第佰伍拾伍話:近衛前嗣

 長尾景虎が上洛してはやひと月、景虎は京を動けぬまま立ち往生していた。寺社を詣でたり、各所に挨拶をしたり、様々な理由はあるが――

(……長慶)

 三好長慶、あの男が墜ちたことを知り、それゆえに景虎にも惑いが生まれていたのだ。室町将軍足利義輝は本気で三好に代わる拠り所を模索している。それを知った以上、これは好機でもあるのだ。将軍家にすり寄る絶好機。

 京から離れてしまえばそれを逸するが、さりとて越後が本拠地である以上、京に連れてきた千五百程度で何が出来るのか、と言う所もある。

 正直に言えば、戻る以外の選択はない。今こうしている間にも、おそらく武田は信濃に種をまいていることだろう。

 わかり切っているのに、惑いの中にいる。

 景虎にしては珍しいことであった。まあ、今後のことを考えた時、京ですべきことなど尽きぬほどあるため、無駄な時を過ごしているわけではないが。

「御実城様、客人が参られました!」

「……今度は何処のどいつだ」

「近衛家、と」

「……それはまた大物だな。現役の方か?」

「はい」

「お通しせよ。すぐに支度をする」

「承知!」

 景虎はすぐに支度をする。近衛家、五摂家が筆頭であり、公家の頂点に位置する家柄である。景虎の記憶に残る幼き五摂家の少年。

 現役の方であれば、おそらく彼なのだろう。

 京にもまれ、どう変化したのか。それを見るのも一興だ、と景虎は思う。


     ○


「お待たせ致しました。長尾弾正少弼にございます」

「おお、お初にお目にかかる。私は近衛前嗣だ。関白を務めておる」

「……存じております」

 いきなり諱をぶちかましてくるスタイル。そもそも現役の関白が下々を呼び寄せるのではなく、自ら出向いてくる時点で型破りなのは目に見えている。

 何よりも近衛前嗣の眼、あの頃と一切変わらぬ光に満ちていた。

 より、力強さすら増している。

「会いたかったぞ」

 自ら立ち上がり、景虎に握手を求めてくる始末。控えている越後勢がびっくり仰天している中、近衛家の連中に変化が見られぬのはいつものことだから、か。

 とんだ関白もいたものである。

「実はな、私は六年前、そなたを見ていたのだ。三好殿に見ておく価値がある者だ、と説明されてな。一目見て思った。そなたは私の同志だ、と!」

「……ど、同志、でありますか?」

「左様。室町殿からも聞いておる。そなたが天下静謐を切に、切に! 望んでおることを。私は感動した。遠く越後から、天下に漂う暗雲を払うために遥々来訪してくれた、その心意気に! 感動した!」

「……あ、ありがとうございます」

 変わっていないどころか、むしろ尖鋭化していた近衛前嗣。ちなみに前嗣は四年前までは晴嗣と名乗っていた。三好、足利の対立に挟まれ、三好側に残されていた前嗣は足利家との関係を断つ、と言う建前の下、改名していたのだ。

 ちなみのちなみに晴の字は先代将軍足利義晴のもの。武田晴信や長尾晴景も義晴の一字を貰ったものである。

「三好殿から居場所を教えてもらい、いても立ってもいられず来てしまった。本来は約定を取りつけてから来るべきであったが……許せ」

「いえ。むしろ光栄でございます」

「そうか! うむ、長尾殿は優しいなぁ」

「ど、どうも」

 なるほど、これは三好長慶からの贈り物であるのだろう。現役の関白、公家の最高位に位置する五摂家の当主。彼が上手く操り、己が力としてきた一端を、景虎にくれてやる、と。今回の一件、そう景虎は受け取った。

「そなたの力が必要だ。私や三好殿と共に、どうか天下静謐の一助となって欲しい! 私に出来ることであれば何でも協力しよう!」

 景虎の頭が素早く回転する。この純粋無垢な正義男に対し、果たしてどう動くのが、どう見せるのが正しい振舞い、正しいこの男の運用方法なのか、を。

「申し訳ございません、殿下」

「……長尾殿?」

「私は及ばずながら越後一国を預かる身。同時に武田、北条を名乗る伊勢氏らに荒らされる信濃を、関東を、東国を静謐に導かねばなりません。本当の天下静謐は、畿内の外にもそれをもたらし、初めて成るものかと思います」

「お、おお。おお! その通りだ。私は何と、何と浅はかであったか。すまぬ、腹を切って詫びたい気分だ。そなたが正しい。私は、畿内のことばかり考えていた。私も考えを改めねばならぬな。確かに、まずは外を固めねば」

「東国は私めにお任せください。いずれ必ず、東国に静謐をもたらし、畿内へ舞い戻って参ります。その時にこそ、共に――」

「決めた! 私も東国へ、越後へ赴こう!」

「……え?」

「殿下!」

 さすがに近衛前嗣の配下も苦言を呈する。だが、当の本人はケロッとしていた。何が悪いのか微塵もわかっていない様子である。

「殿下。それはいくら何でも……畿内の政もありましょうし」

「構わん! 畿内には三好殿が、彼らと手を繋いだ室町殿がおる。ならば、今私がすべきことは京に座すことではない。その外側に静謐をもたらすことこそ、我が使命。いや、天命であろう! この出会いもまた、そう言うことなのだ!」

(こ、こいつ。長慶の野郎、とんでもねえもん押し付けてきやがって)

 景虎も大概型破りな人生を送ってきたつもりであったが、この男はそんなレベルに収まらない。これで近衛の家、五摂家筆頭なのだから世も末であろう。

 現役の関白が京を離れ、越後へ。

 こんなもの、歴史に名を刻む一大事である。

「そうと決まれば誓いあうための書面が必要だな。うむ、帰ってしたためてくる故、しばし待て。明日、また来るぞ!」

 そして、嵐のように去っていく。

 長尾景虎は愕然と、それを見守るしかなかった。他の者も同様に。

「か、関白様が、越後に来る?」

「夢でも見てんのか?」

「皆、腰抜かすぞ」

「俺、すでに腰抜かしてる」

「俺も」

 ある意味、公家の最上位、五摂家でしかありえぬ正義馬鹿、であるのだろう。帝を除くほとんどの者が、近衛家に物申すことなど出来ない。彼の馬鹿正義に苦言を呈せる者自体、とてつもなく限られている。

 その上、おそらく三好長慶はそんな彼を面白がって、彼が曲がらぬよう八方手を尽くし、自らの玩具として楽しんでいたのだろう。

 元々そう言う気質で、五摂家で、三好が守り、あれが爆誕した。

「お、御実城様」

「……あとで公方様には俺からそれとなく話を通しておく」

「は、はい」

 この一件が、関東を揺るがす大事件に繋がることを、今の彼らは知らない。まあ、そもそも関白が京を離れ、東国へ訪れること自体大事件なのだが。

(……笑えるのぉ)

 景虎は騒然となる中で、一人くすりと微笑む。

『私は生涯を天下静謐に費やそう。約束である』

 ほんの少しすら変わらず、今に至る正義の男に。ここまで変わらぬ人間がいるかよ、と思いながら、あの御池のほとりを、想う。

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