第佰拾弐話:恋しとよ
評定、車座になって皆が意見を言い合う場である。
本日の議題は目下、越後にとって最も重要な分岐点である信濃守護小笠原長時の求めに対しどう応じるか、であった。
すでに受け入れること自体は決まっているが、その後どうするかも含めて皆で話し合おう、と言う場である。
「――すでに上杉殿からの了承は得ている。此度、小笠原殿を受け入れることで関東へ力を注ぐことは難しくなるだろう。目下、我々が戦わねばならぬ相手は武田となる。何か意見のある者はおるか?」
「先日の戦は無益であった、と言うことでしょうか?」
景虎の言葉に本庄繁長が噛みつく。彼含めて揚北衆の諸侯は半分も参じていないが、おそらく板鼻への遠征に出向いた全ての家がこう思っていることだろう。
関東へ行かぬのであればあの戦、何がために行ったのか、と。
「無益ではない。関東へはいずれ出向く。それが少し先延ばしになっただけ、どちらにせよ上洛は行い、その際にあちらの覚えも良くなるだろう」
「越後が、ではなく長尾家が、になると思いますが?」
「それは同じものだ。違うか?」
この場全員を見下ろすような眼。吹っかけた方の本庄繁長は息を呑む。道理があるのは揚北衆の方であるのに、言葉が詰まってしまう。
それは若い彼だけではなく――
「小笠原殿が関わってくる以上、京は信濃の方を重要視されるでしょう。そもそも北条は上杉家よりもある意味で京との繋がりは強い。名門伊勢家ですから。上杉家を前面に押し出したとて、果たして大義を得られたかは賭けでした」
そんな御屋形様の姿を見て悦に浸りながら、直江実綱は皆を説得するために道理を説く。より強くなった彼を支えるのは己なのだと示すかのように。
大熊や柿崎ら、一部の者は眉をひそめているが。
「しかし、信濃であれば確実に大義を得られることでしょう。そこで実績を積み、京の覚えが良くなれば、次こそは関東管領、と言う目算です」
超名門の小笠原氏、彼らの旧領を取り戻すための戦い。まずはこれに従事し、京での立場を強める。そこが肝要なのだと実綱は説く。
「そこで提案があるのですが」
「申せ」
景虎の返しに、実綱は嬉々として皆へ向かって語る。
「小笠原殿を迎えたとして、上杉殿のように越後へずっと置いておくわけにもいきませぬ。彼らもそれは望まぬでしょう。京へ上りたいはず。ですが、実弟である鈴岡城城主小笠原民部大輔殿、こちらも気がかりである、と書状の中には記載されておりました。そこで一つ、彼らを今川へ送りつけてはどうか、と言うのが私の案です」
「……今川? 何故?」
諸侯の戸惑いをよそに、実綱は続ける。
「武田、今川、北条、この三国は連携を深めております。血族同盟を結ぶ動きも見られ、しばらく彼らの結束は揺るがぬでしょう。武田は信濃及びその先の越後、今川は西の尾張、そして北条は関東諸侯、これらに注力する利益がある以上、三国の同盟は成る。が、当然一枚岩ではありません。公家などを招き京との繋がりを重視する今川にとって小笠原氏は跳ね除けられる存在ではない。戦で味方は出来ずとも、弟共々保護して京へ送る、ぐらいのことはすべきと考えるでしょう」
「同盟への毒となり得る、と?」
「それほどの効果はないでしょうが……物事は何事も積み重ねですし、何よりも小笠原殿にとってこれ以上ない条件となるわけです。今川が仲裁すれば、弟の無事もそれなりに現実味を帯びて来る。ならば、乗らぬ理由がない」
「なるほど」
面倒な名門をこれ以上越後に招くよりも、さっさと厄介払いしてしまった方が越後勢としては楽である。まあ、一番楽なのは船で越前、琵琶湖を通り京へ、と言う貿易船に載せてしまうのが楽ではあるが、弟のこともある。
そこまでケアしているのでは誰も何も言えないだろう。
「北条へは?」
「もちろん、事前にその旨を流します。北条も京と事を荒立てる気はないでしょうし、すんなり通すかと。遠回りですが、八方丸く収まります。その上で小笠原殿には我々がこの段取りを組む代わりに、京でよい話を広めて頂ければ、十二分」
超名門の信濃守護が直接、京で越後の長尾景虎が味方であること、彼の力を借りたいと申せば、道理は充分通る。
京から大義を得られる確率がぐっと上がるのだ。
「俺に異論はない。皆は?」
「ありませぬ」
今出来る最善手。この辺りのソツの無さはやはり直江実綱、と言ったところか。
「ならば、段取り含め此度の件、直江神五郎に一任する」
「励みます」
嬉々とする実綱をよそに、幾人かは表情を曇らせていた。あのようなことがあっても景虎は実綱を重用し、実綱もまたそれに応える。
一切変わりない関係性がそこに在った。
「他に意見のある者はいるか?」
誰も声をあげない。
「ならば、これにて評定を終える。各自、戦が近い。心せよ」
「はっ!」
本日もつつがなく、評定は終わりを告げた。
○
「持の字。館の人員を一部、小笠原殿の供に回す。上野国の長野殿が守る板鼻を通過する際、入れ替えることも可能ゆえ、希望を募って参れ」
「は、はい!」
評定を終えた景虎から甘粕景持へ書面が手渡された。そこには細かな情報が記されている。各人の特徴、考え方、千葉梅への感情も含めて――
「……これは、文殿が?」
「ああ、そうだ」
「承知致しました。上手く、使いまする」
「任せた」
ぐっと唇を噛み締め、甘粕は任された仕事を果たすために動き出す。その後ろ姿を見送りながら、景虎はかすかに目を伏せた。
そして、
「何用だ?」
背後の直江実綱に声をかける。
「いえ。大役を任命頂き、改めて感謝を、と思いまして」
「ぬしが最も適役と思ったまでだ。感謝される謂れはない」
「それでも、です」
ねっとりと絡みつくような視線。景虎は幼少期からこの男が嫌いであった。彼が察するように意思表示もしてきた。それでも視線は変わらない。
嫌われることを厭わない。否、むしろ嫌われたいとすら願っている。実綱はきっとこう願っているのだ。長尾景虎は、唯一無二であるべきだ、と。
誰かと交わることを是としない。その誰かには自分すら含まれる。だから平気で嫌われるようなことも出来るし、その上で優秀さを使って切り離すことも許さない。
ずっと、へばりついている。物心つく前から。
「時に御屋形様」
だが、
「何だ?」
「我が愚娘を上手く処理して下さったようで、そちらも礼を言わねばと思っておりました。本来、私がせねばならぬこと、お手を煩わせてしまい申し訳ございません」
「構わぬ。あれには随分世話になった。思えば、俺にとってあれは唯一の友であったように思える。良き友、良き理解者であった」
「……御冗談を」
その視線が陰る。揺らぐ。
「ぬしにも感謝しておる。大事な娘を良く預けてくれた。婚期を逃したのは俺のせいだろう。あれにつらい決心をさせてしまった。すまぬな」
「……恐縮、です。それで、御屋形様」
「何だ?」
「愚娘がよくわからぬことを、申しておりました。大望が、どうとか、を。よろしければ私にも一つ、聞かせて頂ければ、と思い――」
この男を揺らす方法は、とても簡単なことであったのだ。それを彼女は身を以て教えてくれた。もう何も怖くはない。気持ち悪いとも思わない。
「知らぬなァ」
「ッ⁉」
「何かの勘違いではないのか? 俺が知らぬことをぬしに教えることなど出来ぬ。知りたくば娘に聞いて……おっと、すまぬ。それは出来ぬ相談であったか」
「……そう、ですな」
「まあ気にするな。ただの世迷言だ」
「……はっ」
実綱の顔が歪んでいる、これ以上ないほどに。誰かが知っていて、自分が知らない。それが景虎のことであるのなら、彼はそれを許すことは出来ない。
簡単なことであったのだ。本当に、馬鹿らしいほどに。
○
林泉寺の境内に一人の女性がいた。かつて、そこには長尾虎千代と言う少年が閉じ込められており、自分も幾度となく訪れた思い出の場所である。
栃尾も思い出深かったが、やはり一番はここであろう。
「懐かしいですねえ」
「……はい」
胸が詰まりそうなほど、多くの思い出があった。当時は腹立たしく思い、今も冷静に考えるととんでもないことばかりやらされていたが、それでも今はこう思う。
あの頃に帰りたい、と。
「あの子を愛してくれて、ありがとうございます」
「……いえ、私は――」
天室光育の言葉を受け、少し詰まった少女は顔を上げ、
「そうですね。はい、愛しておりました。たぶん、ずっと前から」
そう言い切った。晴れやかな顔で。
「……行きますか」
「はい」
染衣をまとう少女、直江文は思い出深き林泉寺を、春日山を発つ。丁度林泉寺の住職を辞し、別の寺へ隠居しようとしていた天室光育と共に。
彼女はこれより出家し、尼寺に入る。修行し尼僧となるのだ。
尼寺は男の立ち入ることは出来ぬ世界であり、寺社の力は武家にも引けを取らぬものである。彼女が父の力を振り切るには、この道しかなかった。
彼女は自ら希望し、この道を選んだのだ。
○
山門では多くの僧たちからのねぎらいを、別れの言葉を貰った。すでに知らない顔も多いが、それでもあの頃を知る者はたくさん残っている。そんな彼らの言葉が胸に染みる。ここにも故郷があったのだと、思えたから。
金津家など、方々に挨拶を済ましながら彼女は思い出す。父と共に春日山へきて、綾が色んな場所へ引きずり出してくれた。虎千代とも会った。
なんて美しい顔立ちなのだろう、と思ったのも束の間、あまりの口の悪さになんだこいつ、と思ったことも今となっては懐かしい。
「御達者で」
「持の字もね」
「は、い」
泣くまい、と歯を食いしばりながら見送る甘粕。彼ともそれなりの付き合いとなった。最初は景虎のそばから頑として離れようとしなかったが、少しずつ打ち解けた。もし彼との間に子どもがいたら、こんな子なのかな、なんて思ったりもした。
「……文さん」
「梅さん、あの人のこと見ていてあげて。危なっかしいから」
「……見るだけなら」
「充分です」
男装をして見送りに来た伊勢姫こと、千葉梅。本当に卑怯なほど美しい人だと思う。虎千代に会った時の衝撃、それと同じくらいの衝撃を覚えた。
彼が彼女を見る眼を見て、心が砕けそうになったこともあったか。髪を切って男の格好をしてもこれなのだから、どうやっても勝てない。
そもそもが片思い、勝負にもなっていなかったのだと思う。
「…………」
「ありがとうございました、御両人」
「いや、某らは何も出来なかった。許されよ」
「いいえ。柿崎殿は命の恩人です。私に出来ることがあれば何なりと」
「……うむ」
柿崎、斎藤らも見送りに来ていた。わざわざ大熊も遠くで会釈してくれていた。たかが女の見送りに、大仰だな、と少し笑ってしまう。
肩が軽い。武士の女を捨てるのは、こんなに心地よいものだったのか、と思う。これから大変だとは思うが、自らが選んだ道なのだと胸を張って言える。
それはとても爽快で、痛快な気分であった。
ただ一つ心残りがあるとすれば、
「来ませんでしたね」
「当然です。あの人は今、この越後の国主なのですから」
「実感が湧きませんね、いつまでも」
「ふふ、そうですね」
最後にひと目、見ておきたかった、ぐらいか。
木々に挟まれた往還を、一人の僧と尼僧の格好をした女が行く。
その途中で、
「世の中はぁ、ちろりに過ぐる、ちろりちろり、とな」
小歌を口ずさむ男がいた。琵琶を手に、鬼の面を付けて、ただ歌っている。その姿を見て、文は眦に涙を浮かべた。本当に馬鹿な男なのだ。
立場もわきまえずに、昔からそうであった。
「うたえやうたえ」
低俗な庶民の歌である。高貴な者が歌うべきではない。綾も虎千代も、本当に馬鹿なのだ。それに付き合っていた自分も、きっと大馬鹿であった。
「恋しとよ、ゆかしとよ」
気づけば文もまた、小歌を口にしていた。すれ違う彼はそれに上手く節をつけて、歌を合わせてくれた。伝わったかな、伝わっていないかな。
「「うたえやうたえ、うたかたの」」
涙を流しながら、彼女は我が道を征く。鬼の面をした男は何も言わずにただ歌う。あの日、大事な人を失ってから握ろうとしなかった琵琶を握って、ただただ歌う。誰がために、愚問であろう。今だけは、今この瞬間だけは――
「「――いざ、遊ばん」」
あの頃のように、ただ二人きりで。
そんな幻想を、見せてくれた。
だから――
「何せうぞ、くすんで、一期は夢よ、ただ狂へ!」
最後は背中を押す。きっと、誰に言っても彼の道は褒められたものではない。誰もが否定する。文とてそうしたい。彼だってそう思っている。
それでも度し難き『怒り』があって、それが彼の内側を焼くのであれば、せめて今だけは、この瞬間だけは、意に反したとして、背を押したいと思った。
どうせ一生は夢だ、ただ狂えばよい、と。
「……ありがとう、文。愛していたよ、俺も」
感謝と惜別を込めて、景虎は彼女には絶対に届かぬ言葉を漏らす。自分を理解してくれた、きっと唯一の人。
愛を込めて――ただ送る。
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