第佰陸拾参話:桶狭間の戦い

 史実における桶狭間の戦いは謎が多い。実際にどのような場所で、どのような戦が繰り広げられたか、両軍の兵数は、陣容は、真実は今のところ誰にもわからない、と言うのが実情である。

 ただ一つ、子どもでも知っている事実がある。

 ここで織田信長は名を馳せ、天下にその名を知らしめた、これだけは事実であろう。駿河、遠江、三河、三国を統べ今川氏最大の版図を築いた王、今川義元。それを彼が如何にして打ち破ったのか。

 真実は闇の中、されど――


     ○


 三国を統べる王対尾張の国主。一見分の悪い勝負に見えるが国力で比較すると見た目ほどの差はない。駿河、遠江、三河、この三国を合わして石高は七十万。対して尾張は一国で五十万石もある。無論、石高だけが全てではないが、総動員数はある程度そこに沿うと考えられている。7:5、と見ると悪くない。

 よく言われているのが織田信長は尾張を半国しか掌握出来ていなかった、と言う説であるが、実は先年、尾張の完全統一は成っている。そも、昨年行われた上洛は、実質的に統一を果たしたから、幕府に正式な国主と認めてもらうためのものであった、と言われている。とは言え、その目的は果たされず、統一から期間も短い。

 尾張の最大戦力が出せるか、と言われたなら苦しいだろう。

 しかし、そこに関しては今川側も似た事情を背負っている。三河の騒乱を収めたのは二年前、決して盤石ではない。

 巷の見立てほど、双方の軍に大きな差はなかった。

 ならば、何が違うのか。

 それは――

「……こりゃあ勝てんのぉ」

 織田軍、木下藤吉郎秀吉は頭をぽりぽりとかく。眼前には今川軍、要領よくよろずをこなし着実に出世、足軽組頭となった藤吉郎であったが、この陣容を見た瞬間から勝てぬ、と算盤をはじく。実際に主君である織田信長もそう思ったから、こうして向き合うばかりで攻めあぐねているのだろう。

 その理由は、小高い山に陣を構えた今川軍。その鉄壁の布陣にある。彼らは尾張に攻めてくる側、だと言うのに悠々と陣を敷き、織田軍の攻めを待ち構えているのだ。一見すれば悪手に思えるこの行動も、よく考えると実に深い。

「藤吉郎殿、戦はまだですかのぉ?」

「たぶん、戦にならぬよ、小一郎殿」

「へ、何でですか?」

「……戦わずに勝てるから、かの」

「……?」

 あくまで藤吉郎の推測ではあるが、今川義元は戦わずして、無傷で織田を下し尾張を得ようとしているのではないか、と考えていた。

 戦力差は八千対一万五千、その時点で正面衝突は苦しいが、だからこそ織田方は隘路の多いこの地を決戦場所となるよう誘導した、つもりであった。実際に今川軍は大軍を生かし辛い地形の入り組んだこの地へ誘い込まれてくれた。

 が、そこで織田の想定外の事態が起きる。今川軍が居座りを選択したのだ。大軍の力押しで来ると思っていた織田は唖然と、彼らを見つめるしかない。

 一万五千の兵、兵站も楽ではなかろうが、今川はここに余剰戦力である五千近くを投入し、後背から断ち切ることのできぬ盤石の補給体制を築いていた。

 今川軍が飢え、退くことはない。

 その上で、地の利を得た多勢の今川に織田が仕掛けることも出来ない。

 それが今の膠着の正体である。

 そして、その意図は――

(織田は昨年尾張を統一したばかり。地盤は緩い。今川の狙いはそこを突き、尾張の諸侯を寝返らせることであろう。ここで負けぬ態勢を維持しつつ、ゆるりと裏から手を回す。気づけば織田は、戦わずに負けると言う寸法じゃ)

 藤吉郎はため息をつく。思ったよりも協力的でなかった尾張の諸侯、すでにある程度は今川の手が回っていると考えてもいいだろう。もうあと数千、尾張の国力を考えたなら積めたはずなのだ。国の存亡をかけた戦いなのだから。

 だが、この戦いを国の存亡ではなく、織田の存亡に挿げ替えたのであれば、諸侯の顔色は大きく変わる。織田を潰し、今川が尾張を飲み込んだ後の処遇、その保証があれば多くが今川になびくだろう。

 誇りで飯は食えない。何事も命あっての物種。

 そもそも今の織田は簒奪者、斯波から、清州織田家から、その座を奪い取ったものである。因果応報、と考え静観する者も少なくない。

 その上で、さらに今川は毟り取ろうとしている。

 長引けば長引くほど、織田は尻の毛まで毟り取られるだけ。

(天地が引っ繰り返らねば、勝てぬだろうなぁ)

 すでに藤吉郎はこの後の、身の振り方を考えていた。勝ち目などない。始まる前からこの戦、今川義元が勝つように構築されていたのだから。


     ○


 今川義元は悠然と座し、構えていた。いつでも戦う準備は出来ている。無論、彼らにその胆力があれば、だが。出来れば無駄な争いは避けたい。そう、もはや無用な争いであるのだ。勝負は決した。始まる前から決していた。

 海道一の弓取りが、そうした。

「お見事ですね、大殿」

「おや、来ましたか。丸根砦に詰めていても良かったのですよ?」

「折角なので」

「ふふ、ご苦労様です」

 今川義元の前に松平元康が顔を出した。彼はつい先日、今川軍の先鋒として織田の要衝である丸根砦を落とした武功を上げている。本来、その場で要衝を押さえるのが彼の役割だが、それは他の者に任せて本隊へ合流していた。

 困った子だ、と義元は苦笑するしかない。

「予想よりもかなり少ないですね、織田軍は」

「主従での争い、兄弟喧嘩、内乱が続いていましたから。そもそも、尾張の諸侯に織田家はそれほど好かれていませんからね。所詮は、三奉行の一家、国衆を束ねる格がありません。それを求めての上洛だったのでしょうが、ね」

 松平元康は鼻を鳴らす。義元はそういう状況ゆえ仕方がない、と敵対する織田信長を擁護するような発言をしたが、状況自体は両家にそれほど大差ないのだ。三河での騒乱、その前は遠江も荒れていた。確かに時間の違いはある。されど、一応つつがなく当主交代した信長と異なり、義元は血濡れた当主交代であった。

 多くの血が流れた。それ以上の混乱があった。そしてそれら全てをこの男は治めたのだ。力で、時に計略を用いて――

 つまるところ、状況の差異ではない。信長と義元、国主としての技量の差が明暗を分けた、それだけである。器ではなかったのだ、と元康は敵を嗤う。

 やはり彼こそが最優。己が噛みつきよしよしとなだめられた今、それはもう確信であった。文字通り格が違うのだ。

「大殿ならば美濃、どう捌きましたか?」

「難しいですね。当主交代を見通すのは。全ては結果論ですよ」

 この致命的な状況を招いたのは、紐解いていくと美濃の当主交代に突き当たるだろう。本来盟友のはずの斎藤家を、敵に回してしまった痛恨の過ち。

 仕方ない、運が悪かった。本当にそうか、と元康は思う。

 この男ならきっと、事前に息子の反逆を知り、対処していたと元康は思う。父と子、あれだけ戦力差があったのだ。相当父親の方は家臣から嫌われていたのだろう。その辺りに探りを入れずに、のほほんと父親と交流を深めていた。

 鈍重、元康は信長をそう断じる。

「では、この戦はどう捌きますか?」

「もう捌き終わりました」

「……ですね」

 格が違う。俊英、松平元康をしてそう思う。


     ○


 織田信長は頭を抱えていた。八方塞がり、勝ち目は限りなく零。地の利を得た大軍を前に突っ込むのは自害と同じ。さりとてこのまま時間が経過し続ければ、今川の調略がなくとも諸侯の心は離れ、形勢はより悪化していくだろう。

 征くも地獄、待つも地獄。さりとて退く道は閉ざされている。

「殿! 乾坤一擲、勝負を仕掛けるしかありませんぞ!」

 織田家宿老、林秀貞の声が陣中に響く。

 それに対し、

「林殿、それは無謀であろうが」

「ほう、柴田殿はこのまま静観せよ、とおっしゃるか」

「そうは言っておらぬ」

 同じく宿老、柴田勝家が反論するも、林の返す刀に顔を歪める。

「どうだか。すでに今川と手を結んでおるのやも」

「やめよ、新五郎(林秀貞の通称)。私は権六(柴田勝家の通称)の忠義を疑っておらぬ。この場に裏切り者などおるものか。要らぬ詮索ぞ!」

「これは失礼いたしました」

 最後は信長本人が場を治め、再び沈黙が場を支配する。織田家を想えば戦うしかない。このまま座して待つは、家を滅ぼすに等しい愚行である。

 されど、攻め手も無いのだ。

 打つ手がない。勝ちの目が見えない。

「案ずるな。必ず勝機はある。神が我らを見捨てるものか!」

「ははっ」

 信長の言葉に皆、頭を下げ頷くも、内心では神頼みしか出来ぬ現状を嘆くばかりであった。せめて少し、少しでも光明が見えたなら。

 重鎮たちが雁首並べても、何一つ出てこない。

 まさに状況は八方塞がり、今川義元の手練手管を、先代が小豆坂にて沈められたことや諸々の噂話を鑑みても、ここから間違いは犯さぬだろう。

 ならばもう、万に一つの勝ち目も――

「む、雨か」

「いつの間にやら空が暗くなってきましたな」

「雨が強まれば、我らにも勝機が芽生えるのでは?」

「それだけの大雨ならばこちらも身動きは取れまいよ」

「……ですな」

 ぽつぽつと雨が降り始めてきた。さりとて、だからどうした、と言う話である。雨で状況が好転するわけがない。ただ気が滅入る、それだけである。

 永禄三年、五月末、正午を回った頃であった。

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