第佰陸拾壱話:1560年5月

 年が明け、永禄三年、三月。

 長尾景虎は越中にいた。長尾家とも因縁の深い隣国、越中。祖父が散り、父が実権を奪い取ったこの土地に、争いの火種が芽生えたため踏み潰しに来たのだ。

 越中守護の畠山氏は在京の守護(複数国の)であり、その実権は本来越中の守護代家が握っていた。神保氏、椎名氏などである。が、それが行き過ぎたこともあり、当時守護代を任されていた神保氏と畠山氏が対立、一時は神保氏が優勢となるも、協力者として現れた長尾為景によってあえなく粉砕、神保家は没落した。

 それに協力したとして椎名氏も名を落とし、結果として越後長尾家が越中の権力に食い込み、椎名家を従属させた、と言うのが歴史である。

 しかし、没落した神保家であったが、時間と共にその力を少しずつ取り戻し、為景の死と共に急浮上、長尾家に属する椎名氏と度々争うこととなる。

 幾度か長尾家が間に入り仲裁するも、力を取り戻しつつある神保氏と、その分割を食い続ける椎名氏では力の差が生まれ、長尾家など何するものぞ、と仲裁を聞き入れなくなっていたのだ。ちなみに大熊朝秀の乱、その際に一向宗を自由にさせたのも、武田と裏で結んだ神保氏であったとか、なかったとか。

 まあ、その結果――

「はぁ、はぁ、はぁ!」

 神保長職は全速力で走る羽目に陥っていた。

 長尾景虎何するものぞ、と自国で息巻いていた男であったが、いざ越中へ出陣してきた景虎をひと目見るや否や、血の気が引いた。

 越後の兵に恐れを成したわけではない。それに怯えるぐらいなら、そこと繋がる椎名氏と争ったりなどしない。だが、あの男だけは別。

 軽く当たっただけでわかる。大熊朝秀が言っていた通り、景虎自らが率いた軍勢の強さは、常軌を逸していた。

 すぐさま富山城を捨て、堅牢なる増山城(現在の砺波辺り)まで退いた。ここで固めたなら、負けはしない。時間さえ稼げば自国も含め敵の多い長尾家、何か問題でも起きて撤退するだろう。そう思っていた。

 実際に長尾家に与する越中の国衆が増山城に取りついても、びくともしなかった。堪えられる、そう思った矢先に、景虎の軍勢が増山城に到着する。

 堅牢な山城、容易くは攻められまい。その堅さを良く知る越中の国衆は遠巻きに陣を張り、明らかに臆していた。彼らが動かぬのであれば、他国の争いである今回の戦、率先して攻め寄せて来ることはないだろう、と言う考えは――

『殿!』

『な、何なのだ、彼奴等は!?』

 景虎到着と同時に、砕かれた。むしろ率先して増山城に取りつく越後勢。狂ったように攻め寄せ、損耗もお構いなしの姿勢を明確に示してくる。

 神保方も、味方である椎名方すら、その攻めっぷりには唖然とするしかない。

 毘沙門天の旗がなびく。その下に座する景虎はただ、彼らに征けと言っただけ。征き、殺せと言っただけ。そうすれば景虎の兵たちは、死ねるのだ。

 酒を飲みながら景虎は座す。彼自身はもう、動く必要すらない。

 夜半、気づけば神保長職は脱兎の如く城を抜け出し、逃走を図っていた。越後の力は知っている。父の代の家臣らからいくらでも聞かされた。為景は化け物だったと聞いた。それでもここまでとは聞いていない。イカレているなど、聞いていない。

 あんなやり方、間違っている。正しくない。

 兵とて人間、我が身は惜しい。自らの命を守るため、平気で彼らは槍を捨て逃げてしまえる生き物なのだ。強かな生き物であるはずなのだ。

 そんな人間が、人形のように採算度外視で突っ込んでくる。

 命を捨てて来る。

「あんなもの、割に合わん!」

 消耗戦、そんなもの家の存亡をかけた一戦でしか本来ありえない。椎名はいつでも潰せる。すでに越後が代替わりの際、ごたついてくれていたおかげで越中の権力基盤は整いつつあるのだ。それを諦める気はない。

 要は――

「あの男さえ、いなければただの軍だ」

 長尾景虎の留守を狙えば良い。椎名を潰し、座を奪ったなら、その後改めてあの怪物と上手くお手手を繋ぐ。それで良い。そうしよう。

 それしか――ない。

 だってあの男には、人間では勝てないから。


     ○


「御実城様、神保めは逃げた、と」

「そうか」

「如何されますか?」

「別に。帰るだけだ」

「では、そのように」

 意気揚々と撤退の指示を飛ばしにいく直江実綱。景虎はただ、何の感情もなく自らが落とした増山城を見る。堅い城であった。無理攻めをすべきではない、そう思った諸侍も少なくはなかっただろう。

 迷わず飛びつけたのは、兵法を知らぬ下の者ばかり。

「……くだらん」

 何の意味もない勝利。おそらく、神保はこれで引き下がらぬだろう。如何に越後が揺らいだとは言え、盛大に没落した後、ここまで御家を立て直した男である。片や気骨の感じられぬ今の椎名家当主では、彼を抑えられない。結局、信濃や関東が越後長尾家の中心となる以上、どうしても越中には隙が出来る。

 そこを突かれ、座を奪われ、それで終わり。

 ただ、それだけのこと。

 そして――

(最後に、俺が全てを潰せば良いのだろうが)

 最後は踏み潰して、終わり。


     ○


 雪解けと共に関東からも続々と上洛、それに伴う長尾家の権威向上を祝う便りや、使者がやって来た。特に驚いたのは常陸の実力者、佐竹氏からも使者が遣わされ、太刀が送られたのだ。山内上杉、その名跡を要らぬと蹴飛ばし、山内上杉が越後に来る遠因となった誇り高き名門の佐竹が、長尾家を認めたのだ。

 さらに宇都宮、佐野、結城などなど、続々と関東諸侯からの祝辞が届く。加えて鹿島大宮司からも、同様の祝いが送られた。

 越後ではお祭り騒ぎ、長尾景虎は傑物だ、と皆が唄う。

 本人は、梅干しを肴に日々酒を飲み明かすばかりだが――


 これに戦々恐々とするのは関東の北条家である。

「父上」

「……わかっておる」

 先年、永禄の飢饉と呼ばれる災害の責任を取り、家督を辞し息子氏政へ家督を移した氏康であったが、実際に舵取りをしているのは氏康である。

 これは隣国、今川も少し前に家督を息子氏真に譲っているが、それとは意味合いの異なるもので、民草に誠意を見せる緊急措置のようなもの。

「佐竹までとは……信じられません」

「山内上杉を取り込んだ長尾の慧眼であったな。必ず長尾は関東へ来る。今川の尾張征伐が終わり次第、同盟の連携を深めねばならぬな」

「武田との折衝は私が」

「うむ。頼む」

 正直、どれだけの諸侯が長尾景虎になびくのか、想像もつかない。だが、同時に氏康には勝算があった。長尾景虎の敵は北条だけにあらず。北信濃で幾度も刃を交わした武田はもちろん、東国の安定を望む今川にとっても長尾は敵。

 この時のための三国同盟。

(尾張を片付け、後顧の憂いを断てば、この三国同盟に隙は無い。長尾景虎は三国にとっての敵となる。存外、味方は多くなるまいよ)

 ただでさえ駿河、遠江、三河を掌握しつつある今川が、さらに米どころかつ太平洋側の貿易拠点でもある尾張を得たならば、並ぶ者などいなくなる。

 あまり大きくなられても困るのだが、今はそれが心強い。

 長尾景虎の侵攻、それに対する布石として今川の躍進は北条にとっても追い風であるのだ。景虎の侵攻、充分受け切れる、と氏康は考えていた。


 同時に、武田晴信改め、武田徳栄軒信玄も同じ考えを抱いていた。

 ちなみに信玄の改名、と言うより出家理由だが、それは氏康の隠居理由と同じものであった。永禄の飢饉、それに対する民の不安、不満を抑え込むために、信玄自らが仏門に帰依し、国内を安定化させるための出家である。

 ゆえに、当然だが――

「御屋形様」

「おお、次郎」

「またおなごの尻を追いかけて……出家されたのですからもう少し落ち着きを」

「男だったら良いのか?」

「……屁理屈を」

「がっはっは! 所詮は政治的配慮だ。女、酒、肉、全部やるぞ、俺は!」

「せめて帯くらい締めてください。はだけてますよ」

「ええ。まだヤリ足りないんだが」

「兄上!」

 五戒を守る気、ゼロである。

 とまあふざけた様子であるが、彼らもまた上洛後の長尾景虎の動向には細心の注意を払っていた。自分たちの協力者である神保を一蹴、それに対する驚きはないが、とにかく上洛後から越後に風が吹きまくっている。

 善光寺まで景虎にすり寄り始めたのだから、気を引き締めねばなるまい。

「それに、あと少しで剣の稽古をされるのでは?」

「あ、忘れてた。女はいつでも抱ける。今は剣だ剣」

「殊勝な心掛けで」

「あの野郎、マジの化け物だぞ。誰も手も足も出ないでやんの」

「それはそれは。引き抜いた甲斐がありましたね」

「おお。出会い頭の拳は効いたぜェ」

「ま、それはご愛敬と言うことで」

 信玄が化け物と称するのは、越後から越中、そして甲斐にやって来た大熊朝秀のことであった。現在は軍団に属すことなく、信玄や家臣らに剣の稽古をする指南役、のような役割を帯びていた。ちなみに彼が甲斐にやって来て喜んだ信玄であったが、朝秀は策謀を企て追いやられた立場のため、再会と同時に一発かましてきた。

 今では笑いごとだが、当時は結構な大事となった。それもまあ、今苦笑いを浮かべる次郎こと、武田信繁が上手く治めたのだが。

「大丈夫ですかね?」

「何が?」

「長尾景虎ですよ」

「……ま、なるようになるだろ。武田、今川、北条で駄目なら、今の日の本に長尾景虎を倒せる奴なんざいなくなる。それじゃ、つまんねえさ」

「……ですね」

 信濃、関東、多くが越後の長尾景虎になびき始めている。戦いは熾烈を極めることだろう。それでも、信玄は負ける気など無かった。

 今の自分なら渡り合える。なら、負ける要素はない。

 自分と、それに比肩する三名が並ぶのだから。


     ○


 永禄三年、五月末、酒浸りの生活を送っていた長尾景虎の下に――

「失礼いたします!」

 一つの報せが舞い込む。

「……何じゃ、騒がしい。頭に響くのォ」

「崩れました!」

「……」

 こいつ、叩き切ってやろうか、と景虎は思う。何を焦っているのか、もっと要領よく整理して話せ、と叱りたくなる。

 だが、

「今川が、織田に敗れ、今川義元が、討ち死にしたとのこと!」

 その一言で、


「は?」


 長尾景虎の思考もまた、混沌へと叩き込まれた。

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