことであろう」

「も、勿体無き御言葉!」

 そう、あの時神風だと騒ぎ立てたのは、織田軍の末端も末端、足軽組頭の藤吉郎であったのだ。絶対に勝てぬ状況、そこに天地が引っ繰り返った。

 ここでやらねば絶対に勝てない。

 そこで彼はそれらしいことを並べ、皆をペテンに嵌めたのだ。

「そなたの言う通り。あれはまさに神の意志そのものであったのだろう。私は感動している。だが、そなたがおらねばそれを汲み取ることも出来なかった。改めて礼を言うぞ、藤吉郎よ。そなたの気づきが、我らを生かしたのだ」

「か、過分な評価にございます!」

 信長の言葉に、藤吉郎は地に伏せながら疑問符を浮かべる。てっきり褒められるのであれば、皆を騙した機転を褒められると思っていたのだが、どうやらこの信長なる男、本気であれを神風だと思っているらしい。

 良く呼応してくれた。聡明な主君だ、と思っていた評価を少しだけ改める。

「そこで聞きたい。そなたならここから、どう捌く?」

「殿、そのような者に問う必要は――」

「私は藤吉郎と話しておるのだ」

「ぬぅ」

 林秀貞は顔を歪め、一歩退く。

「どうじゃ?」

 藤吉郎はかすかに顔を上げ、信長以外をちらりと窺う。宿老林は難色、他の者のこちらへの印象も、よくはないだろう。

 だが、これは折角得た好機でもある。

 藤吉郎は心の中で賽を振り、押すか引くかを決めた。

「僭越ながら……迷わず追撃の一手かと」

「敵方ほどではないが我が軍も混乱しておる。すぐさま追撃と言っても、軍としての機能を取り戻すには今しばらくの時間が必要であろう」

「はい。その上で、です」

「ほう。小僧、軍を割れと申すか」

 ずい、と柴田勝家が威圧するように藤吉郎の前に進み出る。これがあの猛将、柴田勝家か、と藤吉郎は背中に汗をかく。

 見て目よりもこの男、頭も切れる。

「はっ」

「どういうことだ、権六よ」

「今動かせる兵で追撃せよ、と言うことかと」

「柴田殿。それでは別動隊に死ねと言うようなもの。如何に押し勝ったとは言え、兵の総数では未だあちらが上。寡兵で攻めたところで返り討ちとなるだけ」

「敵の本隊を狙えば、林殿の言う通りとなるでしょうな。ゆえに、この小僧の狙いは本隊以外の、敗走する軍勢をかき乱し、兵の合流を極力阻止する。同時にこちらの本隊を立て直し、兵数が揃わぬ内に決戦。この両面作戦かと」

「む、むう」

 藤吉郎は肯定も否定もせず、ただ頭を下げ続けた。沈黙は金、ここで口を挟めば宿老の機嫌をこれ以上損ねることとなる。

 どちらにせよ、同格である猛将柴田が肯定的な雰囲気を示した以上、この献策は成るだろう。これでまた、わずかに勝率が上がった。

 まあ、それでも必勝には程遠いが。

「うむ。それで行こう!」

「では、某が別動隊を率い――」

「私がやる」

「「……は?」」

 柴田と木下、二人の素っ頓狂な声が重なる。

「本隊はそなたらに任せたぞ、権六、新五郎」

「い、いえ、それは――」

「勝負を分ける重要な役目、私がやらねば誰がやる!」

 柴田、林、他の者たちも顔を歪めながら、抗弁はしなかった。彼らは知っているのだ。こうなった信長は、止められないのだと。

(ど、どういう男だ、織田弾正忠と言う男は。敵が敵ゆえ本隊も危険だが、それ以上に敵がどう散らばっているかもわからない場所を、寡兵で突き進む別動隊の方が圧倒的に危険だと言うのに。しかも誰も抗弁せぬときた)

 本気で、最前線の先に進む気なのだ。一国の国主が。

 なるほど、

(……神頼みのお坊ちゃんかと思えば、この肝の太さ……面白いかもしれぬな)

 ただの武士でないことは間違いない。

 藤吉郎は自らの主君を、面白い男だと心の中で評価した。つい先ほどまでは織田を選んだ後悔に苛まれていたが、存外悪くないかもしれない。

 少なくとも、退屈はない。

 それは今、

「では参るぞ!」

「殿!」

 確信に変わった。

 織田の当主自らが槍を握り締め、潰れ役として動き出した。

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