第佰陸拾伍話:この戦場の片隅に

 木下藤吉郎には自信があった。口八丁手八丁、下手に出ていようが男が裸一貫で成り上がろう、と言う野心を持つのだ。当然、己の考えには自信がある。

 ひねり出した策、咄嗟に問われたにしては上手く返した、と我ながら思っていた。どう転ぶにせよ勝つならあそこは押し一択。

 その考えに変わりはない。

 だが――

(さすが、海道一の弓取りか!)

 ここまでの立て直しの早さは想定していなかった。大軍の統制には時がいる。一度崩れた軍は容易く元に戻らない。だからこそ、藤吉郎はここで押せと織田軍の背を押すようなことを言ったのだ。ここで押せば勝てると思ったから。

 ここで押さねば勝つのは不可能と感じていたから。

「掛かれッ!」

「応ッ!」

 織田軍宿老、柴田勝家も死に物狂いで前線を張る。巷では掛かれ柴田、と呼ばれるほどの猛将である彼ならば、ここで勝ち切らねば先がないことぐらいはわかっているだろう。だからこそ、あの立場で兵を率い最前線に立つのだ。

「受けて立つ!」

「来い、織田!」

 問題は今川の兵が立ち直り、士気高くこちらを迎え撃ってきたこと。体勢不十分な背を突くつもりが、がっぷり四つで組み合っているのだ。

 織田にとっては想定外。

 しかも現状、先の神風によって敗走し離散した今川本隊の兵数は織田よりも少なく見える。そこだけ見れば好機なのだが、ここで織田が使うつもりであった地形を、今川軍に使われていたのだ。隘路、狭い道に織田を誘い込み、そこでの決戦を強制した。織田を生かすはずだった地形が、今川を生かす。

 さらに付け加えるのであれば、

「また会ったな、柴田殿!」

「ぬう、この槍の冴え、酒井殿か!」

「如何にも!」

 織田も柴田ら猛将を最前線に持ってきて、この戦いに臨んでいるが、今川も前線を張る武士は精鋭を用意していた。それも、周辺諸国にその名を轟かす強者であり厄介者集団、三河武士が中心である。

 今、柴田と向かい合って打ち合う武士もまたその内の一人。

「今日も勝たせて頂く!」

「ほざけ!」

 後の徳川四天王筆頭、酒井忠次。振るう槍は『甕通槍』。甕、かめごと突き貫く逸話を持つ槍であり、その使い手もまた超一流ともなれば柴田でなくとも顔が歪む。

 つい数年前、柴田にとっては苦杯を飲まされた相手、嫌でも力が入る。

 さらにさらに――

「出過ぎだぞ! 鍋之助!」

「俺ァ平八郎だ!」

 若い、若過ぎる武士が最前線で躍動する。織田方の精鋭をバッタバッタとなぎ倒し、笑顔で、血まみれで戦場を謳歌する少年の名を、

「……ぬ」

「よそ見はいかんな、柴田殿!」

「何者だ、あの童は」

「本多平八郎、覚えておくと良い。いずれ名が響く」

「……であろうな」

 本多平八郎忠勝。徳川四天王、徳川三傑にも数えられる天下無双の勇士として後の世に名を馳せる武士である。先日元服したばかりの十三歳ながら、その体躯は大人と遜色なく、振るう槍の鋭さは明らかに他とは隔絶したものがあった。

 ただ、何よりも目を引くのはその立ち回りのしたたかさ。最前線にいながらも危うさがなく、この激戦でも傷一つなかった。

 今身にまとう血は全て、敵からの返り血である。

「……」

 奇襲するつもりだった織田を、三河武士を中心に今川はきっちり迎え撃った。その構図自体に引っ掛かりはない。三河はすでに今川の手に落ちている。

 だが、

「ここで三河武士が命を賭して何とする!」

「ふっ、さて、どうであろうな」

 三河武士が最前線を張るのは、柴田勝家の感覚として少し疑問符がつく部分ではあった。つい最近まで折を見ては今川に噛みつき、彼らを振り回していた狂犬のような連中である。そんな彼らが素直に、窮地で今川を支える。

 それこそ真っ先に逃げるか、噛みつき、今川を困らせる立ち回りこそが三河武士と言う生き物であったはず。それが今、今川へ忠を尽くしている。

 妙な話だとは思う。されど現実に彼らは今、ここで体を張っていた。

 隘路、迂回することの出来ぬ道に精強なる三河武士がずらり。もちろん、駿河や遠江の精鋭らも軒を連ねる。決して尾張の兵も弱くはない。内乱続き、皆それなりに場数は踏んでいる。されどそれは、三河武士も同じこと。

「さすがにしんどいのぉ。これが海道一の弓取りか」

「と、藤吉郎殿、もう、限界でござる」

「諦めよ。生きるか死ぬか、わしらは織田に張ったのだ。ならば、どんと生き、どんと死ぬまでよ! くはは、面白くなってきたわい!」

「……と、藤吉郎殿」

 苦境に立たされて、人の本性は透けて見える。藤吉郎の下で働く尾張中村の小一郎の目に、苦境で笑みを浮かべる男は輝いて見えた。

 決して武勇に優れるわけではない。だが、それでも強く映る。

 綺羅星の如く。

「生きて死ねェ!」

「応!」

 その輝きに、周囲も応える。


     ○


「……柴田殿は音に聞こえし猛将、さすがに酒井らでも一筋縄ではいかぬか」

 今川の本陣、馬印に赤鳥をたなびかせる御旗の下、そこに立つは海道一の弓取り、今川義元ではなく、若き松平元康であった。

「問題は……あちらの妙なの、か」

 松平元康の計算違いがあるとすれば、妙に士気の高い鎖の弱い部分であった。本来、兵法の常であるが弱いところから削る、弱いところから潰すのが基本である。酒井らが鎖の強い部分を受け持ち、他が弱い部分を砕く。

 それで片が付くと思っていたが、その弱い部分が妙に粘り強い。

「若様」

「誰だ、何があそこにおる?」

「若様!」

「ぬ、すまぬ。少し呆けていた」

 元康の前には彼を若様と慕う三河武士がいた。

「平八郎が突出しております。あれではいずれ討ち死にするでしょう。若様からも強く言ってくだされ」

「あれは放っておけ。殺しても死なぬさ」

 元康は部下を前に首を振り、雑念を消す。織田が容易い相手とは思っていない。織田家の全てを知るわけでもなく、隠れた名将でもいるのだろうと結論付けた。

 どちらにせよ、

「で、本題は?」

「これは失礼を。大殿がまとめられた兵が続々と戻ってきております。今は本陣の後ろで控えさせておりますが、如何致しましょうか」

「さすがは大殿だ。仕事が早い」

 この戦、今川が勝つのは揺らがぬのだから。

 元康は笑みを浮かべる。

「大回りさせるも良し、適宜兵を入れ替えるも良し、か。ふむ、迷いどころではあるな。隘路で兵の入れ替えも容易くはなかろうが、今川の戦でこれ以上、三河の武士を消耗するのも少し、な。さて、どうしたものか」

 すでに現状、自らの懐刀たちが躍動し、きっちり前線を支えてくれている。追撃の判断、そこの早さは見事であったが、決断の早さであれば義元の方が一枚も二枚も上。この本隊の拮抗が何よりもの証であろう。

 才あれど若き松平元康を義元不在の本隊を率いる大将に据え、自らは足を使い兵をまとめるために動き回る。この決断があの男には出来るのだ。

 しかも即決で。

「楽しそうですな」

「楽しいさ。多少の窮地からの勝ち戦だぞ?」

「確かに」

 天は織田に味方した。されど戦は人のするもの。結局は先を読み、最善手を放った方が勝つ。つまりは海道一の弓取り、今川義元が勝つ、と言うこと。

「案ずるな。いつか私が超えるさ。その頃には私が海道一の弓取りだ」

「……お待ちしております」

 部下は苦笑する。下剋上を誓う若者の目に、怒りも憎しみも無い。おそらくは実父を嵌めた男、不自然なタイミングによる病死は、義元の家督相続の時と被る。三河武士ならば皆、義元が主君を殺したのだと思っていた。

 だからこそ、ずっと荒れていたのだ。

 ただ、そういう負の感情は元康からは見受けられない。むしろ、まるで大きな壁を、父の背中を越えると宣言しているようで、複雑怪奇な関係性が見て取れる。

 おそらくは父の仇。そんな相手の下で育ち、父のように慕う男。

 歪であろう。三河武士の多くは快く思わない。されど、彼以外に三河をまとめられる人物が存在しないのもまた事実。

 されは先年、三河忩劇を取りまとめた手腕が証明している。

 だからこそ今、三河武士は最前線で命を賭しているのだ。

 他ならぬ松平元康が陣頭指揮を取っているから。


     ○


 少し時は遡り――

「私が本隊を、ですか?」

「ええ。頼みます」

 雨降りやまぬ時、敗走しながら今川義元は松平元康に大役を命じた。

「お歴々が納得するとは思えません」

「私の名で押し通してください。他ならぬそなたであれば、彼らもこの場では飲み込んでくれるでしょう。そなたは駿河の人間でもあるわけですから」

「……もしかして、三河武士を当てにしていますか?」

「それもあります」

 腹芸はなし。躊躇いなく腹を見せて来る義元に、

「大殿はこのまま退かれる、と言うことですか?」

 元康もまた包み隠さず、問う。

「まさか。私は今日、勝つつもりです。勝てる戦だと思っています。笑いますか?」

「いえ。私もそう思っていたので」

「素晴らしい。ならば、やはり私はそなたに任せたい。私はこれより部隊を率い、敗走する兵を取りまとめます。三国から集めた兵、寄せ集めの兵が天災で心を折られている。ならば、私自らが動くぐらいでなければ、心は取り戻せない」

「……危険ですよ」

「本隊ほどではありません。織田は強い。私や雪斎も難儀した相手です。しかも当代は尾張を統一した実力者。楽な相手ではありませんよ」

「私ならば勝ちます」

「それは頼もしい」

 義元は満面の笑みを浮かべる。完全に敵を上回り、相手を封じた盤石の態勢を、天が引っ繰り返し狼狽えてもいいはずなのに、この男は笑い飛ばすのだ。

 その強さ、忍耐、重さ、やはり勝てぬな、と元康は微笑む。

「では、勝ちましょうか」

「はっ!」

 そして二人は別れた。一方は織田の本隊を抑えるべく、すでに目を付けていた決戦の地を目指して。もう一方は離散した兵を少しでも多く戦線に復帰させるため。

 全ては今日の、勝利のために。


     ○


 そして時は戻り――

「も、申し訳ございませぬ!」

「頭を上げてください。田村殿」

「そ、某如きの名を」

「無論。覚えていますとも。私の家臣ではないですか」

「ふ、ふぐぅ!」

 より地に伏せ、嗚咽を漏らす家臣の肩に優しく触れる今川義元。

「私を支えてくれますか?」

「この、命に代えて!」

「ありがとう。そなたの忠義、私も胸に刻もう」

「勿体無き御言葉!」

 そして、落とす。また一つの集団を松平元康が粘っているであろう本陣へ帰参させる。先ほどからこの繰り返しである。今は十でも二十でも兵がいる局面。下々にとっては神同然である今川義元自らが足を運び、それを集める。

 大大名である義元が動く。これは敵も味方も想定外のことであろう。だからこそ、天災で心が折れた者たちも、義元を目の前に戦う意思を取り戻したのだ。

 否、戦前よりも彼らの士気は高い。

 義元がそうなるように言葉を、態度を尽くしたから。

 安いものであろう。勝つためならば。

「かなり戦場から離れましたな」

「そうですね。少々心もとないですがそろそろ戻るとしますか」

「はっ」

 思っていたよりも味方と遭遇せず、数は集められなかった。

 ただ、兵が戻る流れを作るのが大事なのだ。義元個人の手の届く範囲などたかが知れているが、流れさえ構築すれば人は勝手に流れていくもの。

 流れが人を集めてくれる。

(まあ、大丈夫でしょう)

 本来の三河の盟主たる松平元康があの地で三河武士を率い戦っているのであれば、それだけでも充分いい勝負となるであろう。何事も適材適所、もし雪斎が生きていれば義元は彼に任せたかもしれない。天災の動揺、それを落ち着かせるのであれば彼の持つ信仰、仏教の力も義元への畏敬と変わらぬ効力を発揮しただろう。

 まあ、彼はすでに亡く、自らが動くしかない時点でその『もし』はありえない。

 ただ、間違いなく――

「足音?」

「かなり多いですね。これは竹千代によい手土産と――」

 五年前に死んだ雪斎が生きていれば、今日この日空前絶後の大嵐が舞い降りていなければ、今川義元本人がこの地に足を運ぶことはなかった。

 戦場の隅、闘争と静謐の狭間にて、

「あれは、織田木瓜!?」

「そんな、馬鹿な! ここは前線よりもずっと後ろだぞ!」

 『偶然』、


「敵ぞ! 我に続け!」


 突如、織田信長が槍を携え、現れた。後ろからは続々と兵が続く。

「大殿!」

「……読み、切られた? いや、そんなはずは――」

 石橋を叩いた。完璧に勝つための画を創り上げた。負ける要素など微塵もなかった。神風が吹いたとしても、それだけならばやはり勝っていた。

 天が、割れる。雲間から光が伸びる。

 まるで織田方を祝福するかのように。

「織田、信長ァ!」

 今川義元が凄絶な形相で叫ぶ。叫ばずには、いられなかった。

 これまでただの一度として揺らぐことなく、完璧な立ち回りで駿河の盟主から三国の王へと、名門今川の最大版図を築いた。

 たった一度、それも本人に落ち度はなかったのに――

「突撃ィ!」

 その日は、訪れた。

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