第佰陸拾話:いつか同じ時、同じ場所で

「すまぬな。上田付近での狼藉、我らが防ぐべきだった」

「いえ。このご時世、野盗など何処にでもいますから」

「すまぬ」

 上田長尾家当主、長尾政景は甘粕景持に頭を下げる。格の上では反乱後であっても圧倒的に上の相手に頭を下げられ、甘粕は恐縮してしまう。

「御実城様には?」

「……内密に」

「隠し通せるものではなかろう。関所に記録が残らぬ以上、調べたなら――」

「それでも、内密に願います」

 今度は甘粕が頭を深く下げる。

「……あいわかった。関所の方は私が手を回しておこう。沼田の方へ抜けた者がいたが、早朝ゆえ気の緩みがあり抜けられてしまった。担当者にはきつく言っておくと共に、全ては上田荘の管理者たる私の責任、これでよかろう」

「しかし、それでは――」

「構わぬ。どうせ咎めは来ぬよ。嘘であることも看破されよう。それでも嘘を貫くのなら、私も協力する。それだけだ」

 再度、甘粕は深々と頭を下げた。彼女の遺体は上田荘からほど近い場所であり、わざわざ政景自らが出向き、隠ぺいに協力してくれたのだ。

「それよりも春日山は大丈夫か?」

「……わかりませぬ」

「そうか」

 国主も人間、古今様々な私的な出来事で国が揺らいできた。哀しいかな、人間である以上、完全なる統治者などいない。人は揺らぐ。人は揺れる。

 人は崩れる。

「それでは、某はこの辺りで」

「うむ。御実城様を、頼むぞ」

「はい」

 甘粕はこの場を去り、春日山へ戻る。これから彼には気の重い仕事が待っているのだ。彼でなければ、気が重い、では済まないだろうが。

 この仕事は彼にしか出来ない。

 龍にとって守るべき存在である彼にしか。

「……綾。どう思う?」

「……黒田の時と同じ。あの子はね、優しくて、臆病だから。人一倍、失うことを恐れている。だから、なるべく人を寄せ付けないの」

「失うのが怖いから、か」

「そう。今回死んだのは、内側の子よ。私はあまり知らないけれど、これだけ特別扱いしていたのだもの。そう言うことなのでしょう」

「国が荒れるかもしれぬな」

「国を荒らそうとした新五郎が言いますか」

「……それを言ってくれるな。若気の至りだ」

「ふふ」

 二人は寄り添い、春日山の方へ視線を向ける。何が起きるか予想も出来ない。順風満帆に見えた景虎政権、それが揺らぐこともありえる。

 それだけ人の死には、人を変える力があるのだ。

 良し悪しは、さておき。


 越後に暗雲が立ち込める。そんな予感を、二人は覚えていた。


     ○


 甘粕景持は静けさ漂う春日山に帰城する。まだ大勢戻ってきていないのだろう。探しに行っていない者まで、今は極力城から離れているはず。

 長尾景虎の逆鱗に触れたくはないから。

 甘粕もある程度の覚悟はしていた。幼少期、拾ってもらった恩がある。自分にとって景虎は特別な存在、それは揺らがない。殺されたとしても揺らぐことはないと、彼は胸を張って言い切るだろう。

 だが、景虎もそうであるか、それに関して甘粕は否、だと思っていた。自分にとって特別でも、景虎にとってはそうでもない。多少目をかけて貰っている。それは間違いない。されど文や梅、それと並ぶとは微塵も思っていなかった。

 殺される可能性はある。

 しかも今からするのは――

「只今戻りました!」

 虚偽の報告なのだから。

「持の字か。よう戻った。で、梅は何処だ?」

 あれから二日も経っていないのに、景虎の人相は見たこともないほどに暗い影を落としていた。暗君の気配を称えている。

 暴君の雰囲気が、滲み出る。

「見つかりませんでした。おそらく、すでに沼田へ抜けられたものと」

「俺は見つけろと命じたのだ。何故、戻って来た?」

「これだけ探しても見つからぬのであれば、国内にはおらぬのだと思います。上田荘にして早朝、それらしい影を見たとの報告もありました」

「視力を失いかけた女に、くく、関所を抜けられた、と? ぶは、ぶはは、面白い冗談だ。政景の案か? ん? ぬしもあれも、随分と俺を怒らせたいと見える」

 景虎は立ち上がり、甘粕の前に立つ。

「もう一度命じる。探せ。もしくはもう、見つけたか? ん? 死んでおったか? どうだ、正直に申せ。確信なく、戻って来る男ではあるまい。甘粕景持よ」

「見つかりませんでした」

「俺をこれ以上、怒らせるな。頼む」

「消息不明です」

「持之介!」

 景虎が甘粕の、景持の首を掴む。両腕で、力一杯。ゆえに景持は自らの命運を受け入れ、目を瞑った。何も言う気はない。

 殺されても、言わぬ、と。

「ぐ、ぐう、ふ、ぐうう」

 苦しんでいるのも、震えているのも、首を絞めている方であった。景持は力のこもったこわばった掌が、添えられているだけの状態の首、その感触に顔を歪める。手のひらから、否応なく彼の苦悩が伝わってくるから。

「言え」

「知りませぬ」

「言え!」

「……」

 力無く、景虎は崩れ落ちる。景持を縊り殺すなど造作もない力を持つ男が、痕すら刻むことなく、景持の首を離した。

「……すまぬ。俺が、悪かった」

「御実城様」

「見つからぬか。そうか。なら、仕方ない、のぉ」

 こんなにも弱り果てた景虎を、景持は初めて見た。梅の病を知ってからずっと、弱さを見せてきたが、とうとう、完全に、地に落ちてしまったのだろう。

 覇気に満ち溢れた男から、何も感じない。

 先ほどまで溢れていた、怒りすらも。

「全員に伝えよ。もう、捜索をする必要はない、と」

「……承知致しました」

 ただ、がらんどうがそこに在った。


     ○


 永禄二年、十月。続々と越後の国衆から上洛の祝賀が舞い込んでくる。さらに信濃の国衆や、武田方であった善光寺の栗田別当までもが名を連ねる。これが景虎に授けられた権威の力、年が明ければさらにこれらは増えてくるだろう。

 無数の太刀が送られ、表向きは笑顔で対応する景虎。

 ただ、ひとたび自室に戻れば、一言を発することなくうな垂れ、沈み込んでいた。時折太刀を引き抜き、その刀身に映る己を見て、嗤う。

 そして、価値ある太刀を放り投げ、価値のない紙に手を伸ばす。

 ぐしゃぐしゃになった手紙。

 千葉梅が残した、最後の想い。

 あの夜を前に、彼女がしたためたであろう言葉を、見つめる。


 長尾景虎殿へ。

 子どもの頃の約束、守って頂きありがとうございました。失意の底にいた私は、とらの国、ここ越後にて救われ、癒されました。とらとの毎日は楽しくて、とても幸せで、だからこそ、時折胸が痛くなります。

 私は結婚し、子どもを産みました。夫は人格者で、子は可愛く、それなりに幸せだったはずなのに、もうあの頃のことはあまり思い出せません。酷い女だと思います。この病は、きっと罰なのだと、そう思えば少し、胸のつかえが取れました。

 これは私の因果です。全てを忘れ、とらの厚意に甘え、のうのうと生きていた私が悪いのです。ゆえに私は郷里へ戻り、出家しようと思います。

 これから先、御仏に仕え、自らの罪を注ぐと決めました。

 だから、私のことは忘れてください。元々、私たちは子どもの頃、ほんの少し重なっただけの関係です。文殿のように長く寄り添っていたわけでもなく、とらの過去、再会までの間も、私は知りません。

 とらの家名すら、知らなかったのですから。

 また、無関係に戻るだけ。私は元気にやっています。きっと、とらがこれを読む頃には病も治り、元気に修行を開始していることでしょう。尼寺に入るつもりなので、追って来ても無駄です。絶対に会えないと思います。

 身勝手で申し訳ございません。でも、決めました。

 ただ、弥太郎のことはどうか、何卒、ご配慮頂けると幸いです。私にはあの子に明日を用意してあげることは出来ませんでした。

 とらに頼るしかない己の弱さが、本当に憎く、情けないです。

 どうか、どうか、お願いいたします。

 千葉梅より。


 そして、景虎は折り込まれた部分を、優しく開く。


 いつか、私の罪が許されたなら、来世でもう一度、私と出会ってください。願わくばあの時のように、楽しい日々を共に過ごせたなら嬉しいです。

 共に田植を。共に狩りを。同じ場所に生まれて、同じ時を生きて、同じ空を見上げ、全部知って、そうしたらきっと、今の気持ちを口に出せると思うから。

 またね。

 小梅より 虎千代へ。


「……アァ ソウトモソウトモ」

 長尾景虎は、何度も、何度も、彼女の遺書に指を沿わせる。濡れた跡がある。端に血もついている。彼女の嘘と本当をただただ、景虎は噛み締める。

 彼女が何をしたと言うのだ。苦しみ、絶望の中で、何故嘘をつかねばならない。自由を捨て得たささやかな幸せを踏み躙られ、全てを失った彼女が何故、またしても全てを捨て、去らねばならなかったのか。

 懊悩する。答えは出てこない。

 結局、景虎は本当の意味で彼女に居場所を授けることが出来なかった。勇気がなかったから。文に申し訳がなかったから。決断せずに、先延ばし。

 その結果、また同じことをした。傷つけた。

 度し難い己が憎い。この怒りはきっと、己にも向けられている。

 それと同時に――

「……神はおるのか、おらぬのか」

 ふつふつと煮え滾ったそれは静かに、何処かへ向かわんと――蠢く。

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