第佰伍拾肆話:墜ちた蛟竜
松永久秀に支えられ、長尾景虎の前に座る三好長慶。かつての圧倒的なまでの圧、雰囲気は鳴りをひそめ、生気が随分薄くなった。身体も以前より細くなり、目の下には隈が刻まれている。その姿は何処か、あの日の覚明を思わせた。
「何があったも何も、くく、見ての通りだ」
「……天下の三好様なら、医者などいくらでも見繕えるだろう」
「まあな。だが、医者が万能ならこの世に病死はない。ごほ、連中など大して役に立たぬよ。まだ神頼みの方がマシだ」
笑う長慶の顔にも余裕はない。時折せき込むのもまた止められぬようである。
「久秀」
「……はい」
久秀は配下に酒を持ってこさせ、それを二人に注ぐ。病人が酒を飲むな、と言いたいところであったが、酒を注ぐ久秀とそれを受ける長慶を見て、何も言えなくなった。二人の間には口を挟めぬ空気感があったのだ。
「景虎も飲め」
「頂戴する」
「南蛮の酒だ。面白い味がするぞ」
「存じておるよ」
木杯に注がれた朱色のそれは、哀しいほどに血を連想させてしまう。
乾杯し、ぐいっと飲む。
「俺はな、ここ止まりだ」
「病人の弱音を聞かせるために来たのか? 天下の三好長慶ならば、病など気力で跳ね除けると言ったらどうだ? 俺は弱い三好など知らぬ」
「すまぬな、期待させておいて」
「三好が謝るな!」
あの時の怪物は、間違っても誰かに謝るような男ではなかった。常に頭は高く、万物を見下ろしていた。己すら、見下ろされていたのだ。
それなのに今、この男は頭を下げた。小さくとも、それは謝罪である。
そんな姿を見たくはなかった。こんな有様を知りたくなかった。長慶とはさほど深い付き合いではない。六年前に一度、会っているだけ。その後、文書のやり取りを幾度かしたが、そんなもので付き合いが深まることはないだろう。
だが、この景色は想像以上に景虎の胸を刺した。
「……俺とて病など蹴散らし、この時代の名が三好長慶、そう言ってやりたいがな。だが、見えぬのだ。あれだけ見えていた、進むべき先が」
「……」
長慶が酒を呷る姿を、景虎は無言で見つめる。感覚的な彼の発言であるが、景虎にもそういう感覚はあった。無敵感と言うべきか、先を見通せる時があるのだ。
明らかに情報が足りぬ山勘のような状況であっても、絶対に外さない根拠のない確信にも似た何か。長慶のそれと同じかはわからない。
だが、何となく同じような気がしていた。
何故なら、初めて会った時から思っていたのだ。
この男と自分は似ている、と。
「わかるだろう? 俺たちなら」
「……わからん」
「くく、素直じゃねえなァ。病のせいか、それとも俺の才がさび付いたか、もしくは、誰ぞに吸われたか……わからぬが、今の俺にあの感覚はもう、無い」
「病で気落ちしておるだけだ」
「阿呆。俺が其処を見誤るかよ」
「見えぬのだろうが」
「見えぬことは見えるのだ。俺を誰だと思っている?」
強固なる我。痩せてなお、枯れてなお、虚勢であってもこの男が三好長慶なのだと知る。それが嫌でも景虎に突き付けるのだ。
蛟竜が墜ちたことを。
「ごほ、クソ、酒が切れた」
「これはこれは気が利かず。申し訳ありません」
「おう。久秀が悪い」
酒も咳を少しでも抑えるため、のどを潤すためのもの。水や白湯でないのはこれもまた虚勢であるのだろう。精一杯、三好長慶を演じている。
長尾景虎をこれ以上、失望させぬ。
ただそれだけのために。
「それに、俺がどう思うかなど意味はない。畿内はもう、そう動き始めている」
「……公方様の上洛要請は、対三好のためではなく」
「そう。三好の代わりを探すためのものだ」
「……何故、気づけなかった」
畿内のパワーバランスとはとても複雑に絡み合っている。三好にしろ、三好の前に将軍家を操っていた細川にしろ、どれだけ巨大な力を得ても将軍家排除には動かなかった。むしろ内側に取り込み、上手く互いを立て合う共存関係を構築していた。
将軍が権威を、三好や細川が力を、そうやってバランスを保っていたのだ。
本来、権威も力も併せ持っていた足利家であるが、応仁の乱より今日に至るまでその力は大きく削がれ、何か寄る辺が必要となっていた。
だからこその管領細川家。ゆえにこその日本の副王三好長慶。
体面上対立することもある。そうせねば示しがつかない。共存関係とてあくまで他者、譲れぬ部分はある。我を通さねばならぬ時もあろう。
それでも最後の一線、歩み寄るようには出来ている。
それが畿内の理であった。
細川から三好が簒奪した共存関係。されど今、三好長慶が揺らぎ、その関係も危うさを秘め始めた。力無き将軍家は寄る辺を必要としている。
揺らがぬ柱を。共存する相手を模索していたのだ。
「……子は?」
「優秀なのがおる。が、普通だ。真っ当に優秀だ。だから、適さん」
「……そう、か」
頂点に立つ者には一種の狂気が孕む。普通に優秀な者が天に立つのは、ある意味で誰にとっても不幸なことであろう。地を這う者も、天に座す者も。
「義輝はぬしに期待しておるのだろう。前回、かなり気に入ったようだからな。だが、同時に京と越後、その距離は如何ともし難い。だから、他にも目を向けておる。畿内の内側はもちろん、外側にもな。斎藤、織田、武田、北条辺りか」
「越後より遠い者もおるぞ」
「実力が突き抜けておれば、距離など関係がない」
「……ふん」
要するに将軍は景虎を気に入っているが、それとは別に他国との力関係で抜きん出ているわけではない。だから他にも目移りしている、と言ったところ。
コロコロと柱を挿げ替えれば軽く見られる。
三好の次は慎重に選ばねばならない。
「……俺も丸くなったが、ぬしも随分変わったように見えるぞ」
「……別に変わっていない。ただ、所詮俺は一人の人間で、それ以上でもそれ以下でもない、そう自覚しただけだ」
「目から怒りが薄れている。今のぬしなら、ごほ、俺は興味を持たなかったろうな」
「互いに幻滅したわけか」
「くく、そう言うことだ」
三好は変わった。景虎も変わった。
たった六年、されど、人が変わるには充分な時間でもある。
「なあ、景虎よ。己を神だと思ったことはあるか?」
「ない」
「俺はある。だから俺は宗教に寛容なのだ。南蛮のキリスト教なども好きに布教させている。面白いものをくれるしな。それもこれも全て、俺こそが神であり他の全ては偽物、贋物を崇める愚か者共、と言う考え方が前提にあった」
「歪んでいるな」
「誉め言葉だぞ、景虎。要は神も仏も信じていなかったのだ、俺は。世界は俺の主観であり、この俺こそが主役であり、他は端役に過ぎない。そう思っていた。本気でな。だが、病を患い、先が見通せなくなって、思う」
「天下の三好長慶もまた人間であった、と」
「そう言うことだ」
長慶は咳払いし、そして真っ直ぐと景虎を見つめる。
「そして俺は、神の存在を信じるようになった」
「くだらん」
「神とは移ろうもの。俺が神の如し感覚を持ち合わせていたのではなく、俺に神が宿っていた、と考えれば今の醜態にも納得できる」
「くだらぬと言っている!」
「ぬしにも付いておるかもな。神か仏か、はたまた妖か」
咳き込みながらも長慶は嗤う。己が間抜けなことを言っている自覚はあるのだろう。かつての自分が聞けば、ボロクソに言うのは目に見えている。
それでも今、天から地の底へと堕ちて思う。
「……そして、もう一人」
「もう口を開くな。帰って寝ろ」
「織田弾正忠信長」
「……織田?」
あの三好長慶の口から意外な人物の名前が零れる。父親の信秀はそれなりに有名であるため景虎も知っているが、息子の方はイマイチピンとこない。
今川が絡むため、尾張の情報は逐一集めさせているが、信長自体戦はさほど強くない。この前も義父である斎藤道三が散った戦で、斎藤義龍を前に敗れて辛くも逃げ帰っている。あれは絶対に負けてはならぬ戦いであったはず。
道三が散り、息子が実権を握った。これで美濃は敵国となり、元々虎視眈々と尾張を狙う今川にとっては最高の状況となった。
あとはいつ食われるか、それだけであろう。
弟との争いに勝利したと聞いたが、今更尾張国内での戦いに勝利したところで状況は詰んでいるのだ。確かに尾張は米どころであり、貿易の拠点でもあるため豊かではあるが、だからと言って美濃の斎藤に敗れた者が、どうして三国の王である今川義元に勝てると言うのか。あらゆる点から見て、彼の上がり目が見えない。
それが長尾景虎の見立てである。
「この前、こちらに来ておった時にな。ちらりと見た」
「ああ。二月に来たんだったか。ふん、狙いは尾張の統治、その正当性を手に入れるための上洛であったのだろうが、目的は果たされなかったと聞いたぞ」
「その通りだ」
「六年前の俺よりも現時点で劣る。それが今川を捌くと? 夢物語だな」
「あり得るさ」
「俺にはそんな手見えん」
「父を殺された阿波の鼻垂れ坊主が天下を掴むことよりもあり得ないことなど無い。全ては世の流れ、つまりは神次第、と言うことだ」
「どうかしている」
戦歴から見て力が足りない。上洛の結果から見て権威も足りない。つまるところ政治力も大したものではないのだろう。少なくとも現時点では。
ならば、優劣など決まっている。
「風は奴に吹いている。少し前、今川は東国を中心とするために守護の責務を捨て、幕府との関係を事実上断ち切った。そこから俺が揺らいだ。本来、今川はこの局面で幕府がいの一番にあてにしたい大戦力だが、それがあって手を握ることは難しい。少なくとも足利が今川に寄り添うことはない」
「そんなもの風とは呼べぬ。精々がそよ風だ」
「あとは今川に勝つだけだ。それだけで全てが引っ繰り返る。空位となった権威、そこに滑り込む絶好の位置に、あの男はいる」
「それに勝つのが不可能だと言っている。俺は今川を知っている。あの男が一番厄介だ。今の晴信でも足りん。氏康でもな。そんな男の首を取るのが、勝ったり負けたりを繰り返しているガキ? くく、笑える冗談だ」
「ありえないと言えば、今の奴が斯波や織田本家を抑え、尾張の大半を統べている。そちらの方がありえぬさ。実力者であった父も、祖父も、成せなかった」
「敵方が間抜けだったから起きた幸運だ。あの男の実力じゃない」
「そこだ、景虎」
ぞっとする笑み、この瞬間だけ蛟竜が甦ったかのように感じる。
「その運こそが、風だ。その風に選ばれたモノこそが、次の俺だ」
「……運で、今川に勝てると?」
「それ以外、今の尾張に生き残る術があるかよ」
「……馬鹿げている」
「そうかな?」
先を見通せぬようになったと言っていた男が、景虎には見えぬ何かを見据えていた。景虎にはそれが何かはわからない。その風を彼は感じたことがないから。
三好長慶にあって、長尾景虎にはないもの。
長尾景虎にはなくて、織田信長にはあるもの。
「ごほ、久秀、酒」
「切れました」
「……まあ、いいか。用件は最初の謝罪で済んでいる。この俺がな、頭を下げると言うことはそう言うことだ。もう、俺に上がり目はない。だから、もう、ごほ、俺は京でぬしと、暴れては、遊んではやれん。それだけはな、謝りたかった」
「……気にするな」
「ああ。気にせん。どうやらぬしはもう、そこまで京に執着しておらぬよう見える。それならそれで良い。精々楽しめ。俺様のおらぬ世をな」
「まだ、死んでおらぬだろうが」
「三好長慶はもう死んでおる」
蛟竜三好長慶は死に、病を患ったか弱き人間三好長慶はまだ生きている。されど、彼にとっての己とは竜であったのだ。
人間に堕した時点で、死んだも同然。
「だがな、病を患って一つ、良いこともあった」
「そんなことあるかよ」
「あるとも。ぬしが砕けた物言いとなった」
「は?」
「これで対等だな、景虎」
三好長慶は最後に微笑み、自らの足で立ち上がった。久秀はあえて、その場では手を貸さず、主君の意地を見つめる。
「いつかまた、遊ぼうぜ」
「……ああ、長慶」
「くく、じゃあなァ」
六年前、まだまだ上り詰めると、足りぬと言っていた天下人、三好長慶は自らの足で舞台を下りた。最後に、同じ舞台で暴れたかった、いつか共演するはずだった同類に、友に、楽しみだった舞台に、背を向けて。
臥間が閉じられる。もう、おそらく、景虎の前に蛟竜は現れない。
松永久秀もまた立ち上がり、
「付け加えておきますと、織田信長なる者は神仏を愛し、荒れた時代を憎み、いつの日か帝へ、天下へ静謐を、と考えているそうです」
「……」
「殿や長尾様とは、真逆ですな。では、失礼いたします」
蛟竜が墜ちた。そして、彼の見立てでは尾張のガキが上がってくると言う。真逆の考え方、その者がもたらすは静謐、らしい。
確かに作為を感じざるを得ない。この前、やはり神などいなかったと確信したばかりなのに、もう揺らぎ始めている。
そこにはいなかっただけ。
在ると言い切ることは出来ないが、無いとも言い切れない。だから宗教とは成立するのだ。今までは鼻で笑っていた。愚かだと嘲笑っていた。
だが、もし、もし、織田が今川に勝利でもしたら、いつか破壊者に化けようと画策していた蛟竜の座、空位にその男が座すとするなら、
「……さらばだ」
そこに天の、神の、差配が、作為がないと自分は言い切れるだろうか。
もし、この世界に神がいるとすれば――
「……」
景虎の眼に怒りが、ちらつく。かつては神がいないことに絶望した。愚かなる人間の治世に、薄汚れた者たちの醜悪さを嫌悪した。
だが、今は人間の汚さを飲み込めるほどには、大人になった。
だからこそ、今は真逆。
もし神がいるのなら、この悪辣な筋書きを用意しているのなら、それこそが許し難いことなのではないか、と思う。
神などいない。かつて得た大前提。
その揺らぎが、景虎の怒りにほんの少しだけ、再燃させる。
まだ、確信は遠い。ただの揺らぎでしかない。
だけどもし、もし、景虎が神を信ずるようになったら、その時の怒りはもう、きっと誰にも止められない、かもしれない。
そして――
○
時をほぼ同じくして――
「どうしました、小島様」
「……何でもないから、気にしないで」
「……?」
霞む視界。目の疲れかと思いそこへ手を伸ばすと、今まで感じたことのない凹凸を、彼女は自らの顔で、指先で感じた。
そして、その場を離れ、水面に映る自分の貌を見て――
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