第佰肆拾漆話:国難

 弘治三年九月、長尾景虎は春日山に戻っていた。あれから幾度か衝突はあれど、決戦と呼ぶべき戦いはなく、消化不良の結末となっていた。

 ただ、その割には景虎も上機嫌であり、勝ち負けつかずの何とも言えない結果であっても、充分楽しんだように見受けられた。彼の機嫌が良いのは、家臣としても非常に気が楽である。何せ少し前に出奔したばかりなのだから。

 その辺りには嫌でも気を使うだろう。

 家臣や参戦した諸侯らにとっても、自由意思での戦場は気分もよく、好き放題略奪した者にとっては収穫前のボーナスを得たようなもの。在地に戻り、今頃はパーッとやっている頃合いであろう。春日山もそうしたい所。

 しかし――

「御実城様、昨今越後国内では病が広がっております」

「……いつものことであろうが」

「はい。ただ、いつもよりも重なっている、とだけ」

「……むう」

 残念ながら国主たる景虎には戦などよりもよほど重苦しい案件があった。それは疫病への対策、である。

 越後に限らず古今東西、あらゆる場所で疫病と言うのは顔を出し、蔓延していた。結核、天然痘、ハンセン病等々、現代では克服しているものもこの時代では感染し、生き延びた者のみが免疫を得る、と言う対処法しか存在せず、隔離し遠ざけたり、神仏に祈るしかなかった。民間にはまじないや何の意味もない治療法が蔓延り、それもまた世の混乱させる遠因となっていた。

 実際につい数年前、天文から弘治に元号が切り替わった時も、戦乱『など』の災異によるものとされており、そこには疫病なども含まれている。現代とは異なり当時の元号はそう言った悪しきことが重なった際などにもゲン担ぎとして変更されることも多々あり、実際に南北朝の時代には六十年の間に八回(北朝)も疫病絡みで改元が行われている。戦乱と飢饉、疫病はセットなのだ。

 荒れた時代では人の免疫は低下する。そこに病が付け込む。さらに荒れる。

 いつの世もその繰り返し。

 しかも、ポルトガルの鉄砲伝来とほぼ時同じくして倭寇が大陸から梅毒を持ち帰り日本へ上陸、すぐさま猛威を振るっていた。春日山でも感染者と見られる者は増え続けている。この時代には当然対応策など無く、成されるがまま。

「隔離するにも限度があります」

「……難儀よなぁ」

 明確な治療法もなく、正しい知識もない時代。例えば景虎が以前、旅の道中に出会ったハンセン病(らい病)の女性に関しては、発症後顔などに後遺症は残ってしまったが、発症後かなりの年月が経っており、完治していると考えられる。

 そのため感染源とはなり得ない。むしろ五年から十年と言う長きに渡る潜伏期間を持つハンセン病は、症状が発症していない菌保有者の方が危険であるのだ。が、そのような知識は当然存在せず、この時代では見た目だけで忌避されていた。

「実綱、何か画期的な対策はあるか?」

「神仏にでも祈りましょうか」

「……死ね」

 この時代の疫病は天災と同じ。嵐が過ぎ去るのをただ待つしかない。人の手及ばぬ神が与えたもうた試練。天然痘(疱瘡)など疱瘡神という悪神の祟りと見なされ、畏れられていたほどである。その名残は赤べこやさるぼぼなどに見られる赤色、天然痘避けの『赤』として現代にも伝わっていた。

 悩み、惑い、されど手の施しようがない。

 これは人類史が長年抱えてきた苦難の一幕であった。


     ○


 人質、千葉梅の朝は早い。

 まだ日も昇り切らぬ早朝に男装した彼女は誰よりも早く火を起こし、飯炊きに精を出す。館の皆のため、だけではなく己の分も炊き、飯を握る。そして、馬を駆り、城門を抜けて行った。片手には鷹を乗せ、街から遠ざかりながら獲物を探す。

 同じ朝でも上野国と越後では大きく異なる。土の匂いが鼻腔に染みるようであったかつての郷里と比べ、越後春日山の匂いは何処か塩っ気を孕む。ここに来てしばらくは慣れなかったが、さすがに今は慣れた。

 と言うよりも、少しずつ故郷の匂いを忘れている、が正しいか。

「見つけた」

 林の木々、その隙間に兎を見る。

「ホウッ」

 腕を振り、鷹はその勢いと共に飛翔する。地面を滑るような軌道で滑空し、そのまま兎が逃げ出す暇すら与えずに爪を立てる。

 鷹の爪は強靭である。革の手袋をしていてもなお、力強さを感じるほどに強い。兎の柔らかな肉など、すぐに引き裂いてしまうだろう。

「よく出来ました」

 兎を仕留めた褒美に干し肉を与え、獲物を頂く。これを怠ると鷹は当然機嫌を損ね、けち臭い主人に爪を突き立てることであろう。

「さあ、次」

「キィ」

 今日も快調な滑り出し。本日の食事は豪華になるぞ、と彼女は微笑む。あの大食漢が無事に帰って来てから、館の食事量が跳ね上がった。食事を用意する者にとっては痛しかゆしなのだが、彼女はその悩みすらも嬉しかったのだ。

 生きて帰って来て、友にご飯を食べる。

 そんな当たり前が、彼女にとっての幸せであった。

 ゆえに彼のいる間は彼女も少しばかり奮起する。米が好き、肉が好き、酒が好き、彼の腹を満たすために人質は今日も東奔西走していた。


     ○


 それなりに獲物も確保できてホクホクの梅は春日山の城下へ戻る。馬に騎乗した男であるだけで周囲は武士と認識し、道を開けてくれるのはほんのり申し訳ない気持ちになってしまう。騙しているわけではないのだが――

 この獲物をどう調理しようか、そんなことばかり考えていると、

「……」

 普段の春日山とは違う景色が目の端に飛び込んできた。華やかな通りから少し外れたところに物乞いが列を成していたのだ。普段であればこの通りから目につくところに彼らはいない。だが、今は裏通りも飽和しているのだろう。

 病の流行が、彼らの存在に日を当ててしまう。

 もちろん、彼女とてこの時代の人間。普段は哀れに想いながらも見て見ぬふりをする。キリがないのだ。差し伸べる手が足りないから。

 ほんの一部にだけ手を差し伸べる行為に果たして意味があるのか、自己満足ではないのか、争いの元となるのではないのか、色々と考えてしまう。

 だが、今日は何故か――

「……」

 目についてしまった。

 裏通りから少しはみ出たところに力無く座る少年。馬から降りて近づいても顔をあげない。目元を見れば、その理由がわかる。

 おそらくは疱瘡、天然痘に発症し両目の死力を失ってしまったのだろう。どういう出自の者か知らないが、住処を追われ、春日山へ流れ着いた。

 ちなみに天然痘由来で視力を失う者は少なくない。有名なところでは後年活躍する武将、伊達政宗なども幼少期に疱瘡が元で片目の死力を失っている。宣教師が残した逸話として、欧州に比べ日本は全盲の者が多く、その後天的な失明者の大部分は天然痘由来なのでは、と言われているほど、身近な病であったのだ。

 目が見えぬゆえ、物乞いをするしか生きる術がない。そう遠からず、この少年は死ぬだろう。珍しいことではない。この時代ではよくあること。

「……もし」

「あ、どうか、おめぐみくだされ」

 今気づいたかのような反応。全盲の者でもそれなりに年季の入った者は気配を感じ、足音や匂いなどで相手を見る。それが出来ぬと言うことは目を失い日が浅いと言うことだろうか。どうであれ、彼女は少年の声を聞き、顔を歪める。

 何故、声をかけてしまったのか、それは彼女自身にもわからない。ただのみなしごならばともかく、疱瘡にかかった子など城には連れていけない。

 何も出来ぬのに、無責任にも声をかけてしまった。

「なにとぞ」

「……これぐらいしか持ち合わせがない」

 梅は自らの昼食用に用意した握り飯を分け与える。それに触れ、笑みを浮かべた少年は、腹を空かせていたのだろう貪り喰らう。

 その様を見て、彼女はさらに表情を暗くした。

(この子は違う。あの子は死んだ。見た目も、髪の色も、何もかも、違う)

 幻影を振り払うかのように彼女は首を振る。だけど、そこで彼女はハッとする。幻影に、顔がなかったから。丸くて、髪の色が自分に似ていたことは覚えている。だけど、それ以外が風化していた。浮かんでこなかった。

 それが彼女を責める。胸を刺す。

「ありがとうございます」

「……気まぐれだ」

 違うと言い切れるほど、彼女は彼女の大事だったもののことを覚えていなかった。忘れてはならないことなのに、あの子にはもう自分しかいないのに。

 それなのにもう、薄れている。

「お侍様、わしらにも、どうか」

「どうか」

 当然、こうなる。梅は愚かな自分を戒めながら――

「好きに分けよ」

 自らが狩猟した獲物を、彼らに分け与えた。

 一人だけ得た少年に、嫉妬心を向けさせないために。


     ○


「む、珍しいのォ」

「駄目な日は狩猟につきもの」

「ぶはは、その通りだ。が、俺なら外れの日などありえぬがな」

 ゲラゲラ大笑いする景虎をよそに、梅は下を向いていた。その日、彼が彼女の変化に気づくことはなかった。

 だが、次の日も――

「ぶはは、駄目な日は続くのぉ」

「ごめんなさい」

「気にするな。山内殿直々に釣り上げられた魚がある」

「うん」

 その次の日も――

「続くのぉ」

「調子が、悪くて」

「……」

 さらに次の日も――

「ごめんなさい」

「よい」

 そんな日が続き、さすがの景虎もどういうことか、と悩み始めていた。梅の狩猟の技術は見事なものであり、こうも狩れぬ日が続くことはめったにない。しかも今は秋であり、冬とは違い冬眠のため栄養を補給する動物がわんさかいる。

 連日獲物が見つからない、と言うのも考え難い。

「――様」

 となれば別の理由が考えられるだろうが、どうにも考えがまとまらない。いつものような頭の切れも出ず、出てくるのは気の抜けた考えばかり。

「――城様」

 もしかして男か、と考えるも首を振る。間男、と脳裏に浮かんだ言葉を彼はかき消す。そもそも今の彼女には夫がいないのだから、間男もクソも無い。

 もしそうであるなら自分は祝福すべきなのだろうが――

「御実城様!」

「ん、なんだ、実綱か」

「朽木の公方様より御内書が届いております。内容は、甲越の和睦について」

「……和睦? ふむ」

 将軍足利義輝(天文二十三年に義藤から改名)より届いた御内書、つまりは公文書の中には甲斐と越後の和睦を要請する内容がしたためられていた。

「悪くないな」

「はい。よい言い訳となるかと」

「言い方」

 景虎はにやりと微笑む。元々、信濃を巡る戦いに巻き込まれたのは小笠原長時らが越後へ流れてきて、畿内への影響を考えて彼らの旧領を取り戻すための戦いに協力せざるを得なかった、と言うのがある。もちろん、あまり甲斐武田を越後の春日山に近づけたくないことは間違いなく、利害は一致していたが。

 この状況で武田が「はいわかりました」と手を引き大人しくするとは思えないが、しばらくの猶予は生まれるはず。

 そうすればようやく叶うのだ。関東への遠征が。

 越後にとっての本命はそちらであった。信濃に関してはいくら暴れたところで、小笠原、高梨や村上との関係がある以上、甲斐の将であればともかく信濃の将から領地を奪う大義がなかった。ゆえに構図として、越後に旨味はなかったのだ。

 しかし、関東は違う。特に山内上杉の旧領である上野国ならば、彼を立てた場合ある程度自由に出来るだろう。越後勢にも旨味が出て来る。

 大義も充分、力を注ぐならばそちらなのだ。

「三好様様よなァ」

「やはり、そうなりますか」

「ふん、見え透いておるわ」

 闘争が絡むと途端に血の巡りが良くなる景虎。彼には見えていた。将軍がなぜ今、遠く離れたこの地の抗争に首を突っ込んできたのか。

 将軍が何を求めているのかが。

「備えをしておきますか?」

「いらん。あまりがっついても足元を見られるだけぞ。俺たちはどんと構えておればいい。我々は公方様のお願いを、受ける立場なのだから」

「承知致しました」

 いつも通りの切れ、直江実綱は杞憂であったか、と苦笑する。どうにも最近様子がおかしいと思っていたのだが、何のことはない戦うべき相手が不在であっただけ。勝負にならぬ病との戦いでは身が入らなかっただけなのだろう。

 ならば良し、混じりけなく長尾景虎は今日も君臨している。

 その横顔を彼は眼に焼き付ける。これぞ至福の時。


     ○


 だが――

「今日も、か」

「ごめんなさい」

「気にするな、うむ」

 ただ戦いを前にちょっと忘れていただけで、それに直面した途端切れ味の欠片もなくなる景虎。心なしか食事量も大人しくなっていた。

(やはり男か? 城からは出ていると聞くから城下であろう。城下、城下、ううむ、何も出ん。しかしこの酒不味いのぉ。腹立つのぉ)

 いつもの酒を飲みながら景虎はぶすっとする。

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