第佰肆拾陸話:かみ合わず

 北条五色備が一角にして最強、黄備、『地黄八幡』の北条綱成。旗印を見るまでもない。遠く、豆粒のような大きさでもよくわかる。

 難儀な相手である、と。

「玉縄北条……ご高名はかねがね」

「……!」

「ああ、関東全てを手玉に取った男、相手にとって不足はない!」

 柿崎は友である斎藤と共に奮起する。

 北条綱成の信濃上田着陣に合わせ、方々に散らばっていた越後勢も上田へ集結しつつあった。未だに語り草となっている河越城での奇跡、八万対三千の籠城戦を思えば当然楽な相手ではない。彼らも武士、籠城の難しさはよく理解している。

 八万に囲まれ、半年間籠城を継続できるか。負けず嫌いの武士とて出来る、と言い切れる者はそう多くないだろう。出来る者はもっと少ない。

 いや、皆無と言える。景虎ならば笑って「出来ん」と言い切るだろう。

 まず、籠城とは後詰、つまりは援軍ありきの戦術、と言うよりも選択である。城の規模、立地、構造、兵糧の備蓄状況にもよるが、どれだけそれらが潤沢であれ、後詰に期待が出来ぬのであれば籠城は『絶対に』成立しないものなのだ。

 あの状況で味方に援軍の到来を信じさせ、半年間戦闘を継続する。ずっと包囲だけされ続けているわけではない。隙あらば大軍が攻め寄せて来る。

 如何に河越城が頑強で、素晴らしい城でも負傷者は常に出て、当然士気も下がっていったことであろう。備蓄の兵糧も毎日目減りする。白旗を挙げ、あちら側の輪に加わればきっと歓迎されたはず。この時代、勢力の反復横跳びなどそう珍しいことではない。むしろ窮地に際し敗色濃厚な立場に付き従う方が異常である。

 忠義だの、目上には絶対服従だの、などと言う価値観はのちの世にとある幕府のお偉いさんが政を円滑にするため儒教と共に輸入したものである。この時代の武士に現代の侍像は当てはまらないのだ。

 そんな彼らにそれを強いて、勝利を勝ち取った。

 だからこそ彼の名は一躍有名なものとなったのだ。

 北条氏綱の頃よりも戦場で暴れ回り、北条氏康と共に河越城の奇跡を起こして跳ねた、名実共に関東最強の武将、と言える。

 だからこそ――

「大物だ!」

「名をあげる絶好機!」

「関東遠征する必要もなく、獲物がほいほいやって来たぞ!」

 武功を求める若き武士は狂喜する。わざわざ信濃まで関東でも指折りの首がやって来てくれたのだ。ここで疼かない者は戦士にあらず。

「村上殿、どうされましたか?」

「……来るとすれば今川かと思っていたのだが、伊勢、いや、北条とはな。時代も移り、俺も年を重ねたものだと。ただ――」

「はい、北条は相手の仕掛け。先年、三方に仕込んだ抜け目のない男が――」

「援軍を単発で済ませるわけがない。必ず、連動させるはず」

 されどその疼きを抑え、盤面を俯瞰する者もまた戦士ではあろう。村上は武田方の老将、飯富が詰めている深志城の方へ視線を向ける。

 十中八九、合わせ技を仕掛けてくる。ただし、それがこの上田とは限らないのが、今の武田晴信の怖い所である。今、越後勢にとってやられて嫌なことは何も、ここで側面を突かれることだけに限らない。

 合わせ方次第では――

「ただ、その――」

「どうした?」

「御実城様は、たぶん、何があろうとここは攻めの一手、かと」

 甘粕景持は戦場を見て、その先にいる黄色い怪物を見て、言い切った。

「何故?」

「相手が、化け物だからです」

「……なる、ほど。難儀な性格だ」

 長尾景虎を良く知る甘粕は確信していた。ここで退くほど彼は大人しくない。深志城の武田は怖いが、今はそれ以上に目の前の怪物がそそる。

 あの餌を景虎は無視できない。

 際立つ危険な香り、本来敵を寄せ付けぬそれにこそ、景虎は喰いつくのだ。

 嬉々として。


     ○


「えい」

「……えい、じゃありません」

 碁盤を挟み青岩院と文春は対峙していた。

 いつも通り――

「ここの地、荒らすには狭いと思いませんか?」

「思いますね」

「なら、諦めてください」

「それは無理ですよ。だって、面白そうだもの」

「……蛙の子は蛙」

「あら、素敵な言葉ですね」

 文春とすれば絶対に勝てる陣地形成をしているにもかかわらず、青岩院は何度となく懲りずに突貫してくる。無論、明らかに無理な局面は避けるが、行けそうな気がすると途端に攻め気全開で来るのだ。

 その判断のラインまで親子そっくりなので、彼女は呆れ果てる。所詮は遊戯とはいえ、何度この親子は自分に殺されたら気が済むのか、と。

 戦場で同じことをしているとは思えないが、親子揃ってこれでは少し不安になってしまう。相手が打ち損じるレベルなら問題ないが、間違えないのであればここは絶対に負けない、つまり相手にとっては負ける状況である。

「ささ、勝つか負けるかの分岐点ですよ」

「いいえ」

 だから彼女はいつも、

「もう、私が勝っています」

 そういう場面では絶対に相手を殺していた。景虎がその攻め気の強さがあまりに間違えぬよう、無茶な手は全て咎めてきた。

 ただ、

「ふふふのふ、と」

「……これだから」

 跳ね返される度に嬉々とするのだから、この親子は救えない。

 たぶん、初見の盤面ならば必ず踏み込む。戦場だとか盤面だとか、そんなものは関係ないのだ。彼らはそういう生き物、そこに壁があるならよじ登ろうとする。

 例え、命がかかっていようと。

 それに母親はともかく、息子の方はその命にもあまり頓着がないときた。

 そう、景虎は飛び込むのだ。必ず、何か理由でもない限りは。

 晴信の予感は当たっていた。

 景虎は無視できない。そう生まれついてしまったから。


     ○


 だが――

「全軍、飯山まで退くぞォ」

 長尾景虎はここで退くことを選択した。

「応! ……え⁉」

 招集された諸侯らは景虎の発言に愕然とする。さあ決戦だ、と思ったところでまさかの撤退である。長尾景虎を知る者ほど、それには驚愕しかない。

 甘粕など顎が外れるほどに驚いている。

 あれほど退くことを覚えろカス、と直江文こと文春に罵倒されても退かなかった男が、あの香しいほどの化け物を、危険を前にして退くことを覚えたのだ。

 信じられないと思うのも無理はない。

 諸侯のみならず、兵たちも同様の気持ちであろう。特に彼を無敵の存在だと信仰する末端ほど、戦い勝つことを疑ってすらいなかった。

「御実城様」

「珍しいな、庄田。口答えか?」

 任された仕事を着実にこなす寡黙な仕事人、庄田定賢がいの一番に景虎へ声をかける。他の口答えしようとした者たちもこれには驚き、気勢が削がれた。

 それだけ珍しいことなのだ。

「はい。ここで退くのは、御実城様の戦に悪影響を及ぼすかと」

 それだけ重要なこと、だと庄田は考えているのだろう。長尾景虎が、手強い相手を前に戦う前から退く、弱気を見せることがこの先に与える影響を。

「かもしれん」

「それでも退かれると?」

「おう」

「それは深志城を警戒されて、ですか?」

「それもある。が、それは一番の理由ではない」

「……では、何故?」

「そうさなぁ」

 景虎は髪をぽりぽりかきながら――

「俺だけが北条を知る。今、その優位を手放すのを惜しいと思った」

「……?」

 この場の誰にも理解出来ぬ言葉を放つ。

 その眼は遠くを、陣を組み戦いを待ち望む男へ向けられていた。

「初見なら退けなかったろうなぁ。で、怒られる、と」

 くく、と自らの度し難さに笑い、虚を突かれた様子の諸侯へ今一度、

「撤退だ」

 撤退を念押す。有無を言わせぬ様子で。

 反対し、否を唱える者はいなかった。その場では、だが。


     ○


「殿! 越後の連中が!」

「見えている」

 北条綱成は少し驚いた様子で、あっさりと撤退していく越後勢の、噂の長尾景虎の背を見つめていた。勇猛であり、この短期間で善光寺平をぶち抜き、上田まで伸びてきたほどの男が、まさか黄色い旗一つに臆したとは思えない。

 合わせると言った晴信の横入りを読んだか。

(……だが、何故だろうな。何故か、それでも踏み込んでくるような気がしたのだが。そういうことを読み違えるのは、我ながら珍しいな)

 綱成の直感は、戦いを疑っていなかった。一目見た瞬間、そういう生き物なのだと認識し、晴信の件を抜きに一戦はあるだろう、そう読んでいたのだ。

 その一戦で、衝突で、力を示し、相手を読むつもりだった。

(俺は、何かを見落としたのか?)

 今後、おそらく嫌でも山内上杉の旧領である上野国を舞台に衝突する相手。憲当をかくまった時点でそこへの意思表示はしていたが、信濃で急伸する武田によって彼らの関東進出は遅延させられていた。

 だが、必ず来る。北条が関東を固める前には、必ず。

「……嫌な感じだ」

「何がですか?」

「いや、こちらの話だ」

 力と力、良い戦いになるだろうと思った幻の一戦は、始まる前に景虎の撤退で優劣つかずとなった。飲み込み切れぬ気持ち悪さを綱成へ与えて。


     ○


「退いた!? 日和りやがってあの野郎!」

 深志城へこっそり入り、西からの横入りを狙っていた武田晴信はとりあえず罵倒する。自分の動きが読まれたのだろう。それは驚くほどではない。

 彼を警戒させる程度には、すでに色々やっていたから。逆にこの件だけシンプルに援軍だよりでは、景虎からすれば拍子抜けであろう。

 ただ、読んでなお――

「ちっ、まあいい」

 長尾景虎は勝負を受け止め、そこから化け物じみた戦を見せてくれるのでは、と思っていたのだ、少し、己の理を凌駕する存在への期待があった。

 もちろんこんなこと誰にも言えないが。

「とりあえず別動隊の飯富が死なんことを祈るか。今から退けって言っても遅いし」

 ちなみに今回も、武田はきっちり三方を用意していた。

 一方は綱成、二方は晴信、そして三方目は飯富の三本立てである。

 その辺り、眉毛に似合わず抜け目ない男であった。


     ○


 飯山城へ撤退する最中、伝令から長尾方へ与する北信濃の小谷城に対し、武田の別動隊が奇襲をかけて来たという報せが入った。後背に敵がいたのだ。少し前に武田の本隊が深志城から上田へ向かっていた、と言う情報をも掴んでいたため、

「なるほど、御実城様はこれを読んでいたのか」

「さすがだな」

「深志城は俺ももしかして、とは」

「嘘つけぇ」

 長尾景虎の評価が地に落ちることは避けられた。それどころかちょびっと上がったほどである。ただし、当の本人は――

(……別動隊もいたのか、あのクソ眉毛)

 普通に読み違えていたので何も言えなかったのだが。北条綱成は相変わらずの雰囲気、さすがにあの河越城を経験しただけあってあの頃よりも桁違いであったが、それを言えば晴信とて数年前の比ではない。

 もはや初見の印象とは別物と化している。

「ぶは」

 自然と零れ出る笑みに、景虎は驚いてしまう。戦場などつまらないと思っていた。武士の世界などくだらない、向いているから渋々引き受けた、そう考えていたのに、気づけば周りの存在が彼に、武士の楽しさを叩きつけて来る。

 頼んでも無い、押し売りだが。

「難儀よなァ」

 越後勢は飯山城まで退き、そのことを知った飯富は全速力で撤退した。聞いていた話と違う、この戦力で越後とやり合えるか、とばかりの脱兎が如し逃げであった。まあ、そもそも景虎を退かせた時点で大局的には武田の思惑通り。

 戦線を押し込んでいる間に行うはずだった調略は、圧倒的強さを示すことが出来なかったため、ご破算となる。

 越後勢はその後も引き返し、幾度か武田方と小競り合いするも、決定的な決戦が行わることはなかった。

 大局的には武田方の勝利、に見えるが――

「……これが長尾景虎の戦、か」

「同情しますよ、これは」

「他人ごとではないぞ」

 武田の領内を短期間で荒らしに荒らし回った越後勢。集落を焼き、田畑を引っ繰り返し、ものの見事に北信濃はハゲ散らかしていた。武田方へつくとこうなるぞ、と言う脅しだけではない。きっちり武田へも痛手を負わせている。

 土地を得ると言うことは、その土地の者を食わせねばならない責任があるのだ。越後勢が全力で奪い去った後、そこを補填するのは武田と言うことになる。

 限度はあるが。

 ただでさえ、彼らの財布事情は苦しい。そもそも甲斐だけでは苦しいから信濃へ活路を見出したのだ。それなのに、信濃のため身銭を切らされるのでは本末転倒。

 だが、無下には出来ない。武田の北信濃におけるアドバンテージはまさにその人気、在地の者の支持にあるのだ。これを捨てることは、北信濃侵攻の意味を捨てるのと同じこと。それを彼らは知っているからこそ、全力で刈り取ったのだ。

 越後は財布自体潤沢であり、この辺りでは肥沃な土地である北信濃は欲しいが、領地経営を考える上で必須ではない。

 その差が、そのまま戦略となる。

 北条とて他人ごとではない。民からの人気こそが北条の生命線なれば、仮に彼らが同じことを関東でやったとして、武田と同じように奔走させられる未来は容易に想像がつく。場所が違うだけ。状況はきっと――

「お、丁度良いところに同盟相手がいた。なあ、兵糧分けてくれ」

「帰るか」

「はっ」

「逃げるな! 可哀そうな信濃に愛をくれ愛を!」

 こうして大きな衝突が起きぬまま、第三次川中島での戦いは幕を下ろす。今回はどちらも目的が噛み合わず、戦も同様に噛み合うことなく幕引きとなった。

 超機動戦だった第一次、超持久戦だった第二次、そしてかみ合わずに決着した第三次、現在この川中島にて合計三度、長尾と武田は衝突している。

 その度に武田晴信は成長し、とうとう景虎の読みを超え始めていた。だからこそ次の衝突は少し恐ろしい。戯れの範疇を、超える可能性があるから。

 虎の牙が龍の逆鱗に届いた時こそが――

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