第佰伍拾弐話:いざ上洛
たった四年にも満たぬ元号弘治が終わり、永禄二年(1559年)四月、忙しい合間を縫って長尾景虎は小さな寂れた墓の前に座り、ちびちびと酒を飲んでいた。普段の豪胆極まる飲み方ではなく、落ち着いた様子である。
「昨年、公方様より上洛せよとの要請を賜った。これで公式には二度目、実際は三度目の京となるか。懐かしいのぉ、覚明よ」
墓石は物言わず、ただそこに在るのみ。
「たった六年ではさほど印象も変わらぬだろうが、行って来る。前回の遊興とは話が違うぞ。今回は公方直々のお誘いだ。武田との和睦を仲介した時からきな臭いとは思っておったが、くく、昨年三好と衝突に至り、京入りこそ叶ったがかなり不利な条件で和睦を結んだのだろうな。慌ててこちらに声をかけてきたわけだ。幕府に忠実な武家、俺たちのような忠義者へ、な。ぶは、笑うなよ」
前回の上洛は畿内との繋がりを得るために、こちらからお邪魔した形である。銭をたんまりとばら撒いたからこそ、各権力者への御目通りは叶ったが、それはあくまでこちらから頭を下げた形でしかなかったのだ。
しかし、今回は実質的に室町幕府将軍、足利義輝が協力者である長尾景虎に頭を下げ、京に入ってもらう形である。
同じ上洛でも『重み』がまるで違うのだ。
おそらく、得られる『モノ』も。
「信濃はともかく、確実に関東への大義名分はもぎ取って見せる。つい先日も武田北条に足止めを食らったからな。今度はこちらが連中の足を引き千切ってくれる。ぶはは! そろそろ格付けしてやらねばなるまい、誰が最強かを、な」
上洛における最低ラインは関東遠征への大義名分確保である。武田が北信濃で存分に暴れてくれたせいで随分と遅れたが、前回の上洛から変わらずに本命はそこなのだ。だから越後に山内上杉を受け入れた。
その行動を取った時点で、関東へ足を延ばすのは意思表示をしているも同然。問題はまあ、相も変わらず武田が暴れ散らかしている所なのだが。
「本当なら晴信にこそ俺の力を示してやりたいところだが、あの男年々やり辛さが増しておる。俺の嫌なところをねちねちと攻めてきて、俺が出向くと全力で巣へ後退。さすがの俺も完全に固めた巣へ突っ込むことは出来んから、困っておる」
嫌味を言いながらも景虎の顔には笑みが浮かんでいた。武田晴信は難敵である。最初の印象こそ今川義元、北条氏康には一歩劣るよう見えていたが、対峙する度に何かを得て、急激に成長する様は一種の怪物であろう。
今となっては晴信が一番やり辛いところまで来ているかもしれない。暗躍させたら国を股にかけ、河川など天然の要害を用いた守戦の堅さは一級品。攻めとて信濃勢が手も足も出ない様子を見るに、景虎が特別なだけで彼自身は強い。
隙が無い。いや、無くなった。
それでも本来、ここまで他国である信濃で当主が好き放題していれば後顧の憂い、本国で何か起きてもおかしくないはずだが、そこが全く揺らがないのが甲斐武田の怖い所である。越後長尾の景虎があんな立ち回りをすれば、即日揚北衆がこんにちは、春日山は火の海となり、存分に略奪した揚北衆はホクホク顔で地元へ帰るだろう。
信濃での立ち回りも目立つが、それ以上に内政での巧みさこそが武田晴信の真骨頂であると言える。何事も地盤を固めてこそ、物事の基本である。
そしておそらく、景虎も内情を詳しく知るわけではないが、晴信遠征の際本国を固めているのは弟の信繁なのではないかと景虎は見ている。
兄が外で暴れ、弟が内を守る。
長尾景虎には真似の出来ないことである。もし、晴景が存命で、彼が当主で景虎が古志長尾の当主として彼の下で働いていれば、そういうことも出来ただろうが。
「改めて思えば、今の世は悪くない。壊すべき世界など端からなくとも、戦うべき相手、いや、遊び相手には事欠かんのだ。今更ながら俺は楽しむぞ、覚明よ」
残った酒を墓前に添え、景虎は立ち上がる。
「それを肴に酒でも飲んで見物しておれ」
景虎は微笑み、この場を去る。父や兄にもここに来るより前に挨拶をした。この上洛より先、しばらくはのんびりすることも出来ないだろう。
関東、そして――
(鬼の居ぬ間にしかと固めておけ、晴信。ここからは俺が遊んでくれよう)
ここからはもう『長尾景虎』を演じる気はない。そのために使わなかった手段も存分に使い、北条武田と遊び尽くす。
その先は越中から西へ伸ばし、三好と共に天下を吹き飛ばすのも一興。使命でも、怒りでもない。ただ、面白そうだからそうする。
童心に帰り、遊び相手欲しさに暴れ散らかすのだ。
枷の外れた怪物は一人、笑う。
○
「才能あるのぉ、梅と違って」
「小島様もお上手ですよ」
「こやつ、世辞を覚えよったわ。ガハハ!」
「……」
ゲラゲラと梅を馬鹿にする景虎に対し、どちらも好きな弥太郎は何とも言えぬ表情で二人の間を右往左往する。琵琶などの教養に関しては幼き頃より全力で逃げ続けてきた梅なので、この件に関しては何も言えない。
「そう言えばぬしはいつからこやつが女人であると気づいておったのだ?」
「……?」
「梅太郎と名乗っておっただろう?」
「あ、ああ。そう言えば、そうでしたね。ただ、その、きれいな声でしたし、よいにおいもしましたので」
「初めから看破されておったか。ぶはは、男装もまだまだよのぉ」
「弥太郎が敏感なだけ。他の人にはバレたことない」
「す、すいません」
「弥太郎は何も悪くない。悪いのはとらだから」
「おおん? 何が悪いんじゃ、言うてみい」
「存在」
「……誰が主君かわからせて欲しいと見えるな」
「また権力をかさに着て……これだから男は」
「権力なんてものはの、使うためにあるんじゃい」
最近では弥太郎と会うため林泉寺に訪れる時間が、お互い自然と被るようになってきていた。梅は寺の食事は肉がないので寂しかろう、とかつての虎千代よろしく境内で狩猟した肉を調理し坊主を悩ませ、景虎はふらりと現れる度に弥太郎へお手本を披露し、悪口交じりに丁寧な指導をして去っていく。
時折食事を共にすることも。
「俺はしばらく来れん」
「京に行かれるのですね」
「おう。梅から聞いたか」
「はい」
「私は弥太郎とお留守番。離れの留守居」
「何が留守居か馬鹿馬鹿しい。が、他に適役もおらぬからな。任せるぞ」
「御意」
「弥太郎、土産は何が欲しい? 何でも言え。俺は金持ちだからな」
「無事でとら様が帰って来ていただければ、それで」
「愛い奴め。よし、最近俺も太刀に凝っておるからな。あちらで名のある刀でも買い付けくれてやろう。春日山に館を建てられるぐらいのやつだ」
「そ、そのようなもの、もらえませぬ。それに、めしいなので」
「めしいでも剣の達人はおるらしいぞ。まあ、あれだ。琵琶に限らず技術などあって損はない。もし当道座に与することとなれば、琵琶法師として世の中を旅する必要も出て来よう。備えあれば憂いなし、だ」
「太刀を佩いた琵琶法師など聞いたことがありません」
「俺も無いな。ぶはは」
弥太郎の頭を撫で、景虎は微笑む。景虎に息子はいない。作らないようにしてきた。ずっと目を背けていたのは、彼は自分のことがよくわかっているから。
赤の他人でこれなのだ。我が子ならきっと、こんなものでは済まない。
生むまでもなくわかる。馬鹿に成る。子のために馬鹿をすることも出てくるだろう。それを力で捻じ伏せ、成し遂げてしまう腕力が自分にはある。
だから、作らなかった。家が乱れるから。
そもそも、長尾家の明日を良いものとして残す気もなかったから。
「適当に見繕ってくる。それでよいな?」
「はい。楽しみにしております」
「期待しておれ」
「私は弓が欲しい。なるべく高価なやつ」
「ぬしへの土産は決めてある」
「なに?」
「琵琶だ」
「⁉」
「精々練習して上手くなれ。ぶはははは!」
「ぐぎぎ」
笑うことなどこんなにも簡単なことだったのだ。心の赴くままに、感情を表に出せばいい。無論、公私のケジメは必要だ。だが、あえて私の部分まで引き締める必要など何処にもない。誰も見ていないところでならば、構わないだろう。
昔から人は良く、お天道様が見ていると言うが、この世界に神仏などいない。神仏などいないのであれば、お天道様に見られたところでこれまた意味などない。
景虎はここで心地よさを感じていた。
初めは当道座へ、と考えていたが、最近は手元に置いておきたくなってきており、一度当道座に所属させた後、長尾家お抱えの琵琶奏者として雇えば良いなぁ、と考えるまでほだされつつあった。
大した公私のケジメもあったものである。
○
永禄二年、四月末。
長尾景虎率いる越後の軍勢千五百は京へ向けて出立した。すでに本願寺へ通達し、くれぐれも道中無用な争い無きように、とも伝えてある。本願寺以外の勢力にも当然根回しは済んでいるし、そもそも今回の上洛は室町幕府の将軍、公方様直々の要請に応えたものである。道を阻むは上意に逆らうも同じ。
つまり、今の彼らは将軍と対等な軍勢であるとも言える。
以前とは段違いの注目度、当然他国の諸侯も彼らの動向には注視していた。
あれから六年、時流に乗り長尾景虎は飛翔する。
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