第佰肆拾参話:――ぎゅっと握り締めて

 弘治二年、八月二十三日、越後と越中の国境近く、駒帰にて大熊、一向宗の連合軍と上野家成率いる越後長尾家の軍が衝突した。未だ景虎の帰還を知らず、蘆名が揚北衆の連合軍によりせき止められていることも知らず、それゆえに彼らの士気は高い。何しろここで敗れたなら後がない、乾坤一擲の離反なのだ。

 もちろん、景虎が明言した通り総大将である上野は、ここで勝利すれば今回の騒動の元凶である領地を得ることが出来、軍勢も景虎が機転を利かせた結果、彼が与していた本庄派が主となり、こちらも士気が高かった。

 戦力は互角。戦場は硬直する。

「……さすが大熊朝秀、容易くはないか」

「出来ることをやりましょう、上野殿」

「……無論だ、庄田殿」

 敵方、一向宗の戦力は景虎が自信を持って算出した通り、ほぼピタリであったが、相手の士気が高く、何よりも信仰心の関係か死に物狂いで来る。

 練度の低い長尾景虎を相手取るかのような感覚は上野の背に汗を伝わせる。戦場の規模が膨らめば膨らむほどに、腕前の差と言うのは消えていく。細かな情報伝達も難しくなり、両軍ともに大まかな動きしか出来なくなる。

 そう、戦国の戦とは百姓が農兵として参画し、戦に割く人員が周辺の時代に比べインフレしつつあったのだ。これは武器の変遷を見ても明らかであろう。農兵でも扱える槍が戦場の主体となり、それゆえに騎馬での突撃が難しくなった。

 機動力の低下、歩兵主体の戦場、人員が増えれば増えるほどに戦術で局面を引っ繰り返すのは難しくなる。武士同士が名乗り合い、騎馬で弓を射り、太刀を振り回すような時代ではないのだ。

 そこでモノを言うのが士気である。宗教勢力の強みであり、各時代の統治者を悩ませてきた地力を無理やり引き上げる方法こそが、殉教。信仰に殉じ、自らの死すらも宗派のため、ひいては神仏のため、と死力を尽くさせる。

 さらに難儀なのは一向宗、浄土真宗の性質にある。念仏教と言われる彼らは信徒に対し簡単なことしか望まなかった。『南無阿弥陀仏』と唱えろ、それだけである。そのシンプルさが民衆に受け、一大勢力となったのだ。

 戦場の主力である百姓、そこに根差した一向宗。肉良し、女良し、酒も良し、ただ祈れ、唱えろ、さすれば極楽への道が拓かれん。

 そもそもこの時代における軍の主力はどの国も百姓である。数が増えれば増えるほどにそうなる。百姓主体の一向一揆、それはマイナスを示さない。もちろん国によって百姓にもしっかりと練兵を課し、軍の練度を上げている所もある。

 だが、それもたかが知れているのだ。

 なれば士気の塊である一向一揆、弱いはずがない。同数で容易く勝てるほどに優しい相手ではない。時代と戦の形が一向宗への最大の追い風となっている。

「戦列を崩すな! 我らには御実城様が、毘沙門天の加護ぞあるのだぞ!」

 武士が必死になって力や大義で引き上げる士気を、端から彼らは備えている。信仰心が揺らがぬ限り、容易くは揺らがない。

「……庄田殿!」

「……御実城様とて一向宗の力は理解されているはずです。ここは堪え所。兵数が合い数であるのなら、必ずや逆転の手はあります」

「どうやって?」

「さあ。それは御実城様のみぞ知る、ですな」

「……こちらも信仰心を試されるかよ」

 上野は苦虫を噛み潰した顔で、必死に声を張り上げる。彼とてそれなりの武士、戦の経験は積んでいる。その経験値が言うのだ。

 ここからはもう、崩されていくのみだ、と。

 何かテコ入れなくば、早晩戦場はあちらへ傾く。


     ○


「本庄殿。儂が兵を率い、駒帰へ向かいましょう」

 偵察により春日山にも丁度同じ頃、敵方の数がある程度正確に伝わっていた。長尾景虎の読み通りではある。されど皆、少々不安であったのだ。一揆勢相手に同等の戦力では少し苦しいのではないか、と。

 春日山にはまだ余剰戦力がある。信濃で高梨氏らが奮起し、武田が春日山まで伸びてくる気配はない。蘆名と揚北衆の衝突は未だ不明領ゆえ、春日山に戦力を残しておきたい意図は理解できるが、温存して敗れたならば元も子もない。

 それゆえに今発言した宇佐美定満のみならず、多くの諸侯がもう少し兵を割くべきだ、と評定にて主張していたのだ。

「しかし、御実城様の予測と寸分たがわぬ以上、ここで戦力を投入するのは御実城様の考えを否定することと同義であろう」

 本庄実乃が難しい顔をして宇佐美の発言を否定する。正直本庄としても本音はもう少し兵を割いてやりたかった。だが、今回は上野と下平の領地問題も絡んでおり、あまり自身の派閥である上野を手助けし過ぎるのも遺恨となりかねない。

 実際に評定の間、大熊派閥であった者たちは一度として口を開いていなかった。この状況でさらに自派閥を押せば、彼らの沈黙は深まることであろう。

 第二第三の大熊家が生まれる土壌となりかねない。

「その御実城様は何処におられるか?」

「……信濃の高梨殿と話すことがあると申され、寡兵にて越山された」

「なん、と」

 諸侯の多くが絶句する。この大事な時期に、よりにもよって三方の中で一番重要ではないように見える信濃へ向かったなど、にわかには信じ難い。

「なればこそ、ここにおる者たちの判断が重要であろう!」

「確かに」

「宇佐美殿に賛成だ」

 本庄も止めた。が、大熊の席を得た直江実綱と、彼を引き戻した長尾政景によって景虎の思うようにさせるべき、と言って無理やり彼の意を通したのだ。

 その政景は口論の横でニコニコと微笑むだけの実綱を睨む。実綱は小首を傾げるだけ。ここで恨まれ役はやりません、と言う顔である。

 政景はため息をつき、

「皆様は優先順位をはき違えておられる」

 奉行衆となった実綱がやるべきであろう嫌われ役を買う。

「……どういう意味ですかな?」

 宇佐美のどろりとした眼が政景に注がれる。それを見て実綱は口元を隠していた。たぶん、こらえ切れず笑っているのだろう。

 相変わらず性根が腐っている。

「すでに御実城様は次の戦に備えているのです。もう、蘆名も一向宗も済んだこと。であるからこそ、信濃へ赴いたのでしょう」

「なれば、一向宗を甘く見られておる。御実城様は直接越中で戦ったことがない。だからこそ、彼らの力を読み違えた。儂は知っておる。彼奴等の厄介さを」

「宇佐美殿の戦歴に疑う余地はありません。もし、ここで蘆名の方へ足を向けていたのなら、私も直江殿も、おそらく引き留めていたでしょう」

 政景はせめてもの意趣返しだ、と実綱を巻き込む。おやまあ、とあまり開かぬ目をぱちくりして見せたが、へこたれる様子はない。

 まあ、こういう場合はどうやっても話主が目立つ。

 それに彼は政景が困っているから面白がっているだけで、彼自身が嫌われること自体は屁でもないと思っている。そこが本当に厄介なのだが。

「ですが、信濃であればむしろ、こうは考えられませんか? 次の戦への備え及び、援軍への謝辞を伝えに行った、と」

「……援、軍?」

「信濃への道は一つではありますまい」

「……あ」

 宇佐美、本庄は同時に目を見開く。未だ首を傾げる者が多い中、それでも聡い者は皆、もう一筋の道へ思いを馳せた。

 そして、その先には――

「確信が無ければ席を外されない。信じましょう、御実城様を」

「……ぐ、ぬぅ」

 点と点が繋がった。

 宇佐美は自らの袴を握り締める。何故、読めなかった。何故、見えなかった。何故、あのひよっこ二人には見えて、歴戦たる自分に――

 歪む形相、政景はため息を重ね、実綱はまたも口元を隠す。


     ○


 大熊朝秀は勝利を目前にして笑みを浮かべていた。その笑みは勝勢に傾きつつある戦場ではなく、ここの南側へ向けられていた。

 ちなみに駒帰と言うのは現在の新潟県糸魚川の辺りを指し、そこにはちょっとした平野部があるも、すぐ南側には山がそびえ塞いでいる。まあ新潟県自体大体が沿岸部のすぐ横に山がそびえているのだが、問題なのはその先に何が繋がっているか、と言うこと。糸魚川を割くかのように流れる姫川を南下していくと、現在の白馬の方、つまりは信濃へ抜けられるルートがあるのだ。

 そしてその手前には――

「……お見事です、虎千代様」

 国境線を塞ぐための布石たる根知城建設予定地が、そこに赴任した信濃の猛将、村上義清が控えていた。盟友であり仇敵である飯山城の高梨へ預けていた兵を戻してもらい、その上で彼らの手勢を合算した混成軍が、

「かかれェ!」

「……え?」

 信仰によって支えられた士気と共に前だけを見つめていた一向宗の軍勢、その横っ腹へとぶち込まれた。

 かつて勢いに乗った武田晴信を二度破った男、村上義清の手によって。数を数えるまでもない。大熊朝秀が知る根知城建設のために預けられた手勢を大きく超過した軍勢の出どころなど一つしかないだろう。重要なのはそれが今、この時に、図ったかのように現れたということ。もはやぐうの音も出ない。

 初めから勝算などなかった。景虎がそれを許さなかった。

 もちろん、村上を読めていれば話は別、大熊には勝ち筋が残されていたが、いったい誰がそれを読めると言うのか。大した戦力を持たぬ領地を失った武士が、見計らったかのように足る戦力を引き連れ、こうして現れるなど。

 そもそも駒帰で戦うことになったのも、成り行きだと言うのに。

 全てが景虎の掌の上。

「と、殿!」

「……撤退だ」

「し、しかし!」

「ここから先はもう、信仰の弱さしか出ぬ。勝利に近づいた時こそ、人は最も弱くなる。好機からの窮地は、信仰すらへし折るのだ」

 神がかった差配。神仏の加護による勝利を確信した時に、それを裏切られてしまった。もっと早ければ立て直せていたかもしれない。神仏が与えたもうた試練だと飲み込めたかもしれない。もう少し遅ければ押し切れた。

 だが、村上はこれ以上ないタイミングで戦力をぶつけてきた。さすがの戦巧者、人心と言うものをよく理解している。

 一見強固な信仰心とて、一度折れてしまえば脆い。

 結局のところ神仏を信じ抗うには、

「おおッ!」

 村上義清は強過ぎた。武田晴信を野戦で、攻城戦で破った実力は伊達ではない。信濃最強、守護小笠原すら御せぬ力がこの男にはある。

 これ以上ない援軍が、全てを喰い破る。

 それを大熊朝秀は万感の想いと共に見つめ、天を仰ぎて身を翻した。しかと見た、ここにはいない長尾景虎の、長尾虎千代の戦を。

 黒田の絶望が、上田長尾の、キタジョウの気持ちがようやくわかった。この男を相手取り、果たして誰が勝てるというのか。

 天は景虎に二物、三物も与えた。

 だが、哀しいかな、やはり一番は戦なのだろう。対峙する者全ての心を折る最強の戦こそが『長尾景虎』なのだ。疑いようもなく、『もし』すら相手に与えぬ徹底的なまでの敗北。同じ土俵で戦う者に大熊は同情を禁じ得ない。

 これから何人もの傑物がこの男を前に心を折られることとなる。これはもう予想ではなく確信なのだ。その確信が言う。

 俺は一人で大丈夫だ、と。

「……」

 圧倒的強さに引導を渡された大熊は敗走を始めた一向宗と共に越中へ退く。こうして越後上杉家へ仕えた三奉行の一角、名門大熊家は越後から姿を消す。


     ○


 飯山城の高梨との会談を終えた景虎はふと西に視線を向ける。

「……」

 何も言わず、空の掌へ視線を移し、そこに在ったモノを優しく握りしめた。

 彼の真意を知る者は、何処にもいない。


     ○


 歴史書にはただ事実だけが刻まれ、のちの世に大熊朝秀は裏切り者と誹られる。されどその内情は、彼らの時代を生きた者にしかわからない。

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