第佰弐拾捌話:奇跡のような
大都市堺は眠らない。現代に比べ灯りが貴重なこの時代に置いて、夜とは人間が活動する時間ではなかった。朝と昼に食事をとり、日が沈んだらさっさと寝る。そういう生活が大半であったのだ。だが、一部の大都市は夥しい灯りが夜を消す。
水面に映る星々の輝きをも消し去る人工の光が都市を包み、世界を照らす。夜もまた人間のものだと言わんばかりに。
「ぶはは、夜も賑やかよなぁ」
「夜とは思えない」
「駿府もな、こんな感じであったぞ。だが、世の中心であり、全てが集うとなればさすがに堺の方が勝る。人も物も、こちらの方が多い」
「そうなんだ」
「ああ。土地も人も物も、多い方が強いからの。人の世では」
舟の上で二人、輝ける水面に揺蕩いながら酒を酌み交わす。男同士の、武士同士の飲み比べのようなそれではなくちびちび、と。
「ぬしはたまに元気が失せるな。やはり、郷里が恋しいか?」
「違うけど、違わない」
「難しいのぉ」
千葉梅は今の生活に不満など抱いていない。景虎のおかげで自由に、好きなように生活させてもらっている。新しい相棒も懐いてくれて、春日山の地理も身体に染み付いてきた。道に迷うことも、水や食事も違和感を覚えなくなった。
自分はとても幸福なのだと彼女は思う。
だから――
「たまに申し訳なくなる。一人だけ、幸せに成ったから」
「旦那と息子、か」
「あと、元々の家族。周りの人たちも、そう。全員が死んだわけではないけれど……大勢がいなくなってしまったことには変わらないから」
「……そうか」
皆が不幸になった横で一人だけ幸せになっている。それが時折たまらなく、申し訳なく思うのだ。救って貰った相手に言うことではないが。
「とらはそういうの、ある?」
景虎は少し考えた後、輝ける水面を見つめて、
「……ある」
と答えた。
「聞いていい?」
「誰にも言っておらぬが……かつて俺は駿府で大きな失敗をした」
「何をしたの?」
「今日以上に勝ちまくった」
「……え?」
「覚明がけち臭くての、まあ路銀欲しさよな。特に何も考えずに賭け碁やサイコロ、何でもやった。あの頃は負ける気がせんかったからのぉ」
「……自慢?」
「まさか。俺はな、勝利の持つ魔性を過小評価しておったのだ。勝ち続ける者が持つ惹きつける力を、な。大それた目的があったわけではない。ちびっとはあったが、結局俺は俺自身を過小評価し、無駄な血を流させた。敵も味方も、破滅させた」
「…………」
今もたまに思い出す。彼らが浮かべていた灼熱のまなざしを。元服前の小僧へ向ける尊敬の、畏敬のまなざしを。彼らの献身を、忘れられない。
そんな彼らの視線を受ける自分に、怯えた者の眼も消えない。
「誰も幸せにはしておらん。俺も生き延びただけ。何だかんだと上手くいっておった秩序をな、俺が粉々に破壊したのだ。俺が関わったことで全員が不幸になった。水面を見ると思い出す、己の浅はかさを。そして、強さを」
「……とら」
「あれがある意味俺の始まりで、完成系でもあった。俺の戦は簡単だぞ。俺が引っ張り、兵が死力を尽くす。それだけだ。兵が俺を信奉する内は誰にも負けん。今回の上洛も、いわばそうさせるための箔、のようなものか」
大勢に囲まれてなお、食い下がった者たちがいた。期せずそうさせた自分がいた。人数差を覆しかけた士気、あれが長尾景虎の戦、その核である。
「話はそれたが、要は俺にも罪悪感の一つや二つはある、と言うことだな。童の頃のようにはいかん。俺たちも大人だ、誰しも脛に傷ぐらいはある」
「……そっか」
「そうだ」
こんな時代である。不幸などそこらにいくらでも転がっているだろう。しかし皆、それらに折り合いをつけて何とか生きているのだ。
「申し訳ないと思うことはある。俺のせいで傷を持った者もおろう。人生を台無しになった者も、沢山いる」
「……文さん?」
「その内の一人、だな。だが、だからと言って下を向いておっても意味がない。俺やぬしが神妙にしていれば、傷がふさがるか? 死んだ者がよみがえるか? 答えは否、だ。俺たちが何をしても、過去の出来事は消えない。取り返しはつかん」
景虎は酒を呷る。酒で押し流さねばならぬことが世の中には多過ぎる。
「とらの言う通り」
「ぶは、これでも御屋形様だぞ?」
「たまに忘れそうになる」
「ぬしは良い。ぬしは変わってくれるな。たまに傷が痛むこともあろう。眠れぬ夜もあるだろう。俺がそれを癒すことは出来ん。誰にも出来ん」
景虎は梅に酌をする。
「……それでも俺は願う。ぬしがこの世界の当たり前の生き方と反し、ありのままで生き抜くことを。それが俺のな、希望でもある」
「……」
梅は一気に酒を飲み干す。らしくない景虎の顔を見てしまったから。彼の滅多に見せぬ弱さが、ほんの少しだけ零れ出す。
「俺は周りを不幸にする。だが、ぬしだけは……いかんな、酔うておる。身勝手な押し付けだった。忘れてくれ」
しばし、水面に揺られながら二人の間に静寂が漂う。不思議と悪い気分ではなかった。騒がしいのも良いが、たまにはこういうのも悪くはない。
「今日は珍しいものがたくさん見れた」
「堺だぞ、当然だ」
「うん。当然」
夜風が二人の頬を撫でる。初めて出会った時、このような場所に二人で来ることになろうとは露とも思わなかった。あの頃はまだ、何も知らず、傷もなく、純粋なままでいられた。色々と積み重なった今とは違う。
だけど、
「楽しいね、とら」
「……ああ。そうだな」
変わらぬものも残っているのだ。水面に映るは大都市が輝き。夜が更けても変わらぬ煌々とした輝きの中、二人は笑い合う。
「ありがとう」
「気にするな。俺がしたいことをしているだけだ」
「だから、ありがとう」
「……ふん」
合縁奇縁、生まれも育ちも違う二人は今、異国の地で同じ舟に乗っている。そんな確率、果たして如何ほどのものなのであろうか。
「生きるよ。精一杯、私らしく」
「そうか」
奇跡のような出会いと別れ、そして再会。決して喜ばしいことではない。その過程で沢山傷ついた。そういう時代であった。
「とらのお願いだから、特別に」
「そ、それは忘れよ」
「忘れない」
「ぬう」
それでも再会したのだ。こうして。それはどう考えても奇跡で、辛いこともあったけれど間違いなく、今この時は幸せであったのだ。
戦いの時代にぽつりと浮かぶ、ひと時の休息である。
○
堺遊覧を終え、越後勢は再び京へ戻る。名目である物詣最終地点である臨済宗の大徳寺へ参禅し、三帰五戒、宗心の号を授かった。ちなみに三帰五戒とは仏法へ帰依し、五戒を守ります、と言うことであるのだが、戦国武将である景虎が不殺など出来るわけもなく、飲酒や乱取りなどの盗みなどもやめる気はない。
まあ、対外的なアピールでしかないだろう。
宗心は仏門における彼の名前であり、しばらく対外的な書などで用いることになるが、それもアピールの一環でしかない。
京の寺院にも認められましたよ、と言う箔であった。
十二月半ば、
「今から年越しに間に合うか?」
「いざとなれば走るさ。御屋形様の健脚を侮られてはならぬ」
「……!」
「越後は遠いのぉ」
とうとうこちら側での用向きを終えた越後勢は国へ帰ることとなった。行きは海路であったが、帰りは加賀、越中などを通る陸路である。
信濃、関東の件が落ち着けば、いずれは進出すべき土地なれば、安全に土地勘を養いながら歩めるのは好機でもあるだろう。
「あれが越後の」
「ええ。長尾弾正少弼殿、おっと今は宗心殿でしたか」
「どのような男でしたか?」
「私と同じ、天下静謐を願う正義の徒、でしたとも」
「そうか!」
越後勢の帰りを遠くで見送るは三好長慶と彼の側に付いた五摂家が近衛晴嗣は目を輝かせる。先頭を征く者の、雄々しく強く、何よりも美しい姿に彼は息を呑む。何故か胸の内がざわつくのだ。まるで運命の相手に『再会』したような。
そんな錯覚を。
「格好いいですわね、お兄様!」
「おや、長尾殿がお気に召しましたか、絶姫」
「ええ! とても」
「それは僥倖」
長慶はにやりと笑みを浮かべる。思惑通り、近衛の次期当主はあれを気に入った。その妹もまた、ともなれば恩を押し売りすることも可能。
恩を押し売り、首輪を繋げる。
全ては己が覇道のために。さっさと信濃と関東の争いを治めてこい、そしてもう一度京へ足を運び、己が右腕となれ。
長慶の我欲に満ちた視線は――
「……俺を繋げると思うなよ、蛇が」
景虎を逆なでする。似ているが故に相反する。相容れぬと景虎は思う。あちらも容易く懐に収められると思ってもいないだろう。
次が勝負、二人はそう思い互いに背を向けた。
何はともあれ、こうして長尾景虎の上洛は幕を下ろす。果たして彼が再び京の地へやって来ることがあるのか、それはまだこの時代の誰にもわからない。
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