第佰陸拾弐話:桶狭間前夜

 永禄元年、長く続いた三河での混乱(三河忩劇)を治めるべく、駿河より松平元康が派遣された。親織田の武家や一揆勢などが入り乱れる中、義元が抜擢した若き俊英、松平元康は見事その混乱を自らの手腕にて治めて見せる。

 それにより今川氏は表面上、ほぼ完全に三河を掌握することとなった。長らく続いた混乱を終わらせた俊英の評価は駿河、遠江、三河を越え、大きく広がる。

 それは――

「お見事でしたね」

「ありがとうございます。しかし、此度の騒乱を抑えられたのは――」

「いえ、そちらではなく。上手くやりましたね、と言う話です」

 今川義元と松平元康が駿府の今川館にて会する。三河で与えられた仕事を上手くやり果せ、褒められるのだろうと思い戻って来た元康に、

「……何の話でしょうか?」

 義元は変わらぬ笑みを浮かべながら、深淵を覗き込むような眼で元康の眼、その奥を見据える。ごくり、と元康はつばを飲み込んだ。

「責めるつもりはありません。結果として三河の膿を出し切ることが出来た。褒め称えるつもりですよ? 例えそれが自作自演、であろうとも」

「……」

 元康は顔を歪める。完璧であったはず。手抜かりはなかった。それなのに彼は看破してきたのだ。今回の騒乱、その原因を。

 自らの郷里である三河を利用し、自らの名をあげ、その上で今川家内外から領国を任せるに足る人材だと認めさせる。結果として松平が三河を得る最短の道。

 幾度も石橋を叩いた。細心の注意を払った。

 それなのに――

「その強かさは氏真にはないもの。大事にしなさい。ですが、お後がよろしくない。そなたは今、知らぬ存ぜぬを貫き通さねばならぬ所を、顔に出してしまった。その青さは可愛げですが、この先には不要です。今日、捨てておきなさい」

「……いつから、ですか?」

 全てはこの男の、

「そなたの元服と時同じくして三河がより荒れた。せめて二年早く動くか、二年遅らせるべきでしたね。急いては事を仕損じる、です」

 掌の上であった。

「……参りました。処分は、如何様にも」

「では、尾張での戦が終わり次第、三河の統治をお願いします」

「……え?」

「尾張は私が統治します。まあ、お目付け役とでも思って頂ければ」

「何故、ですか?」

 今川義元に噛みついた。名実共に海道一の弓取りとなった男に弓を引いたのだ。看破された以上、腹を切る覚悟はあった。それなのに義元は歯向かった元康に対し、三河をくれてやると言ったのだ。ありえない話である。

 しかし、義元は嬉しそうに、まるで喜ばしいことであったかのように、

「結果、全てが丸く収まった。内乱の火種を抱え続けるよりも、ここで出し切ったことは長期的に見て今川の益となるでしょう。今川、松平、両家にとって素晴らしい戦果です。戦功に報いるのは、家長の務めではないしょうか? まあ、今の私は家長ではありませんがね。ただのご隠居です」

「……似合いませぬな」

「ふふ」

 元康が三河の騒乱を治める、それと時を同じくして義元は家督を息子である氏真に譲った。これにより彼は今、今川家の家長ではなくなっていた。

 まあ、実際は翌年の北条氏康同様、実権は義元がしばらく握るのだろうが。

「私を許されると?」

「子は親に噛みつくものでしょう? 私はそれを成長と見なします。氏真もそれぐらいの胆力は見せて欲しいのですが……なかなか」

「……」

 参った、勝てない、と元康は苦い笑みを浮かべる。自分なら上手くやれる。やって見せる。そう思って噛みついたのだが、こうも上手くあやされたのではぐうの音も出ない。嬉しそうな義元を見れば、歯向かう気も起きなくなる。

「私を、今川家が三河を得るための名分でしかない者を、子とおっしゃいますか」

「私がそう思っているだけです。押し付ける気はありませんよ」

「……いえ。光栄です」

 今川義元、この男から松平元康は多くを学んだ。親の顔も覚えていない時から織田、今川の間で揺れ動いた人質人生。親の顔は思い出せぬが、義元の顔はたぶん、一生消えないだろう。これが絆と言うのなら、確かに血よりも濃い。

「なら結構。とは言え、いくら子と想えども、今川家を譲るわけにもいきません。氏真も、そなたへの対応はともかく、武家の長として及第点ではありますから。まあ、ここからの難局、及第点でしのげるかは別として」

「……」

「ゆえに三河を一度、預けます」

 預ける。つまりはいずれ今川に返せということ。今の元康にそれを跳ね除けることなど出来ない。噛みつき、敗れた以上、何も言う権利は――

「そして、時が来たら尾張を統べなさい」

「……尾張を、ですか?」

「ええ。富んだ土地です。湾があり、湊がある。畿内との接続もいい。三河ではそなたの才、持て余すことになるでしょう。ゆえに三河ではなく尾張を譲ります。そこで存分に、三河で培った腕を振るいなさい」

 信じ難い話である。尾張は一国で五十万石を超えるほど豊かな土地である。今川は長年、それを得るためにあらゆる手を打ってきた。

 そんな大事な土地を、十年越し、いや、もっと前から手に入れようと画策していた土地を、他家の元康に譲ると、言ったのだ。

「龍王丸には今川を。竹千代には私の夢を、継いで欲しいのです」

「……東国の、都」

「よく覚えていましたね。駿河は、あまり豊かな土地ではない。先祖や私が心血を注ぎ、最高の都市を造ったつもりでしたが、やはり限界がある。少なくとも私ではこれより先を目指せない。だから、託すのです。才ある若者に」

 夢物語だと思っていた。どう頑張っても畿内には、京にはかなうはずがない。それでも理想ぐらいは、その程度の覚悟だと思っていた。

 だが、違ったのだ。義元は本気でそれを造ろうと思っている。かつて鎌倉がそう在ったように、いや、それ以上に全てが集束する、日の本一の都を。

 この東国の地へ。

「私の我儘でしかありませんがね」

「……謹んで、大殿の夢、引き継がせて頂きます」

「ありがとう」

「ただ、東国と言うには尾張は少々、畿内に近すぎる気もしますが」

「あはは。本当なら相模、武蔵辺りを切り取って渡したかったのですが、北条相手にそれは少し難しい。それに、別に東国でなくとも構わないのです。畿内でさえ、京でさえなければ、新しい風であれば、何処であろうとも」

 元康には義元のこだわり、その理由まではわからない。本拠地である駿府、東国にこだわりがあるかと思えば、そういうわけでもないのだろう。

 彼の京時代を知れば、その根源もわかるのかもしれないが。

 それを知る者はもう、今川家にはいないのだ。

「そなたらに憂いを残さぬためにも、最後の勝負は万全を期します」

「お供いたします」

「頼りにしていますよ」

 氏真に家督を譲ったのは、自らが太原雪斎の穴を埋めるため、でもあった。尾張侵攻に全てを注ぐため、自らを駿府から解き放ったのだ。

 全ては若き彼らにより良きものを残すため。

 より良き明日を繋げるため。

 尾張を喰らえば、それが叶うのだから。


     ○


 それから二年、永禄三年、五月。

「覚明、私たちの失望を、絶望を、必ず晴らして見せます」

 今川義元は色の禿げた火男の面を撫で、そっと壁にかける。それはあの、腐り果てた京の都より持ち帰った唯一の私物である。欲望と策謀が渦巻くるつぼ、人の醜さばかりをかの地では見た。この面は、数少ない良い記憶である。

 堅物で、頑固で、真面目で、意外と柔軟で、だけど潔癖。それが自分の兄貴分であった。雪斎は父代わり。幼き頃、権力争いの火種とならぬよう遠ざけられたがゆえ、義元は父や兄の顔をまともに記憶していなかった。

 だからこそ、彼ら二人は特別であったのだ。いや、雪斎とは多少、今川家の血統である己の後見人と言う損得もあったから、そういう損得抜きの関係性と言えば、やはりただ同じ寺で修業をしていた覚明くらいのものであろう。

 自分もそれなりに潔癖で、汚いものが嫌いだった。間違った、道理に沿わぬ景色が嫌いだった。京には、そんなものばかり溢れていたが。

 気が合った。あちらはうっとおしいと思っていたかもしれないが、そう思っていても何だかんだと面倒見がいい彼の隣が好きだった。居心地が良かった。

 同じ景色を見た。同じ腐敗を見た。

 御仏を信ずるのは馬鹿のすること。彼らは銭を集める手段としか思っていない。五戒を守っている僧を探す方が難しかった。

 そも、元をただせば仏教を輸入した理由は統治に都合がいいから。神道を形成した理由は、自らの統治に正当性を生み出すため、物語が必要だったから。

 ただの統治システムでしかない。

 愚民を騙し、従順に躾けるための――それを嫌と言うほど理解した。

「どれだけ正しくとも、長く続けば腐り落ちる。京はもう、とうの昔にその段階を過ぎた。遅過ぎたくらいだ。誰かが破壊せねばならない。誰かが、その代わりを創らねばならない。私は、そのために戦う。そのために、奪う」

 自らも随分汚れてきた。今川家当主、今川義元。その成立の段階で汚れる必要があった。それでも必要であったのだ。ことを成すには大きな力が。

 だから奪った。血の繋がっただけの兄たちから。

 あらゆるものを操った。あらゆるものを踏みつけた。そして今、三国の王として義元は君臨している。だが、まだ足りない。三国とも決して豊かな土地ではない。畿内の実力者を黙らせるため、どうしても豊かな土地がいる。

 米所の尾張。肥沃な土地である。商業面こそ駿府でも代用可能だが、それでも伊勢と繋がる大きな湾は海上輸送の面でも魅力的。

 都足る土地である。

 奪わねばならない。自らの野望を叶えるためにも。

 あの日々の中、『兄』と共に抱いた怒りを晴らすためにも。

「では、行ってきます」

 『海道一の弓取り』、今川義元は戦地へ赴く。

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