第佰弐拾玖話:甲相駿三国同盟

「文春さん、虎の字と言う御方から荷物が届いておりますよ」

「ま、虎の字だなんて素敵な一字だこと」

「せ、青岩院様!」

 尼寺に虎の字と名乗る者より、文春宛、かつて直江文と名乗っていた女性に何かが送られてきたのだ。それを全力で茶化す景虎の母、青岩院。

 とてもそれなりの歳には見えない振る舞いであった。

「……これは、一節切?」

「あら、随分と良さそうな造りね。きっと高かったでしょうに。愛を感じます」

「青岩院様!」

「景虎も何を考えているのかしらね。こんなに想っているなら貰ってあげればよかったのに。そうすれば実綱の小僧なんぞひとひねり、でしょうにねえ」

「……理由があるのでしょう。きっと」

 大事そうに文春は彼からの贈り物を抱く。彼女は彼の大望を知る。その先に待ち受けるであろう滅びもまた、予見できる。

 だから彼は家族を持ちたがらないのだ。その先に幸せがないことを理解しているから。巻き込みたくないから――それもまた一種の愛であろう。

「……少しは隠しなさいよ。馬鹿虎」

 土産に添えられた書にはでかでかと堺の土産だ、と書かれていた。


     ○


 天文二十三年、越後では久方ぶりの凪が訪れていた。信濃も、関東も、大きな動きはなく、国内でも表面上、反乱などが起きることもなかった。

 ただ、それが仮初めの、ひと時の凪でしかないことは誰もが理解しており、水面下では様々な事柄が揺れ動いていた。

 その中の一つに、

「……どういうつもりだ、義旧」

「申し上げた通りにございます」

 守護職を成り代わった長尾家の経済面、戦の裏で働いてくれていた金津新兵衛義旧が隠居する、と景虎へ報告に参っていた。

 景虎は当然難色を示す。女房を、息子を失い老けこんだ男であったが、それ以降も長尾家の支えとして裏で尽力してくれていた。その実力は父の代より色褪せることはなく、武人色の強い長尾家家中において欠かせぬ人材である。

「私は老いました。そして、あの頃のような野心、大望を抱くことも出来ず、これからの長尾家の枷になると考えました」

「俺はそう思わぬ」

「私がそう思ったのです、御屋形様」

 いつか去るのでは、そう思うことはあった。消えてなくなりそうな雰囲気はあったのだ。だが、金津ならば、景虎は心のどこかでそう信じていたのかもしれない。

「後任は私の補佐として働いてくれていた、こちらの蔵田五郎左衛門を推挙致します。すでに私の役割のほとんどを彼が代わりに行い、上手くやり果せております」

「蔵田にございます。以後お見知りおきの程を」

 人好きのする顔つきの金津とは違い、感情の一切を母体に置き忘れてきたような男が景虎の前で頭を下げる。父の代に金津家と共に湊の青苧座関係で蔵田、年齢からすると彼の父が働いていたことは知っているが彼のことはよく知らない。義旧が推すのであれば仕事は出来るのだろう。そこへの疑いはない。

 ただ、

「……引継ぎ済み、か。随分手際が良いのォ」

 ここまで完璧な段取りは景虎の心を逆なでする。

「蔵田家は元々伊勢神宮の御師の商家です。西との繋がりは強く、先代の話とは言え畿内への伝手も持っております。これからの時代はより、細やかな統治が必要となるでしょう。春日山を拡充するならば、武家よりも商家を上に据えるのも手かと」

 御師とは、元々寺社に所属し、参詣者を案内、参拝や宿泊の世話をする神職であるが、時代が下るにつれ武家が力を持ち始め荘園運営が滞り始めると、それらへ赴き寺社への上納米を確保してくる役割が課された。

 その結果、御師は多くの国を股にかけ、土地との繋がりを、知識を蓄えていく。蔵田家はそれらを武器に越後、長尾家に仕えた経歴を持つ。為景は蔵田家を抱え、同じく客将であった金津家と共に裏方として動かしていたのだ。

 まあ、金津は武家としても機能していたが。蔵田は武家ではなく、その役割を持たない。だからこそ、専門的に動けると義旧は言ったのだ。

「俺に指図するかよ、義旧ォ」

 今、この男もまた己のそばから去ろうとしている。それはいい。覚悟していた。出来ていた。そう思っていた。それなのに――

「……出過ぎた真似でした。お許しを」

 それなのに何故、己はここまで苛立っているのか。

 引き留めようとしているのか。

「養子を取ろうと思っております。あれが繋げてくれた金津家、しがみ付くような家ではありませぬが、血はともかく家ぐらいは、と思いまして」

「……ならば、その養子を後継者とすればよかろう」

「適役かわからぬ人材を御屋形様に押し付ける気はございません。それこそが枷、こちらの蔵田であれば先代よりお役目に従事し、彼自身の適性も間違いないでしょう。自信を持って後を譲ることが出来ますれば」

 義旧はまた頭を下げる。

「どうか、お許しくだされ」

「……頭を上げよ。ぬしの気持ちはわかった。養子の見当はついておるのか?」

「これからゆるりと考えまする」

「俺が――」

「些事ゆえ、御屋形様のお手を煩わせる気はございません」

「……そう、か」

 寂しくなるの、その言葉を景虎は飲み込む。自らの弱体化、それによって色々と綻びが出始めていたのだろう。それを蔵田へ譲り、引き締める。

 長尾家への、いや、景虎への最後の奉公こそが――

「大義であった。ゆるりと休め」

「はっ!」

「蔵田よ、これからよろしく頼むぞ」

「粉骨砕身、働かせて頂きます」

「うむ」

 こうして金津家は一度中枢から離れ、新たに蔵田五郎左衛門がその役割を担うこととなる。日本海交易の要衝である春日山、巨大な湊を抱える大都市がまた一つ変化する。蔵田の手腕は未知数なれど、あの義旧が推すのであれば問題はない。

 何よりも――

(……ふん、生意気にも、俺を品定めするかよ)

 蔵田の無機質な眼が気に入った。と言うよりも、景虎の趣向を理解する義旧のこと、それすらも勘定に入れての彼、なのだろう。

 とにもかくにもまた一人、旧知の元が彼のもとを去った。


 そして、もう一つは小さな変化なれど、

「お、御屋形様、どういうことですか⁉」

 これからの越後にとっては大きな変化でもあった。

「持の字、何だ血相を変えて」

「先ほど頂いたお役目の件です!」

「それが?」

「御屋形様の近侍を解かれる、それは飲み込みます。しかし、村上殿の馬廻は、その、嫌です。だって、彼は私の――」

「嫌? 俺の差配を、嫌と申すのか?」

「そ、それは、でも」

「勘違いするなよ。俺は御屋形様だ。ぬしは何だ?」

「か、家臣、です」

「そうだ。ぬしの処遇をどうするかは俺が決める。悔しければ領地を持つ国衆となれ。そうなるまではぬしはな、俺に否と言う力すら持たぬのだ」

「……はい」

 甘粕の顔は歪んでいた。彼への対応は今まで、家臣と言うよりも家人のそれであった。栃尾時代から同じ屋敷に住まわせ、傍に置き続けてきたから。

 文がいなくなった以上、彼が一番古株となるだろう。

 どこか自分はずっと、景虎の傍にいられる。そう思っていたのだ。

「村上殿は強い。何せ、あの甲斐武田を二度も負かしている。山内上杉ですら敗れた相手を、だ。信濃の誰も止められなかった男だ。ああ、ぬしの家を滅ぼした男でもあったな。まさか、そんなことが理由ではあるまいな?」

 たかが家が、家族が、滅んだだけ。武家が戦で負けた。如何なる理由があろうと武家の世界では、勝ち取った方が正しい。

 ならば、悪いのは弱い甘粕家だと、景虎の眼は言う。

「……違います」

 そうです、とは言えぬ甘粕は口をつぐむ。優しかった母、強く見えた父、父を慕う家臣たち、その全てを根こそぎ潰され、滅ぼされた相手。

 その下に付けと、景虎は言うのだ。

「学べ。俺の下ではもう、ぬしは成長せん。それもわかっておろう?」

「……はい」

 長尾景虎の戦は特殊過ぎる。彼の実力と名前、積み上げた勝利が寺社との繋がりが、彼を巨大に見せ、士気を跳ね上げる。理不尽なほどに。

 真似は出来ない。誰にも。

 加えて、彼自身にも言語化出来ない感覚、嗅覚もそう。この辺りは経験と知識、感性から弾き出した読みが肝要なのだが、これも教えられない。知識については教えられるし、教えてきたが、それだけで彼の戦は完全とはならぬのだ。

 だからこそ――

「村上殿にはすでに伝えてある。励め、盗め、強くなれ、甘粕景持」

「はっ」

 甘粕景持は別の戦を学ぶ必要がある。そこに信濃から越後へ来た実力者、村上義清を選んだのは彼なりの親心なのかもしれない。

 強くなれ、その祈りを込めて、彼を突き放す。

 これでまた一人、傍から消える。己が手で消した。


     ○


 越後が凪ぐ中、東国の情勢は大きく変動していた。

 かねてから噂になっていた甲相駿三国同盟がとうとう結実を果たしたのだ。

 今川義元の娘を武田晴信の子、武田義信へ。

 武田晴信の娘を北条氏康の子、北条氏政へ。

 北条氏康の娘を今川義元の子、今川氏真へ。

 このような血縁を結ぶことで強固な同盟関係を確固たるものとした。これの狙いは明々白々であり、北条は未だ抵抗根強い関東諸侯との、武田は信濃及び越後での、そして今川は西、尾張での戦いに注力するためである。

「良い面構えだな、北条殿」

「そちらも多くの傷を負ったそうで。力をお貸しいたしましょうか?」

「ははは、血気盛んで何よりだ」

 彼らは駿河の国境近くに位置する善徳寺、の近くにある興国寺城にて三方のトップが集い、今川家の人間ではなく僧として仲立ちする雪斎の元、同盟を結んだのだ。

 多くの敗北を経て虎と成った武田晴信。

 向こう傷を携え伝説の夜襲を成功させた北条氏康。

 未だ本人は傷一つない完璧なる今川義元。

 雪斎は思う。

(この同盟、決して長くはあるまい)

 と。

 されどこうして彼らは三者三様の目的を果たすべく、最も厄介な相手を同盟にて封じ込めた。これで後顧の憂いはない。

 より激しい戦の時代、それに向けて彼らは手と手を取り合った。

 いずれは、と三方とも承知の上で――


     ○


 それと時を同じくして、尾張の俊英もまた少しずつ力を増していた。

 父、織田信秀を二年前に失い、津島、熱田の莫大な経済基盤を持つ織田家の家督を継いだ織田信長であったが、その道は決して平坦ではなかった。

 そもそも信長の若さ、生真面目さも良くなかった。父、信秀が息子のために残そうとした宿敵今川との同盟、死ぬ間際にやっとの思いで残したそれを、家督を継いだばかりの信長は正しくない行いだ、と蹴り飛ばした。確かに今川はあの手この手で織田家を削り、信秀が築いた尾張での盤石な地位も揺らいだ。多くの犠牲も出た。

 さらに和睦の仲介には信長の養父となった斎藤道三と争う六角家も関わっており、正しくない行いが、正しくない関係性の下、行われていることに信長は我慢ならなかった。おそらく、義元はその辺りも見たかったのだろう。

 彼がその条件で、どんな動きをするか、を。

 結果、彼は短絡的にもそれを蹴飛ばし、ただでさえ国内の情勢が不安定な状況で大勢力である今川家を再度敵に回すことになった。

 これは彼が置かれている立場を鑑みれば、決して褒められた行為ではない。信長は養父に頭を下げてでも和睦を一時的に継続すべきであったのだ。

 しかし彼はそうせずに、敵を大量に抱えた状態でのかじ取りを余儀なくされた。当時の彼に大それた目算があったわけではない。

 只不当なものを、不当であるとしただけ。

 それによって彼は主家である清州織田家の信友や弟の信勝をも敵に回すこととなる。絶体絶命の窮地に自らの選択で飛び込んだ織田信長であったが、そこからの彼は神がかっていた。七年ほど前の初陣での敗北を見てもわかる通り、信長と言う男は決して戦が強いわけではない。その後も度々負けている。

 だが、要所要所ではきっちり勝つのだ。

 清州織田家との初戦、自らも槍を持って臨んだ一戦をきっちり勝利で飾り、さらっと負けることはあれどじわじわと勝ち進んでいく。さらに三河での今川か、織田か、と言う揺れ動く情勢の中、動き出した今川を止めるべく信長も動く。

 調略で進軍経路を塞がれたり、船を使ったりと色々あったが何とかあの今川から辛勝を掴む。まあ、主だった将はおらず、今川方の三河勢に勝った、と言う感じだが。義元は当然、雪斎すらこの戦いに顔を出していない。

 とは言え勝ちは勝ち。信長は勢いに乗った。

 その勢いに気圧されたのか、清州織田家当主信友の重臣、もとい彼を操る坂井大善がうっかり尾張守護、斯波義統を暗殺してしまった。勢いに乗る信長へ守護がなびきそうだったから、暗殺に及んだのだろうが、これが大失着。

「正義は我にあり!」

 信長に清州織田家を討つ大義を与えてしまったのだ。これには政敵である弟、信勝もびっくり仰天、断腸の思いで自らの懐刀である柴田勝家を兄へ貸し出し、悪しき清州織田家を兄弟で討つ、と言う美しいシナリオが出来上がった。

 信長はそれに乗った。乗りに乗った。

 三度の飯よりも正義が大好き。お天道様が見ている。神の思し召し。悪逆非道の清州織田家許すまじ、とここでも自らが槍を握って奮戦した。

 紆余曲折を経て、信長はとうとう清州織田家を滅ぼし清州城を得た。全盛期の信秀すら成し得なかった下剋上を見事やり果せたのだ。

 何度も言うがこの信長、決して戦が強いわけではない。信秀と比べても戦績自体は平凡、周囲の評価も弟の信勝の方が高いほどであった。それでもこの男は勝つべき時に勝つ。と言うよりも勝つべき戦がどんどんやって来る、と言った方が正しいか。

 祖父の代、父の代、当たり前だが守護殺しなどと言う事件は起きていない。信長の勢いが起こした珍事かもしれないが、今川からの勝利なら信秀も掴んでいる。

 ただ、信秀の時は事件が起きず、信長の時には起きた、それだけ。

 ちなみに信長躍進の立役者とも言える坂井大善本人は主君が切腹しようがお構いなしに全速力で離脱し、今川へ逃げ込んだそうだが、その後の消息は不明である。まあ、守護殺しの者を今川義元がどうするか、と思えば何となく察しはつくが。

 風が吹いていた。この男の背を、押し上げるかのように。

 天文二十三年、三国同盟の裏で織田信長は主家を倒し、暗殺された斯波義統の息子を擁立することで自らの織田弾正忠家を守護代格まで引き上げていた。

 弟との当主争いこそ残っているが、織田弾正忠家が尾張を手中に収めたことには違いない。華麗なる下克上を果たしたのだ。

 そうするつもりなど――微塵もなかったが。

「お見事です、殿」

「正しき行いを八百万の神が認めてくださった。それだけのこと」

 神風が、にわかにそよぐ。

 遠く駿府の、

「どうされましたか、父上」

「……いや、何でもない」

 今川義元の首筋を、風が撫でる。

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