第佰伍拾玖話:天瞬くは――夢幻

 景虎は寝込む梅に自らの着物を被せてやり、少しでも温かくなるようにする。自身は彼女の枕もとに座り込み、彼女の様子を見つめていた。

「……移るのに」

「ぶは、今更だ」

「……」

 少し顔を赤らめた梅は着物に顔をうずめる。

「今回の上洛でな、ようやく準備が整った。来月辺りには続々と関東の諸侯から阿呆ほど祝辞が来るだろう。それが、開戦の狼煙よ」

「……また、戦?」

 ひょっこり着物から顔を出す梅。心配そうな顔つきに景虎は苦笑する。

「心配するな。まともな戦になどならん。何のために山内上杉を囲い、わざわざ上洛して箔をつけたと思っておる。今頃北条は戦々恐々としておろうな。絶対的な大義名分、新興勢力の弱さをこの俺様が見せつけてくれよう」

 相変わらず争いごとに関しては自信満々の景虎である。

「だから案ずるな。俺を何処ぞの伊勢守と一緒にするでないわ、ぶはは!」

「……」

 そして性根が腐っているのも相変わらず。

「すでに内々でだが、山内上杉の名跡を俺が継ぐ流れは決まっておる。つまり、北条に勝てば旧領である上野国は俺が治めることとなろう」

「……おめでとう」

「馬鹿たれ。他人ごとのようにほざきよって。ぬしの故郷も取り戻せる、と言う話だ。あそこに帰ることが出来るのだぞ」

「もう、誰も、いないけれど」

「俺がおる」

「……?」

「山内上杉となるのだ。関東に居を構えねばなるまい。越後は政景にでも放り投げ、関東を完全に平定するまでの間は上野国のどこかに本拠を移す。最終的には本来の居場所である鎌倉にでんと構えねばなるまいが、その間は、俺の勝手だ」

「あの辺、何もない」

「ぶはは。俺が作る。道を通し、デカい平城をこさえ、人を無理やり詰め込めば良いだけの話。おっと、勘違いするなよ。あの森には手を付けん。あの時見た景色は残しておく価値があるからの。その手前に住み、たまに夜半抜け出し、共に星を眺める。夢が広がるのお。そう思わぬか?」

「……うん」

 景虎は梅の頬を撫でる。

「ゆえに、ぬしは早う体を治せ。その先に楽しいことが山ほど待っておるのだ」

「……わかった。もう、寝るね」

「おう。俺もぬしが寝たら帰るからな。よぉく体を休めろ」

「うん」

 目を瞑る梅を見つめ、景虎はただそこにいた。半刻、一刻、すでに寝付いているだろうに、景虎は彼女を見つめ、目を離さぬよう座り込む。

 何故か、目を離すといなくなるような気がしたのだ。

 そんなことありえないのに。

「俺は、弱いのぉ」

 ぽつりと、彼はつぶやく。誰よりも強く生まれたのに、誰かに寄り添わねば生きられぬ、その矛盾が彼にはある。だから実綱の執着を理解しながら、手遅れになるまで文を手放すことが出来なかった。

 それと同時に、結ばれることへの恐怖もある。武家と家族、その狭間で自分は上手くやれるのだろうか。彼らを犠牲にしないか。

 せざるを得ない時、自分はどうするのか。

 考え、考え、考え続け、未だに自信がない。それでも、弱った彼女を繋ぎとめる方法はこれしか思いつかなかった。

 やると決めたら、それはそれで腹も括れるのだな、と景虎は苦笑する。

(……すまぬな、文)

 もっと早くそうしていれば、あったかもしれぬ可能性を想い、景虎は目を瞑る。ほんの僅かな気の緩み、深夜のまどろみを前に、飲まれる。

 寝息と共に、景虎の首が垂れた。そのまま床に倒れ伏すところを、梅は起き上がって何も言わずに支える。

「……」

 ようやく眠りについた景虎の頭を膝に置き、先ほどまで彼がしてくれたように頭を撫でる。常勝不敗、梅には想像もつかないほどに強い景虎であったが、寝顔は童のようで、笑みがこぼれてしまう。

 すぅ、すぅ、と心地よい寝息が耳朶を打つ。

 幸せであった。本当に、幸せであったのだ。この想いを、感謝を、口下手な彼女は伝えられる気がしなかった。全てを失った自分に居場所をくれた。それを守るために全力を出してくれた。子どもの頃の約束、たったそれだけで。

 感謝している。

「……ごめんね」

 梅は小さくつぶやく。この謝罪はかつて共に歩んだ家族へのもの。越後での生活が幸せで、彼の隣が楽しくて、気づけば擦れ果ててしまった怒り。

 もう、あの時の怒りは、どれだけ想っても出てこない。我ながら薄情だと思う。顔も擦れ、残っているのはつないだ手の大きさと、小ささ。

 景虎のそれとは、やはり違う。

「……ごめんなさい」

 この謝罪は、子どもの頃の約束一つで今の関係性を崩してしまったことへのもの。直江文、本当なら彼女が彼の隣にいるべきだった。

 それは、少し傍にいるだけでわかってしまった。それでも自分にはもう、ここしか寄る辺がなかったから。恥ずかしげもなくしがみ付いた。

 今、彼女は彼の隣にいない。だけど、生きている。それならきっと、先の薄れた自分よりも、彼の救いと、寄る辺となれるはず。

 託されたのに申し訳ないけれど、ここ数日ずっと視界が霞んでいる。熱も引かない。咳も、今は落ち着いているけれど、またすぐぶり返す。

 たぶん、もう――

「ごめん、なさい」

 そして、最後の謝罪は、今、最後の口づけをした相手へ。移る可能性を増やしてでも、最後に彼を求めてしまった。どうしようもなく、愛してしまった。迷惑になっても、生きて、隣にいたいと思ってしまった。

 梅は、涙をこぼす。口を離し、寝顔に幼き頃の彼を見て、綻ぶ。

 だから、

「ありがとう、虎千代」

 去らねばならない。彼を傷つけぬために。

 夢を見た。幸せな夢を。それをくれた彼に感謝を込めて。


     ○


 景虎が目を開けると、自分が彼女に被せたはずの着物が己へ被せられていた。ほんの僅かに疑問符が過ぎり、すぐさま異変に顔を歪ませた。

 起き上がる。この小さな離れ、何処にいようと隠れる場所などない。足元には景虎に、いや、長尾虎千代にあてた封書があった。

 呆然と、それを開き景虎は中を改める。

 そして、

「ふざ、けるな」

 それを握り潰し、立ち上がった。


     ○


 林泉寺にはいなかった。彼女の手紙、その内容を信じるならば国外を目指したのだろう。あの体調では自殺行為、早急に愚かな行為を止めねばならない。

 ゆえに景虎は、

「千葉梅を探せェ!」

 春日山城にて咆哮する。

「それは御実城様としての命でございますか?」

 諭すような口調の蔵田、その胸倉を景虎は何も言わずに掴み上げ、両腕で締め上げる。理屈もクソも無い。力ずく、暴力に訴えかけた。

「あ、ぎ、が」

「お、御実城様、おやめください!」

 家臣の停止を聞かずに。

「ぬしの代わりはおる。あれの代わりはおらぬ。死ぬ気で探せ。ぬしらなんぞいくらでも替えが効くんだよ! わかったかァ⁉」

「……」

 声を出せぬため、蔵田は揺らぐ意識の中、何とか頷く。肯定の意図を汲み取り、景虎は蔵田をその辺に放り投げた。

 蔵田とて武官ではないが、それなりの体格である。それが、まるで子ども扱い。

 そこには戦場での、燃え盛る何かがいた。

「お、御実城様」

「俺の命令が聞こえなかったか?」

「い、いえ」

「なら、早うせい。見つけた者には何でもくれてやる。太刀でも、城でも、好きなものを、だ。ゆえ、必死に励め。俺を落胆させるな」

「は、ははっ!」

 この景虎には逆らえない。逆らったら殺される。当たり前の苦言を呈した蔵田が殺されかけたのだ。あの、景虎と懇意であった金津が推薦した男であっても容赦なく殺すほど、今の景虎は手が付けられない。

 荒れ狂う嵐そのもの。彼らは急ぎ、春日山を離れる。命令があったからではない。今、この男の傍にいること自体が死の危険を孕むのだ。

 何が起きてもおかしくはない。


     ○


「どうされたのですか? 騒がしいようですが」

「河田殿。今の御実城様には絶対に近づかぬように。近衛家の御方であろうと、ああ成った御実城様には何も出来ません。理屈では、ないのです」

 甘粕景持は絶姫と河田長親へ忠告をする。今の景虎は危険である。絶対に近づいてはならない、と。

「自分は捜索に加わりますので、失礼いたす」

 たぶん、今の景虎を止められるのは二人しかいない。しかし、一人は俗世から離れ、今回はもう一人が原因である。景虎の、あの貌は黒田の時と同じもの。あの時の怒り、その根源は兄を追い落とされたこともあろうが、もっとシンプルに乳母を殺されたこと、恩人である金津義旧を傷つけたことであった。

 景虎は基本的に寛容である。長尾政景、北条高広、いずれの反乱も笑って受け流している。大熊朝秀の時も圧勝こそしたが追撃は加えなかった。

 唯一の例外が、黒田の乱なのだ。

 あの徹底的な、完膚なきまでの蹂躙、尊厳破壊は、大切な者を奪われたから、傷つけられたから行われた。それが彼の凶暴な一面を引き出す唯一の方法。

 今の景虎は手に負えない。そういう人物はもう、春日山には残っていないから。隠居した金津義旧もすでに春日山を離れている。

 直江文、天室光育もいない。

 金津女房、長尾晴景、覚明、皆死んだ。

「……生きていてくだされ!」

 何故、千葉梅が去ったのか。それを甘粕は知らない。

 ただ祈る。長尾景虎が変わり果てる前に、彼女が見つかることを。


     ○


 馬を駆り、千葉梅は咳き込みながら、越後の国外を目指す。熱で頭がぼうっとする。それでなくとも徐々に視界が薄れつつあった。

 きっと自分はもう、生きられない。疱瘡、その致死率の高さは彼女とて耳にしている。もし、生き延びたとして、目も見えず、醜くなった己はこれから先ずっと愛する者にただ守られるだけ、負担となって生きていくしかない。

 それを彼女は許せなかった。寄り添い合うのではなく、寄りかかるだけの関係。弥太郎へ琵琶を与えた景虎は深慮であったのだ、と今更梅は思う。何か生業があって、相互に寄与していなければ、関係性と言うのはどこかで破綻する。

 だから彼は弥太郎に生業を得るよう導いた。

 自分が今更、当事者となって気づいたことを、彼は最初から気づいていたのだ。とても優しい人だと思う。口は悪いけれど、それはただの照れ隠し。

 自分も琵琶を、何か別の芸を、生きる術を、色々考えた。だけど、もう生き方を変えるには少し歳を取り過ぎた。狩り以外の生き方を自分は出来ない。

 唯一、武家の女ぐらいは、それとて全盲となれば厳しい。

 どちらにしろ、死ねばきっと景虎は悲しむ。彼は優しくて、繊細で、義理堅いから。あんな子どもの頃の約束をきっちり守ってくれた人だから。

 彼の傍で息絶えたなら、彼はきっと自分だけが幸せになる道を閉ざしてしまう気がした。生き延びられる自信がない。生き延びても、その先が見えない。

 せめて目が、目さえ無事なら、一緒に星空を見上げることも出来たけれど、この分だと早晩、視力は失われる。少なくとももう、狩りは出来ない。

 だからせめて遠くで、彼の眼の届かぬ所で、彼に知られることなく、

「おっとォ!」

 鷹のように天へ舞い上がり、消え去れたなら本望。

「あっ」

 すでに彼女にはほとんど視界はなく、自分がどうして落馬したのか、それすらよくわからなかった。だが、うっすらと人に囲まれているのは見える。

 今は乱世、きちんと国境の方へ迎えていたなら、治安などあってないようなもの。ならば、そう言うことなのだろう、と彼女は微笑む。

「ゲェ、疱瘡だ、この女」

「ちっ、病気持ちの醜女じゃ売れねえか」

「じゃ、とりあえずいつも通り」

「おう」

 千葉梅は天を仰ぐ。星は見えない。だって、夜ですらないから。

 もし生まれ変わったなら、今度は武家ではなく百姓に生まれよう。田畑を耕して、隙間時間に狩りへ向かう。そんな日々を過ごしたい。

 その隣に彼がいてくれたなら、きっと最高に幸せだ。今度は自分の方が先に会って、長く一緒にいよう。そうしたら勝てるかもしれない。

 頑張ろう。彼女は朝焼けと共にそんな夢を見る。

「またね」

 そして、あの日、不可能だと思っていたから言えなかった言葉を――紡ぐ。


     ○


 甘粕景持は馬を駆り、必死に捜索し続けた。頼む、頼む、一縷の望みを抱き、可能性に縋った。だが、関東への街道沿い、比較的人通りの少ない場所に、ちょっとした人だかりが出来ていた。嫌な予感がする。絶対に違う。

 そんなこと、あるわけがない。

 だけど人だかりの中心は妙に空白があり、南無阿弥陀仏と唱える者も一定以上近づこうとしていない。その理由が何か、甘粕は考えたくなかった。

 信じられない。信じたくない。

 信じるわけにはいかない。

「失礼。退いてください」

 それでも――

「失礼。長尾家の者です。改めさせて――」

 そこには――

「……畜、生」

 身ぐるみを剥がされ、命を奪われた疱瘡の女性が遺棄されていた。病にかかる前はきっと、とても美しかったであろう女性は虚ろに天を見つめている。不思議と表情に曇りはなく、奪われた者の悲哀は感じさせない。

 だけど、そこにはもう、命がなかった。

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