第佰拾壱話:男と女

「これを」

「……ああ」

 直江文より手渡された文には幾人かの名前が列挙されていた。それは彼女が裏から手を回していた中で、ひときわ『彼女』への疑心が強くなっていた者たちの名である。元々は関東諸侯の名門、伊勢守家に仕えていた者たちなれば、仕方ない面もある。すでに跡継ぎもなく、御家の再興も不可能である中、縁もゆかりもない土地へ連れてこられた。そこで『彼女』が当時とはまるで異なる姿を見せているのだ。

 生き生きとすればするほどに、反発してしまうのも仕方がない。

「すまぬな」

「上手くお使いください、御屋形様」

「……おう」

 この前の一夜、それ以来どうにも文とは距離が出来た。彼女が理解出来たとは思えないし、理解したとして結局のところ彼女からすればふざけた話である。

 距離が生まれても、こうして協力してくれるだけ良いのかもしれない。

「さて、どうしたものかのぉ」

 関東諸侯の家に仕えていた者たちなれば、その頂点に君臨していた関東管領上杉憲当に鞍替えさせるのが一番丸い方法である。

 しかし、上杉憲当と言う男は権威に辟易している節がある。だからこそ、所作や対応の甘い若造の甘粕を気に入り、失態を重ねる度にお呼びが増えるようになってきていた。それを考えると、関東管領を引きずる彼らを上杉に当てるのは逆効果。

 いっそ関東に戻すのも手である。すぐさま北条が巻き返してくるだろうが、現状は関東諸侯が一時的に勢いを取り戻していた。

 越後で再配置するか、関東へ戻すか。

 ただでさえ北信濃の情勢が武田へ完全に傾きつつある中、些事とは言えこのようなことに考えを巡らせねばならないのは中々に骨が折れる。

 戦であればいくらでも考えつくのに――人間関係とは面倒くさいものである。


     ○


 晴景から景虎へ代替わりし、春日山で一番変化した部分は春日山城の拡大にあった。これは黒田の乱を経て、晴景が債権及び拡大の流れを創り、それを景虎が上手く引き継いだ形となっていた。さらに山を開き、為景の代よりも巨大とする。そうして生まれた土地に、城下町からいくつかの機能を移転していた。

 例えば以前は城下町や各地に散らばっていた家臣、主に直江ら旗本の館を春日山城内に設けた。当然、景虎の館も今は城内にある。最近では独立性を持った国衆もいくつか春日山城内に館を移しつつあり、着実に中央集権化が進んでいた。

 城下の方では景虎のことを「御実城様」と呼ぶ者も出て来たとか。

 それだけ景虎は城へ、目につくところへ人を置きたがっていたのだ。出来れば力のある国衆も、その中でもひと際厄介な揚北衆も自らの腹の中、春日山城内へ取り込みたいと考えていた。そちらの方が何をするにしても面倒事が少なくて済む。

 この辺りは晴景の方針とは真逆であった。彼はより現場に近い所へ頭を置き、下からの要望や意見を吸い出そうとしていたが、景虎はその辺りに興味がない。何しろ何かを創り出すつもりも生み出すつもりもないから、下の意見、つまり民の意見などどうでもいい、と言うのが根底にあるのかもしれない。

 頭さえ近くに揃っていればどんな決定も迅速に出来る。これが中央集権化のメリットであり、それはそのまま分権化の良い部分を捨てた形となる。

 もちろん権利を中央に吸い上げるのだから反発は必至。現在進行形で揚北衆らが中央へ参じる気配はない。これからも長い時間がかかるだろう。

 と言うのは丸々余談で――

「文、話があります」

「は、はい」

 誰よりも早くに景虎の招集に応じ、春日山へ館を移した直江実綱が実の娘を呼び止める。あまりないことで、文の顔に緊張感が走っていた。

 用件は、

「大したことではありませんよ」

 どうやら、彼女にとっては大したことのようである。

 新築の匂いがようやく薄れてきた頃合いで、春日山城内の館にて親子が対面する。一人は笑顔、もう一人は平静を装っているが若干表情が硬い。

「良縁です。選びなさい」

「……っ」

 実綱は笑顔のまま、いくつかの名前が刻まれた書面を彼女の前に差し出す。そこには越後の国衆、今後直江が発展していくために必要な縁の名が並ぶ。

「私は、その……まだ――」

「早くありません。むしろ、遅過ぎるほどです。武家の女が二十を過ぎて独り身などと、よほど悪い条件なのだと見られかねません。直江の恥です」

「……しょ、承知しております」

 この時代、武家の女であれば十代で嫁ぐのが普通であった。稀に一桁台の年齢で嫁ぐ者もいたほどである。つい最近も北条と今川の縁談の際、今川の嫡男氏真が十代中頃なのに対し北条の娘が齢六歳であることが問題となっていた。

 さすがに六歳はまずいと今は据え置かれている状況らしいが、それでもそういう時代であることは想像に難くない。

 現状、直江文はいかず後家と見られても仕方がないのだ。

「御屋形様に嫁ぐ可能性があれば、と思い仕えさせておりましたが、その立場も関東から来た伊勢姫とやらに奪われ失ってしまった。直江の娘はどうするつもりなのだ、と問われることも増えて参りました。良い笑いものですねぇ」

 対面のための結婚。そこに関して嘘はないだろう。間違いなく伊勢姫が来て、千葉梅の存在によって直江文は立場を失った。女人を近づけない景虎が唯一、傍に置く女性と言う独自性を彼女は喪失してしまった。

 その結果残ったのは、御家の恥。

「お、御屋形様と相談、させてください」

「何故?」

「それは、その、わ、私は御屋形様の、遊興の相手をして――」

「いえ。違います。何故、私の娘をどこで使うか如き話を御屋形様の耳に入れねばならぬのか、と聞いているのです。まさか、くく、御屋形様にとって己如きが、些かほどの価値がある、そう思っているのですか? 実に、傲慢な話です。弁えろ、女」

 実綱は文の髪を掴み、床に叩きつける。

「女など血縁同盟を結ぶ政略の道具に過ぎん。縁を造り、子を成し、そうして初めて価値が生まれるのだ。役に立つのだ。遊興の相手? 馬鹿が。そんなもの何処ぞで拾ってきた甘粕とやらの野猿にでもやらせておけ。ぬしは女だ。それはぬしの役割にあらず。わかったら言うことを――」

「何を、焦って、おられるのですか?」

 文は自らが最も恐れる存在を、睨め上げる。

「その眼は、何だ?」

「もし、それをお耳に入れ、御屋形様が私を傍に置きたがったら、どうされますか? 女の私ではなく、直江文を、隣に置きたいと申されたら、どう――」

 ドン、と実綱は鬼の形相で、彼女を再度床に叩きつける。

「黙れ」

 文の鼻から血が零れ、口の端も切れた。

 それでも彼女は、

「私は、御屋形様から大望を聞かされております。父上、直江神五郎実綱は、御屋形様から何か聞き及んで、おりますか?」

 何かに焦る父を笑顔で、嘲笑う。

「……御屋形様には出家したと伝えよう」

 怒りの形相はかき消え、残ったのは純然たる殺意のみ。実綱からすれば道具に噛みつかれた、痛い所を貫かれた形。しかも、道具が先んじて長尾景虎の大望を、己すら知らぬそれを知った、と言った。それは断じて許せぬことである。

 実綱は無言で太刀を掴み、すらりと引き抜く。彼からすれば壊れた道具を処分するだけ。些かの躊躇もなく斬り捨てられるだろう。

 だが、文に後悔はなかった。

 言ってやった。あの冷徹な、女を道具としか思っていない男に、母親を、乳母を視界にすら入れなかった男の、視界に入ってやった。

 怒りを抱かせ、羨望すらも与えた。

 充分だ、と思った。

(梅さん、どうか、あの人を、あたしが愛した彼を、止めてあげて)

 最後に浮かぶのは、長尾虎千代との日々。母親や乳母以外に対して初めて本性をさらけ出したこと、その後で守ってもらったこと、遊び相手が欲しいから無理やり囲碁を覚えさせられたこと。本当に碌な思い出がない。

 長尾景虎との栃尾での日々は、嗚呼、今思うと勘違いだったのかもしれないけれど、本当に煌めいて、このままずっと、そう思っていた。

 だけど、そんな彼は大きな『怒り』を抱えていた。

 今、父が己に向けるものの、何倍も、何十倍も、何百倍も巨大な感情の渦。輝かしき人生を捻じ曲げ、一人の神童を獣へと、龍へと変えた『怒り』。

 自分ではそれを癒すことは出来ないけれど、彼女なら――

 実綱は太刀を振りかぶり、彼女は静かに目を瞑った。

 ただ一つの感情を抱いて。

「失礼するッ!」

 彼女の首元にまで振り下ろされた太刀は、野太い声によって止められていた。実綱は無言で太刀を鞘に納め、声のした方へ向かう。

 その声の主は、

「……何用か、柿崎殿」

 柿崎景家であった。断りの言葉一つで館の中に入り込み、腰に最近流行りの打刀を差した状態で実綱が出向く前にこちらへ足を向けていたのだ。

「信濃守護の処置について相談に参った次第」

「それは私の領分、柿崎殿には関係のない話であったと思いますが? そもそも、こちらが招く前に館へ入るなど、少し無礼ではありませぬか?」

「申し訳ない。某、些か教養に欠けておりましてな。是非、その辺りを智将と名高い直江殿にご教授頂きたいと思っております」

 言葉こそ穏やかだが、まとう雰囲気は話し合いのそれではない。状況次第では斬る。そんな雰囲気が全身から漂っている。だからこそ、実綱もまた太刀を握ったまま殺気の方へ向かっていたのだ。いつ、破裂してもおかしくはない雰囲気。

 長尾家の序列こそ直江の方が上だが、それは長尾の中での話。柿崎は独立性を持った国衆でもあるのだ。あくまで序列など形式的なもの。

 状況次第でいくらでも揺れ動く。

「…………」

 奥から様子を覗きに来た文を、実綱の肩越しに柿崎は見た。これが与板であれば誰に聞き咎められることもなかっただろうが、ここは春日山城内。何処に耳があるかはわからない。実綱にしては珍しく、無駄な物音と声を張り過ぎていた。

 だから偶然近くを通りがかった柿崎が気付けたのだ。

 状況は判然としない。だが、柿崎は彼女に向けて「逃げろ」と言う視線を送る。彼女は頭を下げ、走り出した。

「失礼。少々家人が――」

 追おうとする実綱の肩を掴む柿崎。越後の中でも武勇名高き男である。景虎と共に戦をしたことこそあまりないが、柿崎景家を知らぬ武士など越後にはいない。

 伝わる力、それを実綱は不愉快に思う。

「何の真似ですか?」

「ご相談を」

「……戯言を」

「働き者のおなごは大切にされよ。家の宝だ」

「くく、そんなにあれが欲しいのなら、あげましょうか?」

「……直江の、口には気を付けよ」

 柿崎の力が、強まる。それに対し実綱の顔も、

「放せ、不愉快だ」

 強い不快感に歪む。どちらもひとかどの武士、最後にモノを言うのは武力である。どちらもそれには自信があった。方向性は違えども――


「双方、抜かば斬る」


 その声が届いた瞬間、二人の戦意がかき消える。背中にドッと、嫌な汗をかく。館の塀、その外側にありながらただ一言で二人を征した声は、

「大熊、殿」

「…………」

 大熊朝秀のものであった。

「事情は知らぬし興味もない。だが、御屋形様の膝元を血で汚すというのなら、拙者が相手仕る。如何致すか?」

 互いに剣の腕には自負がある。が、それもさすがに相手が悪過ぎる。しかも序列まで上ゆえに始末が悪いのだ。大熊家は越後上杉から続く長尾家の段銭方、現代で言えば財務大臣のような役職に就く人物である。腕も位もある相手では――

「相談、だそうですよ」

「その通りだ」

 二人はバツの悪そうな顔で誤魔化す。すると、

「では、拙者らも混じろうか」

「ですなぁ」

 よっこいしょ、と塀をよじ登ってくるのは大熊ともう一人、本庄実乃であった。いたのか、と二人は顔を歪める。これまた大物。

 まあ、良く考えればこの辺りには大物しか住んでいなかったが。

「……なるほど、城内と言うのは中々難儀なもので」

「周りは武士だらけ。こう殺気を漏らされてはかなわぬ。大熊殿でなくとも気付く者は少なくなかろう。のお、斎藤殿」

「……!」

 ひょっこり顔を出す斎藤朝信は、そもそもこちらへまだ居を移しておらず、柿崎同様偶然通りがかったようである。まあ、殺気には敏感なのだろう。

「今後は、気を付けますよ」

「そうされよ」

 大熊が場を治め、そのまま期せず、これから迎えることとなる信濃守護、小笠原長時の話となる。直江実綱の珍しい失態について、触れる者はいなかった。


     ○


「……何が、あった?」

 髪が乱れ、血を流す直江文を見て、長尾景虎は僅かに身震いする。文から見てわかるほどの『怒り』が彼の中で駆け巡っていた。

 それがわかった。わかってしまったから――

「この前、あたしが勝った分で、お願いしていい?」

 だから、

「何の話だ? いや、そんなことどうでもいい。誰にやられた、この俺のモノに手を出すとは、ぶは、不届き極まる所業よ。八つ裂きにしてくれるッ!」

 最後くらいは、

「あたしたちの間で勝った負けたなら、囲碁の話に決まってるでしょ。落ち着きなさいよ。焦ってたら、話、出来ないじゃない」

 昔のように、

「……文、何を、考えておる?」

「林泉寺、栃尾、そして春日山、この前の対局で、通算でもあたしが勝ち越したの。覚えてなかったでしょ?」

 ありのままで、

「あたしは全部、覚えている」

 ただの直江文とただの――

「拒否は出来ないわよ。昔、散々こき使ってくれたんだから」

 長尾景虎、いや、長尾虎千代との繋がり。

「これはそのお返しだから」

 遊興を介し、確かに二人は繋がっていたのだ。

「だから、ごめんね」

 あの日、あの時、誰よりも。

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