第佰伍拾参話:上杉の七免許
永禄二年、五月。
長尾景虎率いる越後勢千五百が京へ足を踏み入れる。かつての小規模な上洛とは異なる大規模なもので、当然京の民からも多くの視線が向けられる。
彼らは畿内の実力者ではなく、越後と言う遠方よりやって来た群れであるのだ。畿内の、京の者からすれば異様な光景に映ることであろう。
威風堂々。今回は請われて訪れた立場、皆肩で風を切って進む。
ただ、多くの視線はただ一点に向けられていた。
長尾景虎、ただ一人へ。
内情はともかく、彼の戦績が不敗であることはここ京にも伝わっていた。普通、そんなことはありえない。如何なる実力者でも、三好長慶でさえ敗北は経験している。その傷を広げなかったのは名将の手腕なのだろうが、そもそも景虎は負けなし。少なくとも外側から見た時に、彼の名に傷は一つもない。
だからこそ目立つ。
六年前と何一つ変わらぬ状況でも、さらに六年戦績を積み上げ、不敗と言う看板はさらに輝きを増した。もはや、その名が独り歩きするほどに。
常勝不敗、毘沙門天の化身。
彼の長身が、彼の美しい相貌が、彼のまとい持つ空気が、視線を吸いつける。
もはや誰も彼を無視できない。
越後の龍、堂々上洛。目指すは帝がおわす御所である。
○
帝からの要請に従い禁中の見物を行う景虎。ただ見物せよ、とあえて命じたのには訳があるような気がした。それが何なのか、もし景虎の想像通りであればようやく、ようやく目の当たりにすることが出来るのだ。
今回の上洛における最初にして最大のハイライト。
それは帝の私的な在所である内裏の見物中に起きる。
「そなたが長尾弾正少弼か」
「ッ!? ははッ!」
『偶然』、景虎の前に第百六代正親町天皇が現れたのだ。非礼とならぬようすぐさま頭を下げたが、景虎の眼は確かに帝の姿を捉えた。
それは、
(……く、くく、やはりな、やはり――)
ここで景虎は確信を得る。本当にそうなのか、ずっと疑問に思っていたこと。この世に神仏がいるのなら、何ゆえ世はこれほどに荒れ果てるのか。
その答えを探していた。ここにならそれがあるのだ。
何故なら彼らは、彼らのルーツは――
(ならばいい。それなら、よいのだ)
景虎は微笑み、人の作為による偶然の出会いに身を任せた。景虎はこの時、天盃と御剣粟田口吉光、通称『五虎退』と号す短刀を賜った。
かつてとの違いは長尾景虎と言う男の看板、その価値が上がったために扱いが異なった。御簾越しに顔を見ることすら叶わなかった前回との違いは、それだけ。
ただそれだけであったのだ。
○
「今後とも我らと共に盛り立てて行こうではないか」
「ははっ!」
室町幕府将軍、足利義輝を前に頭を下げる長尾景虎。禁中を参内した後、朽木から京へと五年越しに御座所を移した将軍は、若いながらも老練な雰囲気を醸し出していた前回と異なり、雰囲気にようやく年齢が追いついてきた。
少しばかり、追い越している気も――
「武田とは上手くやれぬか?」
「恐れながら、信濃での戦は全て武田方の侵略が切っ掛けでございます。我らは静謐を望めども、武田方にその気はないかと」
「ううむ」
よほど東国の安定を欲しているのだろう、義輝の表情は暗い。
(三好とは何だかんだと上手くやっていると思っていたのだが、ここまで窮するほどに事態は深刻であるのか?)
景虎もまた義輝の反応に対し、自らの見込み違いを懸念する。三好と足利、表面上一応和睦と言う形で決着はついたはずで、ある意味そこまでが彼らにとっての既定路線、端から用意されていた着地点であると思っていたのだ。
どちらにせよ、三好には格が足りない。未だ建前として管領家の細川を主君とせねば今の立場すら周囲の納得は得られず、最終的には幕府を立てねばならぬ立場でもある。ゆえに彼らは最後の一線、運命共同体であるはずなのだ。
その辺り、前回は互いに弁えているように感じられたが。
長慶の言動はともかく――
「北条はどうだ?」
「関東管領、山内上杉を道理なく追いやった蛮族であります。越後にて心を痛めておられる管領殿を思えば、彼らのやり方を許すわけにはまいりません」
「……何とも上滑りした言葉よなぁ」
「……」
義輝は景虎の取りつく島の無さに苦笑するしかない。景虎とてこの部分を退くつもりはなく、義輝の望みをかなえることは難しい。北条と武田、双方が納得する着地点など現状、どうしたってありえないのだ。
何故なら彼らと自分たちはまだ、格付けを済ませていないから。
三方、現状退く理由がない。
ゆえにこの場は景虎だけでなく、もし晴信や氏康がいたとして、同じような言葉を返すしかなかっただろう。義輝とてその辺りは理解している。それでもここで触れざるを得なかった。そこが景虎に一抹の不安を与える。
畿内に何があったのか。
足利か、三好か、それとも別の勢力か――
何かある。何もなければ義輝がここで無理筋を押す理由はないから。
こうして若干雲行きの怪しさはあれど、出来ることはやる、出来ぬことは出来ぬと示し、その上で自分は室町幕府に忠誠を誓う存在であるとも示した。
これで最低限、足利義輝の求める立場表明をしたのだから。
ゆえに――
「御実城様、まことでありますか⁉」
「こんな嘘つくかよ」
「お、おお!」
窮していた分、義輝からの『贈り物』は相応のものであった。
塗輿の免許などは以前与えられていた特権と同じく、いち守護代としては破格のものであり、実質的な守護、その中でも有力な者にしか与えられぬものである。が、現在は守護代行として国主の立場である彼にとってさほど大きなものではない。
だが、裏書御免、これに関しては越後の皆を驚かせた。
この免許は相手に送る文書を包む封紙、そこに本来記載せねばならぬ名字や官途名を省略しても良い、と言うものである。一見すると大騒ぎすることもないように思えるが、これが許されているのは管領家や足利一族のみであり、越後の長尾家と言う田舎侍が彼らに匹敵する権利を持つ家である、と示すものであったのだ。
権威と言う意味ではこれ以上ない贈り物であろう。
以前賜った免許などを含め、これらを俗に『上杉の七免許』と呼ぶ。
加えて、山内上杉当主に対する進退や、信濃の国政、これらに意見を加えることが許された。回りくどい表現であるが、要するに関東及び信濃に対する全てを長尾景虎に委ねた、と言えよう。これもまた大きい。
いち大名を超えた権威を長尾家は得たのだ。
「……この事実は、山を動かすぞ」
腐っても幕府、痩せても枯れても足利一族。彼らの言葉は決して軽くない。実力では勝る三好や管領家の細川らとて、傀儡とするため奔走したとて、それを取り除くと言う発想にはならないのが足利一族と言う看板である。
その長から東国の全権を委任されたに等しい長尾景虎の行動は、実質的に足利義輝のそれに等しいこととなる。
東国における最強の大義名分を得た。
情勢は動く。嫌でも。
○
大きな力を得た長尾景虎であったが、その大きさも含めて幾ばくかの不安もあった。与え過ぎている。大き過ぎる。たかが東国の情勢に、あまりにも敏感過ぎやしないか。六年前は御座所も朽木で、それどころではなかったこともあろうが――
(それにしても、だな)
何でもいいから東国に静謐をもたらして欲しい。そのやけくそじみた願いを感じずにはいられない。越後にとって美味しい状況ではあり、得をした立場のため貰えるものはありがたく頂戴しようと思うが、理由を知らねば気味が悪い。
いったいどんなからくりでこうなったのか。
「……失礼いたします、御実城様」
「何だ持の字。こんな遅くに」
「その、お客様です」
「阿呆。こんな時間に通すな。明日来いと伝えよ」
「……相手は、三好殿です」
「……本人か?」
「取次は松永殿でしたが、お会いになられるのは、ご本人だと」
「すぐ通せ」
「はっ!」
そのからくりであろう者が、自ら来てくれた。景虎はほっと胸をなでおろす。これでようやく気持ち悪さを解消できる。
あの三好長慶がこんな夜分に、お忍びで現れたのだ。ただ事ではあるまい。おそらく今回の特別扱いにも関係してくるだろう。
その発想自体は間違っていなかった。
実際に彼が、その理由であったのだ。
ただし――
「失礼いたします」
「ぶは、相変わらずだな、松永殿よ。うさん臭い顔をしておるわ」
「ご無沙汰しておりまする」
「で、主は?」
「今参ります」
「何だ、神妙な顔つきで」
「……」
それで――
「久しいなァ、景虎ァ」
「……なっ⁉」
「何だぁ、その、妖でも見たような面は」
気持ち悪さが解消するとは限らない。むしろ、その答えが景虎を苛むことだってありえたのだ。その発想はなかった。予想だにもしていなかった。
この男は天下を覇する蛟竜、三好長慶なのだ。
その男が、
「ごほ、ごふ、くは、はは、仕方ねえ、がな」
病に侵されていた。人相が変わるほどに。
「笑えよ、景虎」
「……何が、あった?」
笑えぬ現実が目の前に突如、現れる。
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