第佰参拾話:キタジョウの乱
天文二十三年末、凪の状況にあった越後に激震が走った。
柏崎(刈羽郡)の方で突如、北条高広が反旗を翻したのだ。あまりの急な報せに春日山の皆が戸惑う中、景虎はさほど動揺することなく年明けに倒す、と暢気に構えていた。むしろ、信濃の地図を眺めていたりと心ここに在らずな様子。
ただ、それを見て直江実綱は、
「なるほど」
と一人得心がいった様子であった。しかし、景虎が真意を述べぬ以上、彼がその気づきを口にすることもなく、不穏な年末を迎えることとなる。
年が明けても景虎に動く様子はなかった。雪解けまで待つのでは、あの血気盛んな御屋形様が何故今回は動かないのか、などと城内では様々な憶測が飛び交う。
そんな中、
「……定満が?」
のんびりと構えていた景虎の下へ報せが届く。北条城、キタジョウ城の近くに居を構える琵琶島城城主、宇佐美定満が反乱者を討つべく独断で動き出したのだ。
これを聞き、景虎はこの件で初めて表情を曇らせた。
「如何なされますか、御屋形様」
「嬉しそうだな、実綱よ」
「まさか。国の一大事ですから」
「……老いたのぉ」
景虎は哀しげに目を伏せる。そして、
「待ち、だ」
「承知」
宇佐美の仕掛けに同調せぬ、と言い切った。
そして数日後、北条高広の前に宇佐美定満が敗走することとなった、という報せが届く。あの長尾為景を追い詰めたほどの男が、三十半ばと充実の盛りに至る北条高広の前に敗れ去ったのは、かなりの大事である。
宇佐美は春日山と連携せずに単独で打ち破るつもりだったのか、景虎へ連絡をしなかった。だが、周囲はそんなこと知り得ない。事実は宇佐美が反乱を咎め、景虎が動かなかった。それだけである。
「御屋形様、ご命令を。拙者らが切り崩して見せまする!」
「御屋形様!」
「今は動かぬ。俺はそう言ったぞ」
家臣らの提言を跳ね除け、宇佐美の敗走を知ってなお景虎は動かなかった。臆病風に吹かれたのか、など陰口を叩く者すら出て来る。
何しろキタジョウはあの宇佐美定満を、宇駿を破った相手なのだから――
○
天文二十四年二月半ば、長尾景虎は春日山郊外某所に供も連れずに訪れていた。手には蔵田の仕事により堺から取り寄せた南蛮渡来の酒を握る。
その場所は――
「久しいのぉ、兄上」
先代三条長尾家当主、長尾晴景の墓であった。二年前、『病』にて没した彼は諸々の事情を考慮した結果、墓すらも春日山の隅に追いやられてしまっていた。景虎としても当主交代の際、仮初めとは言え敵対関係の構図であった以上、最後だけでも丁重に、とするわけにもいかなかったのだ。
まあ、どちらにせよあの兄が盛大な葬儀を、大層な墓を望むとも思えないが。
「義旧の代わりが中々優秀でな。こうして珍しいものが手に入った。兄上にも飲ませてやろうと思ってな。生前は、孝行出来なかったがゆえに、の」
彼が死んだ年近辺は関東遠征、小笠原長時、村上義清の越後入り、果ては上洛など諸問題が目白押しであり、景虎も亡き兄を弔う余裕すらなかった。
そもそも景虎にそれが伝えられたのは上洛後のことである。さすがの景虎もその時点ではキレ散らかしていたが、それが兄の遺言と知ると何とか平静さを取り戻すことが出来た。最後まで弟のことを、越後のことを思っての差配であったのだ。
「美味いか? 俺は米の酒の方が好みだが、兄上は存外珍しいものが好きだったからの。もしかすると好みかもしれぬ」
墓に赤々と透き通った酒をかけ、景虎は腰を下ろす。
「最近は政景のやつに兄上の話を振るのが趣味でな。あやつ、どれだけ努めてもちろっと顔に出るから面白い。もちろん、恨んではおらぬよ。上田の仕掛けで俺の実力を示すことが出来、あやつも信濃できっちり仕事をした」
兄へ害を及ぼしたのが上田長尾当主、長尾政景なのかはわからない。今となっては下手人以外それを知ることはなく、あえて掘り返すこともない。
「それで俺の評価もさらに上がったしの」
ケラケラと笑う景虎。この場には誰もいない。
もはや弱さを見せられる相手など、片手で事足りる。
「……定満のやつが勇み足でな、やらかした。あの父上を追い詰めた男がだぞ? たまにふらっと離れに来て、様々なことを教えてくれた。兵法に関しては師とも呼べよう。そんな男が、この程度の仕掛けにも気づけなくなった」
実綱は気づいた。己が慌てぬ姿を見ただけで。定満も彼と比肩するほど、いや、戦場では彼を超える器であったはず。
なのに今、彼は渡るべきでない橋を渡った。
「まあ、どちらにせよ連中の仕込みは上々、相手は強いぞ、兄上。兄上もやってみたかったのではないか? 血沸く戦場だ。相手が強いのは、心地よいものぞ」
景虎は少し下を向く。誰も自分と同じ視点を持たない。実綱とて、自分の様子と言う引っ掛かりがあって初めて到達できた。宇佐美定満なら、とも思ったが、彼もまたその域になかったのか、老いたのか、どちらにせよ今は孤独。
誰もいない。居るのは敵のみ。
孤独を癒すのが味方ではなく、敵と言うのも面白い話であろう。
「武田、北条、今川、それに三好、敵ばかりが俺を癒すのだ」
まあ、今川も三好も目下のところ敵ではないが、いずれは必ず敵となる。景虎が自らの思うがまま戦えば、必ずそうなる。そう彼は思っていた。
そして、自らが敗れることとなっても、それはそれで――
「愚痴が過ぎたの。また良さそうな土産があれば持って来よう。ではの」
最後に話したのはあの時が最後。その後は死に目にも会えず、こうして春日山の隅にある墓を訪れるだけ。ただ、死んでいることは景虎にとっては救いでもあった。生きている兄に、心配をかけさせるような言葉は言えない。
腹を割って話せているのは、彼がここに存在しないから、であった。
そんな虚ろに、景虎は乾いた笑みを浮かべる。
死人に口なし、ここから景虎の弱さが世に露見することは、ないのだ。
○
四月、とうとうその報せが越後に届いた。
信濃にて善光寺別当、栗田鶴寿が武田方に寝返った、というものである。寺が裏切った程度、何と言うこともないと思うかもしれないが、善光寺は現代まで続く巨大な信仰の対象であり、この時代における影響力は絶大なものがある。
人、もの、金、全てが集う信濃最大の要衝とも言えるだろう。こちらが武田に寝返ったともなれば、北信濃における武田の影響力拡大は避けられない。
信濃征服に王手をかけたようなもの、である。
だが、
「来たか」
景虎はその報せを待っていた。
「実綱」
「確認しております。あとは存分に」
「おう」
まさしく調略の武田、水面下で動けば天下一品の切れ味である。景虎は信じていたのだ。武田晴信ならば必ず利を取る、と。
無理筋な手は打たない、と。
やはり最善手を打ってきた。それはつまり――
「さて、答え合わせの時間だ、高広よ」
武田と内通していたであろう北条高広にとっての最悪、でもあったのだ。
○
同月、景虎は即座に軍を編成し北条高広征伐に向かった。
「やってやる! 景虎を討てば全て――」
起死回生、決死の北条高広が第一回目の川中島にて景虎を苦しめた武田の夜襲を倣い、彼らの野営地を奇襲した。しかし、そこにはたき火などそのままに完全に空と成っていたのだ。北条高広は戦慄する。
「阿呆。端からぬしは負けておるわ」
全て見抜かれていた。そして北条高広の周りにパッと光が灯る。彼らを囲うようなそれは敵味方に対し展開が完了していることを示していた。
「まあ、どちらにせよ、俺に勝てるわけねえだろうがッ!」
包囲殲滅。奇襲を完全に返され、散り散りになって敗走する北条高広。何一つ、勝機の欠片すら景虎は与えなかった。
手心を加えることなく、完全に粉砕。
そのまま北条城へ彼らを押し込み包囲して、
「……申し訳、ございません」
あっさりと戦が終了する。
「ぶは、武田が信濃を跨ぎ春日山へ至る。ありえぬ話ではないのぉ。しかし、まだ早い。もしかすると俺がこちらへ動けば、連中も呼応した可能性はあるが……おそらく動かなかったであろうよ。最善手とは、手数少なく利を得るものだ」
北条高広は武田と内通し、反乱を起こし景虎を釘付けにしたところで、甲斐の軍勢を越山させ、春日山を急襲する、と約束していたのだ。
だが、武田は春日山には来ず、越後の眼が北条高広へ注がれている隙に善光寺へ手を付けた。それ以上の動きはないという確認も取れている。
要は武田の目くらましとして利用されたのだ。
「俺はの、野心家は好きだぞ。だが、馬鹿は好かん。さて、ぬしはどちらであろうな。のォ、キタジョウよ」
「今後は粉骨砕身、御身を主君と仰ぎ、忠誠を誓いますれば、何卒、お許しくだされ。必ずお役に立って見せまする!」
「ぶはは、よいよい。また隙あらば刺しに来い。今度は、上手くやれ」
「…………」
北条高広は何も言えない。ようやく彼は同じ立場に立ち、景虎の近くで顔を歪める長尾政景の気持ちを理解することが出来た。自分は優秀だと思っていた。野戦であの宇佐美も破ったのだ。手応えは在った。
だのに、景虎を前に何も出来なかった。何もさせてもらえなかった。
自分なら、そんな思いは粉々に打ち砕かれてしまっていた。才はある。器もある。三十代半ば、経験を積み脂も乗っている。
その上で、この絶望的な差は――
「さァて、次は信濃へ向かうとするかのォ。武田が待っておるわ!」
「はっ!」
武田との内通を見切り、その上で来ないとわかっていたから景虎は動かなかった。武田が来ると信じ無駄に足掻く余地すら与えぬための『待ち』。攻め勝つだけが景虎の強さではない。この読みの深さこそが、怪物の怪物たる所以。
誰がこの怪物に敵うと言うのだろうか。
「其の方では足りぬよ。御屋形様の相手は」
「……ぬしなら届くか?」
「届かぬと思ったから、今こちらにいるのだ」
政景は言う。格が違う、と。
もはや景虎は高広を見てすらいない。端から彼は信濃を見ていた。武田の動きを注視し、その上で武田の調略が勝ったのだ。
景虎はわかっていても、全てが露見するまでは動けなかった。そう、この彼方より撃たれた矢は、この構図を作られた時点で景虎に突き立っていたのだ。
だからこそ彼は笑う。
よくぞ、と相手への称賛を浮かべて。
○
天文二十四年、七月。
長尾景虎が再び越山し、信濃へ足を踏み入れる。
「来たぞォ」
「御屋形様に知らせよ! 景虎が来た、と!」
そのまま晴信不在の武田方を踏み潰し、善光寺の東に隣接する横山城で陣を張る。景虎が指揮する軍の、野戦での強さは常軌を逸している。
先の戦いでも体感した理不尽。されど、戦は野戦のみで決まるにあらず。
「……来たな」
「勝てますか?」
「そりゃあ、あちらさん次第だろ? 俺は俺のやり方を通すまでだ」
七月下旬、待ってましたとばかりに武田晴信もまた信濃へ出陣した。備えは充分、今度はこちらの土俵で戦ってもらうぞ、と晴信はニヤリと笑う。
再度、両雄まみえる。これが世に言う第二次川中島の戦い、である。
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