第佰肆拾弐話:最強

 上田長尾家当主、長尾政景の説得により長尾景虎が春日山に帰還したのは八月、およそ半年ほどの家出となった。当人は悪びれもせずに威風堂々と現れたが、そのこと自体彼の人間性を知る家臣は何も思わない。

 思うのは『早過ぎる』、その一点であった。

 大熊朝秀の戦力が春日山を離れて、府中が如何なることかと揺れ動き始めた最中、高野山(和歌山)へ向かっていたはずの男がここで帰って来た。

 素直に良かった、と思うほど越後勢も間抜け揃いではない。

「御実城様、大熊が」

「聞き及んでおる、実乃よ。あの朴訥とした男がよお大望を抱いたものだ。哀しいかな、それは叶わぬ夢であると示してやらねばなるまい」

 本庄実乃は首を振り、

「いえ、おそらく大熊は越中の一向宗と連携するつもりでしょうが、それだけで動くとは思いません。ここは警戒を厳に――」

 景虎へ警戒を促す。されど景虎はケラケラと笑い飛ばした。

「上野よ、ぬしに大熊討伐の任を授ける」

 そして突然、上野家成へ仕事を振る。

「は、え、自分に、でありますか?」

 突然のことに彼は驚く。当然のことであろう。

「おう。大熊と一向宗を越後より討ち払えば、その武功に報い上野へ領地を授けよう。敗れたなら下平が得る。簡単でよかろう?」

「御実城様、そういう話では――」

 抗弁しようとする下平へ、

「俺がそう決めたのだ。俺も誓詞をしたためた。ぬしらもそうした。これからはの、家中一丸とならねばいかん。これ以上、家を揺らしてくれるな。越後国と言う家を……あまり我を通すようなら、俺にも考えがあるぞ」

「っ。も、申し訳ございません」

 双方がしたためた誓詞を盾に下平を脅す。景虎を説得するために政景が皆に書かせた『今後は家臣一同、一丸となって越後を盛り立てていきます』という誓詞と、それに対し景虎がしたためた『一つである限り国主としての使命を全うする』という旨の誓詞である。とにかく景虎を連れ戻さねば、と言う一心で彼も署名したが――

「謹んでお受けいたします。つきましては相手の戦力を調べねば――」

 上野家成は任を受けると言って、その準備に取り掛からんとする。相手の戦力はまだわからない。どれだけの人数が必要なのかも不明。

「そこは俺が差配する。俺の名の方が兵も集まろう」

 ただ、それは越中の状況を知らぬから、である。そちらから来た者であれば概算など容易く出せるだろう。景虎たちはそちらから堂々と戻って来たのだ。

「あ、ありがとうございまする」

「庄田、副将でついてやれ」

「はっ」

 越後が誇る仕事人、庄田定賢に声がかかる。総大将を領地騒動の一角であった上野家成にしたことで、今回は本庄派についた者を取り立てる、と言う意思を示した。大熊派であった下平は何も言えない。何せ筆頭が国を裏切ったのだから。

 あとは勝つだけ、であろう。

「実綱」

「はっ」

「蔵田をつける。共に大熊の代わりを担え。出来んとは言わせん」

「喜んで。些かのよどみなく、こなして見せましょう」

「ふん」

 微塵も悪びれることなく、戻って早々指揮を執る景虎を見て、家臣らの中である懸念が生まれた。この一連の騒動、何処から何処までがこの男の掌の上であったのか、と。何も語らぬからこそ、わからないからこそ、怖い。

 恐怖が、畏怖が、そして誓詞が、彼らを縛る。


     ○


 長尾景虎は何も語らない。ただ、必要なことだけを指示し、春日山に座す。最初はもう少し悪びれたらどうだ、仮にも国主が国を離れたのだぞ、などと家臣の中からも声が上がっていたが、その声は次第に静まり返っていった。

 その理由は多々ある。


 一つは武田の動き。一気呵成に高梨氏が統治する飯山城まで攻め上がってくると思われたが、急にその足取りは重くなる。その理由は周辺諸侯が籠城に徹し、一つ一つの城を落とすのに手間取ってしまったからである。

 特に高梨氏の影響力が強まるにつれ、調略も上手くいかずにまるで武田の動きを端から理解していたかのように、手堅く守っていたのだ。

 その報せを聞き甲斐にいる晴信は頭をかく。

 飯山城まで攻め上がり、あそこを取れたなら春日山も目と鼻の先、三方同時攻撃も成ったのだが、信濃勢必死の抵抗により届きそうにない。せめてあと一年、待っていればいい状況を整えられたのに――

「……楽じゃねえなァ」

 晴信の目の前には、越中、信濃、陸奥、越後と言う巨大な盤面を挟み、長尾景虎がいた。想像の中の彼は不敵な笑みを浮かべ、手を打って来る。

 こちらが先んじた分を、想像もしていない手で猛追してくるのだ。

 鬼気迫るほどの勢い。深過ぎる読み。

 広さも――

 武田晴信もまた不敵に微笑む。以前までの自分ならきっと、彼の手が見えなかった。そもそも彼にここまで猛追を強いるような手を打てていなかっただろう。それでもなお、まだ少し足りない。それがわかった。

 あれだけ事前に、何年も前から積み上げてなお、追いつかれる。

 一歩足らず。されど、かなり近づいた感覚はある。この一歩をどう埋めるか。この壁を乗り越えた先に、おそらく己は『最強』を得る。

 今川だろうが北条だろうが、敵ではなくなるだろう。

 そんな感覚があるのだ。それだけの敵なのだ。

「超えてやるさ」

 見える。敵が、手を伸ばすべき場所が、見える。

 天まで、後僅か。


 信濃で足踏みしている間に、陸奥の蘆名盛氏もまた動き出す。と言うよりも蘆名からすれば国主不在の今が好機、であったのだ。まさか半年も前に高野山へ向かったはずの景虎が早々に戻ってきているなど想像の外側。

 しかも、上田長尾の当主までもが彼を呼び戻すため国を出た。確かに武田は信濃で足踏みしているが、越中の一向宗はつつがなく動き出している。

 ならば、充分であるのだ。越後を攻略する算段は。

 旬を逃すな、とばかりに蘆名が動き出す。稙宗の代では頭を抑えつけられ、好き勝手出来なかったが陸奥の王と言えば己だ、と蘆名は考えている。伊達が果たせなかった越後入り、これを蘆名が成すのは最大の意趣返しであろう。

 備えは万全、蘆名の華麗なる戦をとくと見よ、とばかりに越後入りするも――

「……は?」

 そこには越後の軍勢が待ち構えていた。おかしい、ありえない、と蘆名盛氏は顔を歪める。これだけの軍勢を国主不在の越後が動員できるはずがない。しかも盛氏は万全を期すためにあらかじめ、揚北衆の一部と話をつけていたのだ。

 彼らもそれを受け入れた。内応してくれるはずであった。

 それなのに――

「どういうことだ、中条!」

 揚北衆が雁首を揃えて蘆名の前に立ちふさがっていたのだ。

 しかも、誰よりも早くに内応したはずの中条藤資が中心となって。

「どうもこうも、ふふ、私は歓迎しますと回答しました。なのでこうして歓迎しているわけです。揚北衆総出で、ね」

 盛氏が嵌められた、と理解するのにそう時間は必要なかった。だが、同時に理解出来ない。そもそも揚北衆は一枚岩ではないのだ。彼らは越後の北側を支配する豪族たちの連なりであるが、それぞれがその地域の王だと思っている。

 勝手に朝廷や幕府がここを越後と定め対外的には従っているが、彼らの多くはそんなつもり微塵もなくそれゆえにまとまりに欠ける。

 そも、彼らにとってはまとまる理由がないのだ。自らがかねてより支配する地域以外は他国だと思っているから。

 だから彼らは独立心が高く、当然容易く連携などしない。今回も盛氏はわざと争いが起きるよう、一部の揚北衆にのみ声をかけた。

 国主がいても割れる。実際に伊達の時は大きく割れたではないか。

 そういう手を打った。

 それなのに今回、彼らは一つとなって蘆名の前に立つのだ。

「あり、えん!」

「ええ。ありえない。普通なら絶対に、我々は全員で手を組むことなど無い。なにせ、我々は皆、大体仲が悪いのでね。加えて蘆名の越後入り、これも我々にとってはどうでもいいこと。国主が上杉だろうが長尾だろうが蘆名となろうが、我々には我々の土地がある。ゆえに調略に関しても抵抗はなかった」

 中条は嗤う。

「まだわかりませんか? 我々が今、こうして蘆名の前に立つのは、我々だけが事前に頭を抑え付けられたからです。長尾弾正少弼景虎の手によって」

 そう、この場に集う諸侯の貌が険しいのは蘆名への反発ではない。蘆名の調略が入るより先に、彼が出家する直前で揚北衆に宛てた密命が下されたのだ。自らの動きに連動して蘆名が動く。揚北衆の土地を荒らされたくなければ皆で阻め。

 動かなかった家はこの景虎が直々に滅ぼす、と。

 まだ蘆名の動きも、越中の状況も、武田の思惑も、誰一人気づいていない状況で彼は皆へ釘を打ったのだ。裏切れば殺すぞ、と。

 そして、全てが景虎の想定通り動いた。あとは彼らが判断するだけ。誰一人気づいてすらいなかった三方同時攻撃を読み切り、その上で脅しをかけてきた景虎を取るか、景虎が読んでいることも気づかず、国を空にしたことが誘いであると読めなかった盛氏に与するか、彼らは選んだ。その結果が――

「最悪」

 揚北衆の全員参加、である。

 音頭を取る中条とて気分は最悪、轡を並べるのも反吐が出る家もある。皆、それぞれ似た思いはあるだろう。だからこそ、少し痛快な面もあった。

 正攻法では絶対に生まれない景色、それを成した『長尾景虎』と言う力。

 彼らも武士である。そして武士は力を重んじる。今回の件でより明確となった彼の力。読みの深さ、広さ共に、常軌を逸している。

 その対応方法も含めて――勝てぬと思わされたのだ。

 全員が曲者、皆が王として君臨するはずの揚北衆が揃いも揃って、である。

「さて、武士がこうして顔を突き合わして面食らっているだけでは味気ない。こんな機会は二度とないでしょうし、まあ、戦を楽しみましょうか」

 中条が言わずとも、

「蘆名か。お手並み拝見だな」

「戦力は五分、あちらさんも随分本気だ」

「じゃないとつまらねえだろうがよ」

「血沸くのォ」

「ま、戦なら何でもいいさ。やろうぜ、戦争!」

 血の気の多い連中ばかり、止めても戦うだろう。それに蘆名盛氏とて、それなりの規模を動員したのだ。逃げ帰りましたでは格好がつかない。

 こうなればもう、やるしかないのが武士である。

「揚北ァ!」

「蘆名ァ!」

 揚北衆、蘆名共に、この戦を記録に残すことはなかった。勝敗は違えど、互いの矜持がそれを残すことを是としなかったのだ。

 戦史に残らぬ戦が、始まる。


 そして、越中から越後入りした大熊と一向宗の連合軍には、

「上野が相手とは、本庄め侮ってくれる! 殿、ご安心くだされ。武門として上野如きに大熊家が劣る理由はなし。必ずや勝利して見せましょう!」

「……ああ。全力で、やるぞ!」

「はっ!」

 上野家成を総大将とし、副将に庄田を添えた越後長尾家の軍勢が対峙する。彼らは知らない。長尾景虎が戻っていることを。大熊は彼らに言わなかった。きっと、景虎もまた自分と会ったことは言わないと思ったから。

 あの日の、あの時の邂逅は、自分の中だけに。

 それに上野家成の軍勢を見て、もっと動員出来たはずの戦力を見て、大熊は彼の考えを理解する。大熊へ勝ち筋を残しつつ、彼は言うのだ。

 さあ、勝ってみろ。武将大熊朝秀の力を見せてみろ、と。

 それが主命であるのなら――

「大熊長秀、参る!」

 全力で応えるまで。

 それと同時に確信もあった。きっと、彼は思いもよらぬ手でこちらを詰み、遠くでドヤ顔を披露するのだ、と。童の頃、幾度も見たあの貌で。

 ゆえに、迷いはない。

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