第佰肆拾壱話:大熊朝秀対長尾景虎

「拙者は、御実城様が幼き頃よりずっと仕えて参りました。誠心誠意、お役に立てるよう努力してきたつもりです。それなのに何故、何故ですか⁉ これから先もずっと、御実城様にお仕えすることだけが――」

「梅」

「……はい」

 物陰より男装した千葉梅が現れる。帯刀していた彼女はそれを景虎に手渡した。そして彼は無言にてそれを引き抜く。

 引き抜き、刀を大熊朝秀へ向けた。

「抜け、朝秀」

「……抜きませぬ。せめて、理由を! 納得のいく説明を!」

「俺に勝てたら、教えてやる」

 長尾景虎は、だらりと腕を下げた状態で構える。いつものような全身で威嚇する、闘志に溢れた構えではない。まるで柳のようなそれは――

「……っ」

 別人が宿っているようにも見えた。静謐が横たわる。殺気の充満した刃ではなく、剣先からわずかに、香るように零れるそれの鋭さたるや、

「来い」

 大熊朝秀は無意識に剣を抜き放つ。主君に剣を向けるなど、彼の中では今もって考えられない。されど、身体が動いてしまった。

 長尾景虎が放つ雰囲気に中てられて――

 普段、不必要なほどに獰猛な剣は鳴りをひそめ、静やかなる剣がさらりと大熊の剣を撫でる。撫でるように、逸らす。

「……ふ、は!」

 その瞬間、彼の中から迷いが消えた。手応えでわかる。普段の景虎は『長尾景虎』と言う神がかった武将を演ずるため、あえて技を捨てていたのだ。誰よりも力強く、誰よりも人間離れして、魅せ付けるのが彼の戦であるから。

 もし、剣豪長尾景虎がいたとすれば――

「おおおおッ!」

「……」

 こういう繊細な剣を使ったのかもしれない。思えば幼少期から豪胆なようで繊細な一面もあった。宇佐美が軍略を授けている時も、大熊が技を教えている時も、細工や理屈にばかり興味を示した。

 今、彼が彼を演ずる中で捨て去ったモノが目の前にある。

 刃筋を立てず、滑らせるような受け。振るった方にも手応えが返ってこないほど、その剣は穏やかである。にもかかわらず、するりと滑り込むようにその剣は後の先を突き、大熊の喉元まで伸び征くのだ。

「は、はは!」

 幾度かの受け応え、『応じ』を経て大熊は笑みをこぼす。かつて彼は自らに剣豪の才はないと言い切った。そんなことはないと大熊は否定した。

 いつだって長尾景虎は正しかったが、

「嘘吐きめ!」

 大熊は確信する。この男に天は二物も三物も与えていたのだ。彼の言葉は嘘であった。長尾景虎は剣豪としても大成し得る器であった。

 自らがかつて抱いた夢が、現実となった。

「よくぞ強くなられた!」

 こらえきれず、大熊朝秀の全身から闘志が溢れ出す。相手を威圧し、力強さと技を合わせた彼の剣を相手に押し付ける。

 強く、速く、それでいて技巧に富む。

 ずっと越後では振るう相手がいなかった。見せる相手がいなかった。対峙する者がいなかった。されど今、能う者が目の前にいる。

 歓喜が剣を走らせる。凄まじい連撃を前に、柳はごうごうと揺れる。嵐を前にしても揺らめき、折れずに立ち続ける柳の枝葉とて――

「オオウッ!」

「……っ」

 幹ごとへし折れば他の木と変わるまい。そう言わんばかりの力の剣。技には力、それを押し付けることもまた剣の道である。

 へし折った。その手応えと共に――

「なっ」

 長尾景虎の気配が消えた。目の前にいる。普段の彼ならば迷わず追撃するような隙だらけの姿勢である。だが、彼の本能が足を止める。

 踏み込めば死ぬ。そんな気がした。

「臆したか?」

 無から挑発が零れ出る。長尾景虎ではなく剣が語りかけて来たかのような感覚。剣と彼が混ざり合い、一つとなったような境地。

 大熊朝秀の頭に一つの妄想が浮かぶ。堺での自由時間、剣術道場を色々と回ったが、その中でよく一人の男の名が挙がっていた。最強の剣豪は誰か、と言う議題にて最も名が挙がっていた男、名を塚原卜伝。

 剣と人の狭間より見出せし必殺、一之太刀を振るう者也。

「たまらぬなァ」

 大熊朝秀は大きく深呼吸をして、息を整える。覚悟も決めた。迷わず、踏み込む。剣と一つに成った長尾景虎へ向けて、俺の剣を振るう。

 力と技、示すは大熊朝秀也。

 俺こそが最強である、と上段より全身全霊を相手へ押し付ける。

 互いに上段。衝突は、先ほどまでの静かな剣劇が嘘であったかのような、轟音を響かせる。木々が揺れ、鳥が羽ばたき、ただの一合で世界が退く。

 そこにはただ、剣を振るう男二人だけがいた。

「……阿呆が。父の形見ぞ」

「……申し訳ございませぬ」

 力負けし、刃筋立て刃を折ったのは長尾景虎であった。大熊朝秀の剣も空を切ったが、その手にはまだしかと剣が握られている。

 勝敗は、

「ぬしの勝ちだ。全く、相変わらずクソ強いのぉ」

 明らかであった。

「俺が本気でやって負けたのは、くく、文とぬしくらいか。胸を張ってよいぞ。正直言えば、ここは勝つつもりであったのだがなぁ」

「御実城様」

 景虎は笑みを浮かべ、どさりと地面に腰を下ろす。

「随分楽しげであったな、主君に剣を向けておいて」

「あ、いや、しかし、抜けとおっしゃられたのは御実城様で」

「冗談だ。どうだ、剣豪の俺は強かったか?」

「無論、やはり御実城様には才があります」

「阿呆。どちらも借りもの、模倣でしかない。片方は上泉、もう片方は公方様に剣を授けた、塚原だ。たかが模倣に感心せず、物足りぬとでも言え」

 上泉、塚原、いずれも音に聞く大剣豪である。片方は関東で、もう片方は関東に生まれながらも諸国を漫遊し、畿内で名を馳せる者。

 塚原卜伝は将軍足利義藤にも剣を教え、その際に自らの秘剣一之太刀を授けたと言われている。景虎はそれを将軍との試し合いの中で学び、ここで披露したのだ。

「俺なりに工夫も加えたがな。ただ、おそらく本物はもっと凄いぞ。俺の及びもつかぬ発展を遂げておることであろう。あくまで俺が体感したものを、俺なりに発展させたに過ぎん。そして、今のが俺の全力で、限界であった」

「……御実城様」

「剣の道で一番は難しいのぉ」

 嬉しそうに微笑む景虎を見て、大熊は表情を曇らせる。そうなのだ。景虎と言う男は、虎千代と言う童は、壁が高ければ高いほどに喜ぶ性質であった。才能がない、一番にはなれない、だからその道を選ばない。

 そういう人間とは真逆の生き物であったはず。

 それなのに彼はいつの間にか、あらゆる道をそう言って遠ざけるようになった。最も向いているのが戦であり、だからそれをするのだ、と。

 他は向いていないから――捨てたのだ、と。

「ぬしはまこと、武士に向いておらぬな」

「突然何を?」

「ぬしが聞いたことであろうが。俺がぬしを、大熊朝秀を切り捨てた理由だ。しかと聞け。そして刻め。人には向き不向きがあるのだ、とな」

 景虎は悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「武家の家長なれば、家人をなだめつつ上にへつらい、時に上へ意見してでも家人に阿らねばならぬ時がある。要は匙加減よなぁ。そもそもぬしは家人の考えを読み解けなかったから、ぶは、それ以前の話であったがな」

「……それは、反省しております」

「違う。出来んし、そんなもんやらんでいい。俺の場合は一番になれるかどうかだが、ぬしの場合は出来る出来ないの話。もう絶望的に向いておらん。武士なんぞ剣より腹芸がモノを言う世界ぞ。さっさとやめちまえ」

「やめ、そ、そんなわけには!」

「越後では、の。越後の名門、大熊家の家長であれば……やめるわけにはいかん。出来なくてもやらねばならぬし、ぬしはそうしてきた。そして今、この俺様を相手に戦を吹っ掛けるという、絶望的な状況に立たされたわけだ」

「……は、はい」

 景虎が何も気づかぬ状態であれば、越中、陸奥、信濃を通って甲斐からの三方同時攻撃は脅威であっただろう。だが、彼が全てを見通し、その対策を用意してあるとなれば、ここから先は蛮勇以外の何物でもない。

 大熊は家人らを止めねばならないだろう。

 勝てぬ戦を仕掛けることとなるのだから。

「だがの、新たなる土地でなら、話は別だ。大熊家は失墜し、名門ではなくなり、要らぬ責任を負う必要もない。名門でなければ、家人に飯を食わせておけば文句も出ぬだろう。戦働きは避けられぬが、まあ気負うことなくほどほどに励めばそれで良し。今ほどの心労を感ずることはあるまいよ」

「……あ」

 大熊はようやく気付く。今回の非情とも思える決断、そこに隠された長尾景虎の真意に。わざわざ、このような遠回りを取った理由に。

「晴信はクソ眉毛だが、人材の扱いを見る限り人を見る眼は本物であろう。あの男ならぬしほどの人材、悪いようにはせぬし、正しく扱ってくれるはずだ。錆びさせることもなく、さりとて折ることもなく、最も輝く時まで――」

 全ては、

「出来もせぬことをよう励んだ。俺だけはぬしの努力を認めてやる。だが、そろそろ分不相応な荷を下ろし、身軽と成れ。そして、己が道を征け」

「拙者は、何と言う、勘違いを」

 自らに忠を尽くした男の、幼少より剣を交わした友の、新たなる道行のため。

 大熊朝秀のための茶番であったのだ。

「阿呆。俺は長尾家のためにぬしを切り捨てたのだ。大熊を敵とし家中をまとめ、俺が使いやすい直江辺りを引き上げる。政景の台頭も長尾家という大きな枠組みで見れば美味しいことであるしの。越後上杉の影はさらに薄れ、俺の権勢はさらに盤石なものとなる。全てはの、俺様のためよ」

「……」

 無言で、肯定も否定もせず、ただただ大熊は地面に頭を擦りつけた。何故気づけなかった、何故疑った、何故あの頃の彼が、長尾虎千代がいなくなったと思ったのだ。いなくなるはずがない。消えるはずがない。

 ずっと彼は抑え込んでいた。隠してきた。越後長尾家と言う新たなる権威の頂点に立つ、『長尾景虎』たるために、そのために彼は捨てたのだ。

 自分が沢山抱え込んだ、大事な宝物たちを。剣の道もきっと、その一つ。

 一番向いているが、一番やりたくなかったことのために。

「さらばだ、朝秀よ。精々長生きせよ」

「御実城様!」

「俺はもう、ぬしの主君ではない」

「拙者は、何処にいても、長尾景虎の、いえ、長尾虎千代の家臣にございます!」

「……阿呆」

 景虎は背を向け、

「手は抜かんぞ。俺の剣は折れたが、今度は俺の戦がぬしをへし折ってくれる」

「はっ!」

 最後は一瞥することもなく歩き去っていく。大熊朝秀もまた頭を上げることなく、彼の背中が完全に消えるまで、頭を地につけ続けていた。

 こんな貌、主君には見せられぬから。

 涙でぐしゃぐしゃに濡れた、汚い顔など――

「とら」

「……何だ? 言っておくが、今の俺は結構機嫌が悪いぞ」

「お疲れ様」

「……ふん」

 顔を思い切りしかめ、眉間にしわを寄せて目に力を入れ続けている。まるで何か、零れ落ちそうなものを押し留めているかのように――

「私は人質だから」

「とうの昔に形骸化しておるがの。長野は北条に付いたぞ」

「今だけ。それに、私の帰る場所はもう、とらの横にしかないから」

「……阿呆が。ぬしが気遣いなど、似合わぬわ」

「ただの事実」

「ふん」

 鼻息荒く、彼らは去る。背中の未練を断ち切るかのように。

 また一人、長尾景虎の下から信ずる者が去る。自らがそうした。家のため、戦のため、彼のため、また一つやりたくないことを、した。

(達者での。しばし、待っておれ。今に世は戦に疲れ果てる。俺がそうする。その先にこそ、剣の道があるはずだ。腐るな、磨け、そして成れ)

 絶対に見えないところで、ようやく彼は一度だけ振り返った。

(俺が届かなかったであろう、剣の道の頂点へと)

 惜別の思いを込めて――そして彼は前へと進む。最も向いている、最もやりたくない道を、ただひたすらに。理由がまた一つ、増えたから。

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